『11歳の花嫁』――その日、姉は叫び、妹は涙した
翌朝、雨上がりの城下には薄い霞がかかっていた。
湿った石畳が朝日を受けて淡く光り、遠くで鳥の声がする。
レイは白いドレスに身を包み、鏡の前に座っていた。
髪は艶やかに結われているが、その顔にはまだ幼さが残っている。
十一の秋。
――けれど今日からは、もう「姫」ではいられない。
部屋に入ったユウは、着飾ったレイの姿を見て息を呑んだ。
「・・・レイ、似合うわ」
穏やかな声の奥に、かすかな寂しさがにじむ。
続いてウイがそっと扉を閉めて入ってくる。
「・・・本当に」
その瞳は、もう涙で濡れていた。
三人は手を取り合った。
「姉上・・・姉様・・・」
レイの声が震え、黒い瞳が潤む。
「もう、一緒に過ごすことはできないのですね」
ユウは精一杯微笑んだ。
「血のつながりは切れない・・・。どんなところへ行っても、あなたは私たちの妹よ」
ウイがうなずき、そっとレイの髪を撫でた。
三人は懐から小袋を取り出す。
そこには――両親と兄の髪が、ひと房ずつ納められている。
レイは唇を噛みしめた。
――離れたくない。ずっと、三人でいたい。
胸の奥で、何かがほどけるように痛んだ。
やがて、扉を叩く音が響く。
イーライが頭を下げて告げた。
「出立の時間でございます」
三姉妹は顔を見合わせる。
ユウはレイを抱きしめ、耳元で囁いた。
「身体に気をつけてね」
「姉上・・姉様・・・今までありがとう」
かすかな声が震える。
ユウはその小さな身体を、もう一度強く抱きしめた。
門の外には、秋の風が吹いていた。
「モザ家のためにも、しっかりと務めを果たすのだ」
キヨの声が響く。
「承知しました」
レイは静かに頭を下げ、顔を上げた。
その黒い瞳が、まっすぐにキヨを射抜いた。
――その色は、あの男と同じだった。
キヨは視線を逸らし、拳を握った。
城門の前には、純白の布で覆われた馬車が待っていた。
車体の側面には、金糸で縫われたモザ家の旗印。
侍女たちが裾を整え、乳母サキがそっとレイの手を取った。
「段差にお気をつけて」
小さな足が、馬車の踏み台に乗る。
その瞬間、レイは振り返った。
ユウとウイが並んで立っていた。
肩を寄せ合い、まるでそこだけ時間が止まったように動かない。
「・・・姉上、姉様」
声は風に溶け、届いたかどうかもわからなかった。
けれどユウは必死に微笑み、ウイは両手を胸の前で握った。
レイは小さく頭を下げ、乳母に支えられて馬車の中へと乗り込む。
扉が閉まる。
金具が音を立て、静寂が訪れた。
「出立――!」
兵の号令と共に、車輪がゆっくりと動き出す。
馬たちの蹄が濡れた石畳を叩くたび、
水の粒が光りながら跳ね上がった。
「・・・レイ!」
ユウが思わず叫んだ。
その声には、張り裂けそうな思いが滲んでいる。
――行ってしまう。
いつでも冷静で、少し寂しげな黒い瞳。
産まれた時から、ずっとそばにいた末の妹。
父に似た寡黙さと、母譲りの気の強さを芯に秘めている子。
一瞬、風の音が止んだ気がした。
世界のすべてが、レイの名を呼ぶその声だけを聞いていた。
「レイ!」
胸の奥からこみ上げる衝動のままに、ユウは駆け出した。
「姉上!」
ウイが慌てて声を上げ、ミミは口元に手を当てる。
それでも、ユウは止まらなかった。
「レイ!」
足音が濡れた石畳に響く。
裾がはだけ、髪が乱れても構わない。
――行かないで。
必死に馬車の跡を追うけれど、どんなに駆けても追いつけない。
馬車は遠ざかり、白い車体が次第に霞に溶けていく。
その後ろには、花嫁道具を載せた荷車の列が続いていた。
豪奢な鏡台、織りの反物、
どれもレイの新しい暮らしを彩るはずの品々。
だが今は、誰もがユウの方を見ようとしなかった。
誰もが、泣き叫ぶ姫にどう声をかければいいのか分からなかった。
家臣たちは目を伏せ、足早に行列の後を追っていく。
その光景の中で、ユウだけが時を止められたまま、
ひとり、遠ざかる背を追い続けていた。
「レイ――!」
叫ぶような声が、城門に反響した。
馬車の中で、レイはカーテンの隙間から外を見た。
遠ざかるロク城。
そして、必死に追いかけてくる姉の姿。
「・・・姉上・・・」
頬を伝う涙を拭おうとしても、指先が震えてうまく拭えない。
「ユウ様・・・」
隣に座る乳母サキが、息を呑んで見つめた。
「レイ! 行かないで!!」
泣きながら叫ぶユウを、背後からシュリが抱きとめる。
「ユウ様!」
「いや! 私が代わりに行く! レイの代わりに私が行くの!」
ーーそれができるなら、何も怖くなかった。
掠れた声が、雨上がりの空に響いた。
「ユウ様、どうか落ち着いて・・・」
シュリが必死に押さえ込む。
だがユウは抵抗するように肩を震わせ、涙を流し続けた。
馬車が角を曲がり、姿が完全に見えなくなった。
「レイ・・・!」
その名を最後に、ユウは力が抜けるように膝をつき、
石畳に座り込んで泣き崩れた。
――守れなかった。
母上と約束したのに。
レイを守れなかった。
嗚咽が止まらない。
シュリは無言でユウの背を撫で、
ウイはその光景を見つめながら、静かに涙を流した。
ミミは項垂れ、両手を胸に当てて祈るように目を閉じた。
その背を見送るキヨは、何も言わなかった。
隣で控えるイーライが、ふと主の横顔を盗み見る。
その目は――笑っていた。
「・・・これでよい」
小さく笑う声が、風の音に紛れて、キヨは城に戻った。
次回ーー明日の20時20分
妹の出立、崩れる姉、支える乳母子。
月の下で触れた“許されぬ口づけ”――
静かなノックが、二人を現実へ戻す。
1日でブックマークが増えました。
盆と正月が来たような気持ちです。
ありがとうございます。




