十一歳の婚約
「・・・まさか、婚礼を受け入れるとは」
ノアの声は、かすかに霞んでいた。
エルが眉をひそめ、首を傾げる。
「領主セージ様は十九歳であろう? 十一歳の子を正妻に迎えるとは、正気とは思えぬ」
「・・・それは、ゼンシ様の威光が今なお残っているからでしょう」
沈黙を破ったのは、サムだった。
「レイ様はゼンシ様の姪御。 “ゼンシ様の血”を娶ることが、ロス家にとって誇りになるのです」
キヨは満足げに頷いた。
「ふむ、良い判断よ。やはりロス家は賢い。
早急に婚礼の支度を進めよ。・・・十月には嫁に出す」
「はっ」
エルが頭を下げる。だが、その動きはどこか重かった。
一拍置いて、彼は口を開く。
「兄者・・・この件を、姫様方にお伝えするのは・・・どなたが?」
広間の空気が、ぴたりと止まった。
末の妹の縁談を、あの気位高いユウに伝えねばならない。
誰もが避けたいと思っていた話題だった。
エルは、乾いた喉をゆっくりと鳴らした。
――できることなら、自分はその役目を引き受けたくはない。
キヨの笑みが、ゆっくりと深まった。
長い沈黙ののち、サムがゆっくりと前に進み出た。
「・・・私が、申し上げます」
その声は静かだったが、確かな覚悟があった。
キヨが満足げに笑みを浮かべる。
「うむ。ならば任せたぞ。セン家の者には、おぬしが最も信を得ておる」
「・・・はっ」
深く頭を下げたサムの胸中には、
ただひとつ――伝えたくないという叫びが渦巻いていた。
◇
三姉妹の部屋へ向かうサムの足取りは、鉛のように重かった。
廊下に響く靴音が、やけに遠く聞こえる。
その背後を、イーライが控えめに歩いていた。
声をかけることもできず、ただ静かにその背を見守る。
「・・・まったく、辛い役目を名乗りあげたものだ」
サムは小さくため息をつき、手にした封書を見下ろした。
紙の端がわずかに震えている。
主命に背くことはできぬ――だが、それを伝える相手は、かつての主君の娘たち。
重臣としての義務と、ひとりの人間としての心が、
彼の中で静かに軋んでいた。
扉の向こうからは、姉妹の笑い声がかすかに聞こえていた。
それが、もう二度と戻らぬ音のように思えた。
扉を、控えめに――しかし確かな力で叩く音が響いた。
「・・・はい」
ヨシノが応じて扉を開ける。
「あら・・・サム」
その声には、わずかな親しみが滲んでいた。
かつてレーク城で、共にグユウとシリに仕えていた仲間。
いつも、冷静沈着なサム。
だが今のサムの顔には、かつての穏やかさはなかった。
「姫様方に・・・大事なお話がございます」
低い声が、静かな部屋の空気を震わせる。
ヨシノは言葉を飲み込み、ただ頷いて道を開けた。
ソファを囲みながら、三姉妹は他愛のない話に花を咲かせていた。
ウイが笑い転げ、ユウはその様子を穏やかに見守り、
レイの口元にも、珍しく小さな笑みが浮かんでいた。
少し離れたところで、シュリが三人を優しく見守っていた。
窓の外では風がカーテンを揺らし、
その光景は一瞬、戦も政も遠い“姉妹だけの時間”のようだった。
だが――。
最初に顔を上げたのは、ユウだった。
廊下の方から、重い靴音が近づいてくる。
やがて扉が静かに開き、そこに立っていたのはサム。
その後ろに、能面のような表情のイーライが控えている。
ユウの微笑みが、わずかに凍った。
「・・・サム。イーライ。どうしたの?」
サムは一度、深く息を吐いた。
言葉を選ぶように視線を落とし――それでも、口を開かねばならなかった。
「・・・姫様に、縁談のお話が来ております」
サムの声が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
笑い声の余韻が、ぴたりと止む。
「・・・縁談?」
ユウの声は掠れていた。
「はい」
サムは静かに頷く。
ウイとレイが、一斉にユウの顔を見つめた。
この三人の中で――縁談と聞けば、当然ユウの名が浮かぶ。
「姉上・・・」
ウイの唇が震え、レイは咄嗟にユウのドレスの裾を掴もうとする。
「せっかく・・・ここでの暮らしも落ち着いたのに・・・縁談ですか?」
ユウは呼吸を整えながら言葉を選んだ。
――落ち着いて。母上の代わりは、私なのだから。
縁談は突然決まることが多い。
自分の想いなどは言えぬのだ。
全ては、領と家のため。
望まぬ縁談、見知らぬ相手との結婚、母上も同じ道を歩んだのだ。
取り乱してはいけない。
その横で、シュリの拳が震えていた。
――ついに。
ついにユウ様に縁談が来てしまったのか。
深い絶望が胸を締めつける。
それでも、仕えねばならぬ。
シュリは小さく息を吐き、己の心を必死に鎮めた。
サムは一度、目を伏せた。
胸の奥で何度も言葉を整えていたが、口にすれば取り返しがつかない。
それでも、告げねばならなかった。
「・・・お伝えいたします。今回の縁談は」
短い沈黙。
誰も息をしていなかった。
サムはゆっくりと顔を上げ、三姉妹を見渡した。
その視線は、長女のユウではなく、末の少女へと静かに向かう。
「末の姫、レイ様の件にございます」
風の音が、部屋をかすめた。
ウイが息を呑み、ユウの目が大きく見開かれる。
レイは何も言えず、ただサムを見返した。
「レイ様を、ロス家のセージ様へ・・・十月、婚礼の儀が執り行われることとなりました」
沈黙。
その静けさは、戦の前夜のようだった。
乳母たちは驚きのあまり、地面に根が生えたように立ち尽くす。
ユウの指先がかすかに震える。
「・・・十一歳の子を、嫁に出すと?」
その声はかすれていたが、凍てつくような怒りが滲んでいた。
サムは深く頭を垂れた。
「・・・命にございます」
ウイが椅子を蹴って立ち上がる。
「そんなの、間違ってます!」
その叫びが空しく響く。
誰も、何も返せなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
雨日です。
最近、異様さが際立つキヨですが、
実は家族から「雨日にそっくり」と言われました。
嫌。
しかも今日、十一歳の少女の婚礼を決めたばかりの男です。
どこが雨日なのか、いまだに謎です。
せめて、容姿は彼に似ないように、頭髪だけは死守したい。
そんな「キヨそっくり説」について、
エッセイを書きました。
「悪役とそっくりだと言われた作者の悲鳴」
https://book1.adouzi.eu.org/N2523KL/
本編のあとに、ちょっと笑いたい方はぜひ。
次回ーー明日の20時20分
妹を救うため、姉は立った。
理ではなく、心が命じるままに。
熱気のなかを進む足音は、
まるで運命を裂く刃のように静かだった。
――ユウ、覚悟の対面




