次の婚礼は、私でお願いします
廊下に射す夕陽が、ユウの金色の髪を淡く照らしていた。
「・・・この香りは?」
傍らにいたイーライが、一瞬だけ視線を逸らし、低い声で答えた。
「・・・新しい香です。東の商人が届けた、と伺っております」
東――。
海を越えて届いた香。
なのに、胸の奥がざわつく。
この香りには、何かを“支配する力”が潜んでいる気がした。
「・・・それを、あの男が?」
――私の部屋に。
けれど、ここはあの男の城。
妹と共に庇護される立場の自分は、文句など言えない。
イーライは黙って頷いた。
次の瞬間、まるで背後を風が通り抜けたような静寂が走る。
扉の向こうから、低く穏やかな声が響いた。
「・・・ユウ様。入っておいで」
その一言で、喉がきゅっと締まる。
心臓が乱打し、足の裏が冷たくなる。
――あの男の声。
ユウは息を吸い込み、静かに拳を握った。
震える指先を見つめながら、胸の奥で呟く。
――怖い。でも、逃げない。
背後に控えるシュリは剣の柄を握り、ヨシノは不安げにエプロンを握りしめた。
ユウは扉へと手を伸ばす。
扉を押すと同時に、香の波が押し寄せた。
重く、甘く、肌を撫でるように纏わりつく。
灯された香炉の煙がゆらゆらと揺れ、部屋の空気をゆっくりと満たしていく。
机の傍に、キヨがいた。
白い指で香炉の蓋を閉じ、ゆっくりと振り向く。
その仕草一つに、支配者の余裕があった。
「どうだ、この香は。南の海を越え、東の国から運ばせた。“魂を鎮める香”だという」
その声は穏やかだった。
けれど、その奥に潜む意図が恐ろしいほど透けて見える。
「・・・嗅いだこともない香りです」
ユウの返答に、キヨは薄く笑った。
「驚くほど高価な香木だ」
「そのような香りは・・・私ではなく、他の女性に嗅がせた方がよろしいのでは?」
――負けない。
亡き母の姿を思い浮かべながら、言葉を返す。
だが、キヨは彼女よりもずっと、言葉を操るのが上手い男だった。
「これは・・・ユウ様に一番に嗅いで欲しいと思い、取り寄せた」
口元に浮かぶ微笑が、冷たい。
その一言に、胸の奥が冷えた。
怖い。けれど――もう怯えた顔は見せない。
ユウは静かに背筋を伸ばし、まっすぐキヨを見つめた。
「・・・そうですか」
蝋燭の炎が揺れ、壁に映る影が二つ重なる。
香が、静かに燃え続けている。
その香りは甘く、苦く、そして――立ち向かう者の意志を、試すように漂っていた。
「ユウ様、お座りください」
キヨは屈託のない笑顔を向けた。
ユウは黙ったまま、静かにソファへ腰を下ろす。
「イーライ、茶を」
キヨは満足げに椅子に身を預け、命じた。
「はっ」
イーライは一見落ち着いた様子で茶の支度を始めたが、
手元の動きにはわずかな乱れがある。
茶器が触れ合う音が、いつもより少し高く響いた。
シュリはユウの背後に立ち、ヨシノは寝室前の扉を塞ぐように位置取る。
――邪魔な乳母子だ。
キヨは一瞬、眉をひそめた。
「シュリ。わしはユウ様とゆっくり話をしたい。少し下がれ」
「はっ」
命に従い、シュリは一歩下がる。
ほんのわずかな距離――それだけで、ユウの胸にひやりとした不安がよぎった。
キヨは椅子の肘に腕を置き、微笑みながら口を開く。
「レイの婚礼が、無事に終わった」
「・・・色々とご配慮、ありがとうございます」
丁寧な言葉。
だが、ユウの声音にはかすかな棘があった。
伏せた瞳の奥には、静かな怒りが宿っている。
――幼いレイを嫁がせた男。
許せない。
その燃えるような青い瞳を見て、キヨはふっと笑った。
「良い眼差しだ」
一拍の沈黙。
「わしは・・・ユウ様のその目が、好きなのじゃ」
瞬間、部屋の空気が凍った。
言葉の意味を理解した瞬間、ユウの背筋に冷たいものが走る。
――この眼差しが、好き?
