あの姫だけは・・・
「いよいよ、明日はレイ様の輿入れです」
エルは深く頭を下げた。
「準備は滞りなく終わりました」
「さすがはエルじゃ」
キヨが軽く笑った。
急に決まった婚礼のため、エルはここ数日、寝る間も惜しんで準備に追われていた。
「今回の輿入れ道具は、すべてモザ家の旗印を入れました」
エルが恭しく報告する。
この部屋には、キヨとエル、そして側近のイーライしかいなかった。
「ああ、それでよい」
キヨの声は落ち着いていたが、どこか冷たい響きを帯びていた。
「今回は、我がトミ家ではなく、“モザ家”としての婚礼とする」
その一言に、部屋の空気が静まり返った。
婚姻の大義名分は、“モザ家の血筋を強めるため”。
花婿はゼンシの甥、花嫁はゼンシの姪――つまり、同じ血を引く者同士。
だが実際には、
キヨがモザ家一門の再編を主導する、象徴的な婚姻だった。
その二人を結婚させることで、
モザ家という名の“血統の鎖”を、再び己の支配下に繋ぎとめようとしている。
「イーライ。お前も確認したか?」
エルが問いかける。
「はっ。すべて確認いたしました」
イーライは一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「あの三姉妹は・・・非常に有力な駒だ。モザ家の血が濃い」
そのキヨの声音を聞き、イーライは思わず息を呑んだ。
「まずは末の姫。そして、次は真ん中の姫だ」
キヨは剣ではなく、婚姻という糸で天下を編もうとしていた。
ゼンシが“武”で制したものを、キヨは“血”と“名”で制する。
その微笑の奥にある冷たい計算を、イーライは誰よりも近くで見ていた。
「兄者・・・下の二人を嫁がせて・・・ユウ様は、どうなさるおつもりですか」
答えがわかっていながらも、エルは問わずにはいられなかった。
キヨは椅子の背にもたれ、ゆっくりと目を細めた。
「ユウ様は、わしの妾にするつもりだ」
その声は低く、どこか恍惚としていた。
イーライの胸がひゅっと縮む。
息を呑む音が、静かな部屋に響いた。
ーーわかっていた。最初から主の欲望を。
それでも、はっきりと口にすると動揺が止まらない。
「兄者・・・! あの姫を妃にと望む領主から、申し込みの書状が山のように届いております」
エルは懐から分厚い手紙の束を取り出した。
ユウの美貌は国中の評判だった。
ゼンシとシリの血を濃く継ぐその容姿は、権力者たちが血縁に取り込みたいと願う象徴でもある。
「昨年、シリ様が領主の跡取りと面談をお取り計らいになったとか」
イーライが慎重に口を開いた。
「・・・愚かなことをした」
キヨは鼻で笑い、首を横に振る。
「けれど兄者、ユウ様は・・・強力な切り札です。有能な領主と縁を結べば、我がトミ家は盤石に・・・」
エルの言葉は途中で、鋭い声に遮られた。
「それはならん!」
キヨの声が部屋を震わせた。
「ユウ様が他家に渡れば、血が散る。
わしの子を産めば・・・その血は、我が手に戻る」
拳を握りしめるキヨの目は、異様な光を宿していた。
執着にも似たその狂気を、エルもイーライも息を潜めて見つめるしかなかった。
「あの姫だけは・・・絶対に渡さん」
その低い声は、誓いではなく呪いのように響いた。
しばしの沈黙。
炎の揺らめく灯の下で、キヨはゆっくりと顔を上げた。
その視線は、部屋の奥、扉の向こうにある西棟へ向かう。
「・・・できれば、今すぐユウ様を手に入れたい」
その先には、彼女がいる。
その言葉に、イーライの呼吸が止まった。
それは政治の話ではなかった。
欲望の告白――それも、領主の口から漏れたものだった。
「兄者・・・それはなりません。まずは段階を踏まねば」
驚きのあまり、口を開いていたエルは、慌てて理性を取り戻した。
「いくらミミ様とはいえ・・・十四のユウ様に手を出したら、取り返しがつきません」
この時代、妾を迎えるには、正式な妃――つまりミミの許可が必要だった。
「それじゃ・・・それが問題だ」
キヨが項垂れ、苦々しく唇を噛んだ。
「ミミを説得するには・・・どうすればよい」
「今、ユウ様は・・・お心が揺れております。レイ様の婚礼を前に」
イーライが低い声で言う。
キヨはしばらく沈黙したのち、ゆっくりと呟いた。
「・・・確かに。わしは悪役じゃな」
その声には、開き直りにも似た諦観が混ざっていた。
「まずは、末の姫を輿入れさせる。その次に、真ん中の姫。
そうしてユウ様を・・・一人にする」
机の上に広げた地図に、指を滑らせる。
それはまるで、戦場の布陣を練る将のようだった。
「孤立させたその時・・・距離を近づける」
その冷ややかな口調に、エルの背筋が粟立った。
イーライは頭を下げたまま、無言だった。
その沈黙が、唯一の抵抗のようにも見えた。
「戦と一緒だ」
キヨはゆっくりと笑った。
「難しい城ほど・・・落とした時が面白い」
その笑みには、勝者の傲慢と、男の欲が混ざっていた。
「イーライ」
「はっ」
「引き続き、ユウに悪い虫がつかぬよう――見張れ」
「・・・承知いたしました」
イーライは深く頭を下げる。
握りしめた拳が、わずかに震える。
それを悟られまいと、さらに深く頭を垂れた。
だが、その胸の奥では、別の熱が静かに疼いていた。
キヨの笑い声が背後に響く。
それは、戦場ではなく――ひとりの姫を奪うための戦の始まりを告げる音だった。
ユウの母シリと父グユウの短編を本日公開しました。
『幸せは、私が決める――逃げなかった妃の物語』
https://book1.adouzi.eu.org/n5564li/
戦に背を向けず、愛と誇りを貫いた妃の決意を描いています。
本編を読んだ方なら、きっと胸に響くと思います。
次回ーー明日の9時20分
正妻・ミミ、静かに立ち上がる。
「この婚礼には反対です」――
権力と執着が渦巻く中、姫たちのもとへ届く母の手紙。
それは十年前に託された、“生き抜くための祈り”だった。




