わたしは、もう一人ではない
「レイのために花嫁支度を整えてくださって、ありがとうございます」
ユウがミミに深く頭を下げた。
レイが嫁いで、もう四日が経つ。
ユウはミミの部屋に呼ばれ、静かに茶を飲んでいた。
ミミの隣には、妾のメアリーも座っている。
茶の香りが淡く漂う中、ミミが口を開いた。
「ユウ様・・・お心は大丈夫ですか?」
「・・・輿入れの時は、見苦しいところをお見せしました」
ユウは顔を赤らめ、俯いた。
「まだ幼いレイ様を嫁がれるのは・・・お辛いことでしょうね」
ミミの声は、まるで風に溶けるように柔らかかった。
ユウは黙って頷いた。
その仕草の奥に、言葉では言えない痛みがにじんでいた。
――レイがいなくなって、もう四日。
もともと、口数の多い娘ではなかった。
それでも、どこにいても、必ずそこにいた。
何気ない日々の景色の中に、レイの小さな存在は溶け込んでいた。
その“当たり前”が消えた部屋を歩くたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
母が死に、妹が嫁いだ。
この半年間――ユウが失ったものは、あまりにも多すぎた。
「今日はね、ユウ様に相応しいドレスを作ろうと思っているの」
ミミが湯気の立つ茶器を置きながら、穏やかに言った。
「・・・もう、着る服は十分にあります」
ユウは驚いたように顔を上げる。
「ここは寒いところよ。暖かい生地のものをウイ様にもね」
ミミは微笑んだ。
――妹の名前を出されると、断りづらい。
ユウは唇を結び、黙って頷いた。
その間にも、侍女たちが次々と布を運び込んでくる。
どれも高価そうな織物ばかり。
テーブルの上に広げられた布を、メアリーが指先でなぞりながら熱心に選んでいる。
「この色は、ユウ様にお似合いじゃないかしら?」
「そうね。肌の色が映えるわ」
「ウイ様には――」
二人は、まるで姉妹のように楽しげに話を続ける。
その穏やかな光景に、ユウの胸の奥で小さな違和感がざらりと広がった。
ミミはキヨの“妃”。
メアリーは、その“妾”。
本来であれば、敵対してもおかしくない立場。
なのに、二人の間には不思議な親しさがあった。
「・・・どうして、そんなに仲がよろしいのですか?」
その言葉が漏れた瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめた。
後ろで控えていたヨシノとシュリが、思わず顔を見合わせる。
メアリーは手を止め、指先を布の上に置いたまま動かない。
ユウは口を開きかけて、迷い、それでも言葉が漏れた。
「・・・メアリー様の、かつてのご主人は・・・」
その先は、どうしても言えなかった。
メアリーの元の夫――彼は、キヨの手によって殺されたのだ。
夫を奪った男の妾になるなど、ユウには到底、理解できなかった。
「・・・あの時は、本当に辛かったわ。朝が来るたびに、息をするのが苦しかった」
メアリーは苦しそうに微笑む。
声の奥に、かすかな震えが混じっていた。
ミミは何も言わず、静かに目を伏せる。
「けれど・・・荒んでいた私の心を救ってくれたのは、他でもなくミミ様なの」
ユウは思わず顔を上げた。
「優しく慰めてくださって・・・どれほど救われたか、言葉にできません」
メアリーの灰色の瞳が、かすかに潤む。
「まぁ・・・それは初めて知ったわ」
ミミは穏やかに微笑んだ。
その笑みには、強さと寂しさが同時に宿っていた。
「私が今、心穏やかに生きられるのはミミ様のおかげです」
メアリーの言葉に、部屋の空気が静まり返る。
ユウは何も言えず、ただ黙って頷いた。
ーー確かに、ミミは優しい。
けれどその優しさの奥には、
他の誰にも踏み込めない“深い孤独”があるように思えた。
ミミは小さく息を吐き、
まるでその思いを見透かしたように、ユウを見つめた。
「あなたも支えを持ちなさい」