それは、男に愛されるためのものではない。
母から受け継いだ、強く、誇り高い目。
誰にも屈しないための瞳。
それを“好き”と告げるこの男の笑みが――何よりも、恐ろしかった。
「・・・どうぞ」
イーライは、わずかに震える手でティーカップを差し出した。
キヨは満足げに受け取り、匙で砂糖を何杯も入れてから、一気に飲み干す。
「うまい! イーライ、もう一杯」
「はっ」
イーライは再び茶を淹れながら、ユウの前にもそっとカップを置いた。
ぬるめの温度に、ほのかに香るクリーム。
無言の気遣いに、ユウはほんの少しだけ、自分の呼吸を取り戻した。
静かにカップを持ち上げ、唇を湿らせる。
そして、背筋を伸ばしたまま、はっきりと口を開く。
「・・・そのような言葉、軽々しくお使いにならない方がよろしいかと」
キヨは唇の端を上げた。
「そうか?」
柔らかい声。
だが、その瞳は冷たい。
視線が、ユウの白い首筋をなぞり、胸元を通り――唇で止まった。
あからさまな眼差し。
ユウの背中を、冷たいものが這い上がる。
――気持ち悪い。
けれど、この男の思い通りにはさせない。
それだけは、絶対に。
ユウは視線を逸らさず、淡く微笑んだ。
「・・・私は、この香よりもミントの香りが好きです」
静かに、けれど確かに言葉を放つ。
濃密な香が漂う部屋の中で、その言葉はまるで、冷たい風のように鋭く響いた。
キヨの表情が一瞬だけ止まる。
甘く重い香の中に、ひと筋の清涼な気配が差し込んだ。
それは、ユウの抵抗の証。
「・・・次の婚礼は、私でお願いします」
ユウは静かに言葉を継いだ。
声は震えていなかった。
けれど、その奥にある“決意”が、茶の湯気のように揺れている。
――もう、見送る立場にはなりたくない。
そう思いながら、ユウはゆっくりと茶を口に含んだ。
「・・・あぁ」
キヨは短く答え、ティーカップを置いた。
その仕草は、まるで何かを試すようだった。
「次の婚礼は真ん中の姫、ウイ様にする」
ユウの目が見開かれた。
――長女の私ではなく、ウイが先?
カップを持つ指先がかすかに震える。
唇を引き結び、かろうじて声を保つ。
「ウイは・・・まだ十三歳です。それよりも、私の方がふさわしいかと」
必死の抵抗。
けれど、キヨは微動だにせず、その瞳でユウを射抜いた。
「ユウ様には、この国で一番の男を、伴侶にするべきだと思っておる」
低く、滑らかな声。
その言葉に込められた意味を、ユウはすぐに悟った。
――“国で一番”。
それは、国王を意味する。
キヨは今まさに、その座を狙い、戦を仕掛けようとしている。
「・・・私は・・・普通の・・・領主の妃で十分です」
喉が詰まり、声が震えた。
それでも、最後まで言葉を絞り出す。
キヨはその顔を見つめ、ゆっくりと口角を上げた。
――もう十分。彼女の心は、揺らいだ。
この男の勘は鋭い。
キヨはそれ以上言葉を重ねず、
まるで勝者のように穏やかな笑みを残して立ち上がった。
「・・・また、伺います」
扉の向こうへと消える。
残された香の煙だけが、
ゆらゆらと揺れながら、部屋に滞っていた。
ユウはカップを見つめたまま、微動だにできなかった。
――あの男の言葉が、心の奥に残っている。
嫌悪と恐怖と・・・なぜか、拭えぬ焦燥が混ざって。
◇
キヨは去り、イーライも頭を下げて扉を閉めた。
香の煙がまだ漂っていた。
甘く、苦く、息をするたびに胸の奥をざらつかせる。
――この香りが、嫌い。
「・・・ユウ様」
躊躇いがちに、ヨシノが声をかけた。
ユウは俯いたまま、手をぎゅっと握りしめる。
「・・・あの男は、口が上手い」
低い声で、ぽつりと呟いた。
特別な武芸もない。
けれど、誰よりも人の心を操ることに長けた男。
