初夜の誓い
◇レイの婚礼の夜
ーー大きい。
レイは黒い瞳を見上げて、隣の夫となる男ーーセージを見つめた。
小さな自分には、不釣り合いなほど、身体が大きい。
腕はレイの太ももよりも太い。
セーヴ城の広間には百を超える灯火が並び、白い壁が金色に輝いている。
香の代わりに、海の塩気と果実酒の甘い匂いが混じり合っていた。
挙式は短く、形式的だった。
けれど――披露の宴は、まるで王の婚礼のように盛大だった。
海運を治めるロス家の威光を示すように、
客人たちの笑い声と杯の音が絶えず響いていた。
レイはその中心に座っていた。
花で飾られた椅子に背を預け、薄絹のヴェールを揺らしながら。
笑うべきなのに、笑えない。
胸の奥では、潮騒のような不安が止まらなかった。
「緊張してる?」
隣から低い声がした。
顔を向けると、日焼けした肌の青年が柔らかく笑っていた。
淡い金髪が灯に照らされて光る。
「・・・少しだけ」
レイは小さな声で答えた。
「俺もだよ」
セージはそう言って、果実酒を二つの杯に注いだ。
潮風に混じって、甘い葡萄の香りが立ちのぼる。
レイはそれを口につけることはできなかった。
外では波の音が響き、
無数の灯火がゆらめく夜が、ゆっくりと更けていく。
披露宴が終わりに近づくころ、
海の外では波が高くなり始めていた。
風が灯を揺らし、杯の残り香が空気に溶ける。
セージは最後の客人に挨拶を終えると、
振り返ってレイを見た。
「・・・疲れたでしょう。その前に少し、別の部屋で話そう」
その言葉に、レイの背筋が固まった。
――これが、初夜?
恐る恐る顔を上げると、セージは淡く微笑んでいた。
その笑顔が優しいのか、それとも何かを告げるものなのか――
レイには判別がつかない。
背後では、乳母のサキが控えていた。
けれど彼女も動けず、息を殺して立ち尽くしている。
「この服は窮屈だ。レイも、着替えた方がいい」
セージはそう言いながら、胸元のボタンを一つ外した。
――サキは言っていた。
“セージ様が望まれたら、応えるのです。それが妃の最初の務めです”と。
レイは膝の上で拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込むほどに。
「・・・はい」
小さく絞り出したその声は、震えていた。
「それでは、部屋で待っているよ」
セージは静かに言い残し、背を向けて会場を後にした。
レイは微動だにできなかった。
灯火が揺れ、外の波が壁を叩く。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた気がした。
――潮の音が、怖い。
サキがそっと近づき、レイの肩に布を掛けた。
「・・・レイ様」
その声も、遠く聞こえる。
レイは立ち上がり、震える手で胸元を押さえた。
――行かなければ。妃として。
でも、私の身体はまだ大人になってない。
◇
部屋に戻ったサキの頭の中は、目まぐるしかった。
――本来であれば、初夜のための衣装を整えなければならない。
けれど、目の前にいるこの幼い少女に、そんな装いをさせるのは、あまりにも酷だ。
迷った末に、サキは薄い素材の淡いピンクのドレスを手に取った。
光を受けると、まるで花びらのように透ける布。
それが、この夜にふさわしい唯一の“守り”のように思えた。
レイは黙って立っていた。
その瞳には怯えも涙もなく、
ただ、受け入れるしかないという静かな諦めがあった。
「・・・レイ様。私も、おそばにおります」
サキは震える手で、そっとレイの手を握る。
「・・・ありがとう」
レイの手は冷たく、サキの手よりも強く震えていた。
サキは黙って灯りを整え、静かに扉を開けた。
「参りましょう。セージ様がお待ちです」
廊下の先、遠くで波の音が響いている。
レイは一歩、また一歩と歩みを進めた。
――姉上。
あの人は、私にこんな思いをさせたくなくて、“自分が代わりに行く”と言い張ったのだ。
城を出るとき、自分の名を呼び、泣き叫んだ姉の姿が脳裏に浮かぶ。
「・・・姉上」
掠れた声で名を呼ぶ。
けれど、その声は虚しく廊下に吸い込まれていった。