「・・・支え、ですか?」
ユウが顔を上げると、ミミは微笑みながら首を傾げた。
「人はね、どんな立場でも一人では立てないの。
わたくしには、夫とメアリーがいる。
あなたにも、あなたの心を支える人が、きっといるはず」
ユウは返す言葉を失った。
“心を支える人”――その言葉が胸の奥にゆっくりと沈む。
脳裏に浮かんだのは、
嵐のように荒れた心を黙って受け止めてくれる乳母子――シュリの姿だった。
「・・・難しいお話です」
ユウはかすかに笑みを浮かべて俯いた。
ミミはそんな彼女を見つめ、穏やかに言葉を重ねる。
「支えがあることで、人は初めて“優しく強く”なれるの。
・・・あなたの母上も、きっとそうだった」
シリの名を出された瞬間、ユウの胸が少しだけ熱くなった。
ーー母上の心の支えは・・・亡くなった父上だった。
私はーー。
後ろに佇んでいるシュリの存在を感じて、ユウは目を閉じた。
ミミは湯気の立つ茶を一口含み、
まるでその言葉を締めくくるように、ゆっくりと微笑んだ。
「いつか、あなたもきっとわかるわ」
◇
ミミの部屋を出たあと、ユウは廊下の窓辺に歩み寄った。
そこには、一面に広がる穏やかな湖。
風が吹き抜け、金色の髪がそっと揺れる。
――支えを持ちなさい。
ミミの言葉が、胸の奥で静かに反響した。
ユウはその場に立ち尽くし、
そっと胸元の小袋を握りしめる。
「・・・シュリ」
背後から声をかけると、
シュリは少し戸惑いながらも、静かに隣へ立った。
「シュリも・・・持っている?」
ユウが小袋を見せると、
シュリは胸元から紐を取り出し、同じ淡い桃色の小袋を差し出した。
「はい。もちろんです」
それは、亡くなる直前――シリが自らの手で渡してくれたもの。
“あなたは、私のもう一人の息子”――そう言われた時の温もりが、今も残っている。
「・・・その小袋には、何が入っているの?」
ユウの小袋には、両親と兄の髪が納められている。
「シン様の髪です」
シュリは静かに答えた。
――シン。
五歳でキヨに殺された、ユウの兄。
しばしの沈黙。
二人は小袋をそっと見せ合い、そして、互いに微笑んだ。
風が湖面を渡り、二人の間を吹き抜けていく。
その風に髪が揺れ、胸の奥の痛みが少しずつ和らいでいった。
――私にはウイとレイ。大切な妹がいる。
そして・・・シュリがいる。
支えてくれる人は、いつも私の隣に寄り添っていた。
「・・・私は、もう一人ではない」
ユウの呟きが、柔らかな潮風に溶けていった。
◇
住まいである西の棟へ向かい、階段を登る。
石の壁に反射した夕光が、廊下を淡く照らしていた。
その先に――イーライの姿があった。
いつもは背筋を伸ばし、静かに控える男。
だがこの時ばかりは、どこか落ち着きがない。
「・・・イーライ。どうしたの?」
声をかけると同時に、鼻をくすぐる、甘くて苦い香が流れてきた。
――嗅いだことのない香り。
甘くて、苦くて、どこか胸を締めつける。
一瞬で心を支配するような、不思議な香。
「・・・新しい香を、仕入れたのです」
イーライの声が低く響く。
ユウの胸が、不快にざわつく。
――まさか。
イーライは一瞬目を伏せ、それから顔を上げた。
緊張に強張った表情で、静かに言葉を紡ぐ。
「・・・部屋の中で、キヨ様がお待ちです」
時間が止まったようだった。
――あの男が、部屋にいる。
そして、その部屋いっぱいに――嗅いだことのない香が満ちている。
静寂。
その香は、見えない手のように、ゆっくりとユウの喉を締めつけた。
次回ーー本日の20時20分
甘く重い香が満ちる部屋で、ユウはキヨと対峙し、胸の奥がざわついた。
逃げられない夜の気配に震えながらも、ユウは静かに背筋を伸ばす。
その頃、遠い海の城で――レイは初めての夜に怯えていた。
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