その言葉は、甘い毒のように心を侵してくる。
「・・・あの男の妾になるなんて」
ユウの声が震えた。
さきほどの婉曲な言葉――あれはほとんど、求婚と同じ意味を持っていた。
両親を殺した男の妾になるなんてーー耐えられない。
その瞬間、シュリが一歩近づき、静かに言葉を落とした。
「・・・まだ、決まったことではありません」
背中に添えられた手が、温かい。
その温もりが、胸の奥にじんわりと沁みていく。
――そうだ。
あの男は、まだ国王ではない。
ユウは深く息を吸い込み、かすかに微笑んだ。
「そうね。取り越し苦労をしても仕方ないわ」
「はい」
シュリの声は穏やかで、どこか切なかった。
静かな沈黙が降りる。
窓の外では、風が湖面を揺らし、月が淡く反射している。
ユウは立ち上がり、カーテンを少しだけ開いた。
夜気が部屋に流れ込む。
香がわずかに薄まり、代わりに冷たい風が頬を撫でた。
「・・・やっぱり、私はミントの香りが好き」
ユウは小さく呟く。
その声に、シュリが微笑んだ。
「ええ。ユウ様には、その香りがよく似合います」
ユウは振り向き、静かに頷いた。
――シュリが、そばにいてくれて良かった。
その時、部屋の扉が激しく叩かれた。
「姉上!」
扉が開き、妹のウイが勢いよく部屋に飛び込んできた。
「姉上!! 大丈夫ですか!」
ソファに座るユウに駆け寄り、腕の中に飛び込む。
「・・・大丈夫。大丈夫よ」
ユウは震える手で、ウイの背をそっと抱きしめた。
「良かった・・・モナカと、ずっと心配していたの」
ウイの群青色の瞳が涙に濡れ、揺れていた。
後ろに控えるモナカが、そっと頭を下げる。
「ユウ様、ご報告がございます」
侍女が運んできた木箱を、そっと床に置く。
「・・・これは?」
ユウが問いかけると、モナカは慎重に蓋を開けた。
中には、花の彫りが施された鞍と、小さな鎧。
それは、どこか懐かしい輝きを帯びていた。
「これは・・・母上が、レイに渡した形見!」
ユウの声が震えた。
「はい。レイ様のお部屋に残っていたのです。大切なものなのに・・・」
モナカは申し訳なさそうに目を伏せる。
「レイ様のもとへ、お届けいたしましょうか?」
ヨシノが控えめに提案した。
「・・・それは、莫大な費用がかかるわ」
ユウが小さく答えると、部屋の空気が一瞬静まった。
「そうですね・・・」
「今度、レイに届け物をするときに一緒に渡しましょう」
ユウの声は柔らかいが、どこか遠くを見ていた。
「そういたしましょう」
ヨシノとモナカが同時に頷く。
「・・・レイ、今夜は挙式のはず」
ウイがぽつりと呟いた。
その瞳には、寂しさと切なさが同時に宿っていた。
「ええ・・・そうね」
ユウは目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に、言葉にならない痛みが広がる。
――レイ、どうしている?
窓の外には、夜の風。
湖面が淡く光り、遠くで鐘の音が鳴った気がした。
◇
その頃――潮の香りが満ちるセーヴ城で、レイは震えていた。
窓の外では波の音が絶えず響き、夜の空気はしんと冷たかった。
新しいエッセイを更新しました。
非テンプレ作品が完結後半年で100人に届いた話です。
よろしければ、読みに来てください。
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
次回ーー明日の20時20分「初夜の誓い」
海辺の城で迎えた婚礼の夜、レイは静かに震えていた。
扉の向こうに待つのは、まだ何も知らない“新しい世界”。
その夜、少女の胸に芽生えた感情は――誰にも言えない秘密だった。