風が吹き抜け、灯火が小さく揺れる。
サキの足音とレイの足音が、静かな夜に重なって響いた。
そして――。
無情にも、扉の前に辿り着いてしまう。
セージが待つ部屋の前。
ここから先は、もう戻れない。
レイは小さく息を吐き、震える手で胸元の小袋を握りしめた。
――母上、どうか見守っていてください。
サキは目を閉じ、そっと背を押した。
「・・・行きましょう、レイ様」
灯りの明滅の中、少女の背が、静かに扉の向こうへ消えていった。
◇
レイはゆっくりと扉を開けた。
部屋の中は、思いのほか明るかった。
香の煙がゆらゆらと漂い、
波音をやわらげるように、小さな音楽が流れている。
セージは窓際の椅子に腰をかけ、外の海を見ていた。
「・・・お入り」
レイが小さく頭を下げて部屋に入ると、
セージは立ち上がり、彼女に背を向けたまま口を開いた。
「この城は、波の音が近いだろう?」
「・・・はい」
「最初は眠れない。でも、すぐ慣れる」
その声は静かで、怒りも欲もなく、
ただ穏やかに、少女の心を解そうとしていた。
「・・・はい」
レイの返事はかすかに震えていた。
セージはその様子に気づいたのか、振り向いて少し真面目な声を出した。
「怖い思いをさせて、ごめん。急な婚礼だったと聞いている」
レイは驚いて顔を上げた。
堂々とした青年が――まっすぐに頭を下げたのだ。
「・・・そんな。どうかお顔をお上げください」
慌てて言う声が、震えていた。
「本当のことを言うと、俺も驚いたんだ。 “この子が妻になる”と聞かされたときに」
そう言って、セージは苦笑を浮かべた。
「でも、君の瞳を見て納得した。強くて芯がある。――モザ家の血だ」
「・・・私が、ですか?」
いつも“父親に似ている”と言われてきた。
けれど、今この青年は“母の血”を見抜いた。
「ああ。その強い瞳は、紛れもなくモザの血を継いでいる」
セージは、ゆっくりとレイの頬に手を添えた。
「俺たちは従兄弟同士だ。この領を豊かにするために、共に力を尽くそう」
「・・・はい」
「これから先、わからないことがあれば何でも言ってほしい。
君はもう、この城の“客”じゃない。ここが、君の家だ」
その言葉に、レイははっと息を呑む。
――“家”。
その響きに、ユウとウイの笑顔が一瞬よぎった。
もう、あの部屋には戻れない。
けれど――この人となら。
「・・・はい」
レイは静かに頷いた。
セージがそっとレイの手を握った。
男の人と手を握るのは、初めてだった。
思わず息が詰まる。
セージは苦笑を浮かべる。
「思っているようなことは、しないよ」
レイは、はっと顔を上げた。
「今日から夫婦だが、まずは“信頼”を築くのが先だ」
「・・・ありがとうございます」
その声は震えていたが、もう怯えではなかった。
安堵の息が、静かに漏れた。
――良かった。恐れていたことは、何もなかった。
セージは黙ってレイを見つめた。
華奢で幼い少女。
インクのように黒い髪、切れ長の瞳。
その奥には、まだ幼さの中に強い意志が宿っていた。
――今はまだ、触れられない。
だが、数年のうちにきっと、美しい女性になるだろう。
セージは苦笑しながら、レイの肩にそっと手を置いた。
「俺は気が短い。・・・だから、早く大人になってくれ」
レイの瞳が驚きに見開かれ、その頬が一気に赤く染まった。
「・・・は、はい」
その姿に、セージは柔らかく笑った。
「海辺の夜は冷える。風邪をひかぬように」
窓を閉めると、静かに背を向けた。
「おやすみ、レイ」
レイは先ほどまで握られた手の温もりを思い出す。
――この人は、怖い人じゃない。
波の音が、少しだけ優しく聞こえた。
「・・・おやすみなさいませ、セージ様」
その囁きが、潮騒に溶けていった。
そしてその夜、ふたりの間に生まれたのは、
愛ではなく――“信頼”という名の、初めての誓いだった。
次回ーー明日の20時20分
レイから届いた手紙は、潮の香りと共に小さな安堵をもたらした。
けれどユウの胸には、あの日から消えない“もう一つの不安”が残ったまま。
その静かな波は――やがて、誰も予想しない嵐へと変わっていく。




