狂気の眼差し ― 祈りは届かぬまま ―
「失礼します」
ユウの声は謁見の間の高い天井に響いた。
謁見の間に足を踏み入れたユウは、思わず息を呑んだ。
正面には、盃を片手に笑みを浮かべるキヨ。
その隣に、端正な衣装に身を包んだミミが静かに控えている。
二人の眼差しが、同時に自分に注がれた。
――領主の権威と、母のように慕ってきた女の存在。
この二人を同時に敵に回すことなど、到底できない。
「ユウ様、お元気そうで安心いたしました」
ミミの柔らかな声が響く。
だが、その笑みは逃げ道を塞ぐ網のように思えた。
「ほう・・・ようやく姿を見せおったか」
キヨの声は不気味に弾んでいる。
背筋を正したユウは、無理に微笑んで言葉を返した。
「・・・お久しゅうございます」
心の奥で、悟った。
――ここで逆らうことはできない。
籠もっていたあの部屋の中ならまだ拒めた。
だが、キヨとミミが揃ったこの場では、何を言っても無駄なのだ。
それでも。
せめて、妹たちを巻き込みませんように。
ユウはそう祈りながら、膝を折った。
◇
面会は、あっさりと終わった。
部屋に戻ったイーライは、無言のまま茶の準備を始める。
ユウは静かに椅子に腰を下ろした。
「イーライ。お茶は嬉しいけれど・・・良いのよ」
「いえ、ミミ様から頼まれました」
ユウは小さくため息をつく。
「・・・ミミ様は優しいのね。すべてを見通しているわ」
イーライは静かに頭を下げ、ユウの好みの温度になるまで湯を確認した。
その几帳面な仕草を横目で見ながら、ユウはぼんやりと遠くを見つめている。
「ユウ様、今日はご立派な対応でした」
シュリが静かに口を開いた。
「・・・立派ではないわ。でも、ミミ様が素晴らしいお人柄だから・・・」
言葉を選ぶように、ユウは続けた。
「あの男がいても、我慢できるのよ」
「どうぞ」
イーライが湯気の立つ茶を差し出す。
「ありがとう、イーライ」
ユウは穏やかに微笑んだ。
その笑みに、イーライは一瞬だけ目を伏せた。
「シュリも・・・イーライも・・・一緒にお茶を」
誘われた二人は、少し戸惑いながらも向かいに座る。
静かな湯気が三人の間に立ち上り、
今日もまた――奇妙なお茶会が始まった。
◇
その夜――宴の間は笑いと香の匂いに満ちていた。
キヨは膝の上に二人の若い妾を抱え、盃を掲げて笑い転げている。
「はっはっは! おぬしら、よい香りじゃのう! ほれ、もう一杯!」
妾たちは笑いながら袖でキヨの頬をくすぐり、甘えるように囁いた。
キヨは、子どものように無邪気な笑顔で応える。
その少し離れた座に、イーライが控えていた。
盃を手に取ることもなく、ただ静かに主を見つめている。
キヨがふと気づき、妾たちを払いのけて声を上げた。
「おい、イーライ、こっちへ来い! たまには笑え、堅物め。
共にどうだ? 酒は? 女も選り取りみどりじゃぞ!」
イーライは静かに首を振り、深く頭を下げた。
「結構でございます」
「ほう、またそれか。
イーライはつまらぬ男よのう。女の柔肌より茶が好きとは!」
キヨが高らかに笑い、妾たちも、どっと笑い声を上げる。
だがイーライは、ただ淡々とした表情で座っていた。
その眼差しには、笑いの意味も、喜びの色も宿らない。
キヨは顔を赤らめ、肩を揺らして笑っている。
「はっはっは・・・世の女は、皆わしを好くのう。
ミミもメアリーも、町娘までも、わしの顔を見ると笑う。・・・なのに、あの姫だけは・・・」
その声に、妾たちの笑いがぴたりと止まった。
盃を持つ手が宙で凍りつく。
キヨの舌から零れた名を、誰もが察していた。
「・・・ユウ様は、笑わんのだ。どれほど贈り物をしても、どれほど優しくしても、
あの氷のような目で、わしを見透かすのじゃ・・・」
沈黙。
燃える香の煙が、ゆらりとキヨの顔を覆った。
イーライは静かに頭を下げ、低く告げる。
「キヨ様・・・ユウ様はセン家の姫にございます。
笑うことを、忘れるほどの過去をお持ちなのでしょう」
キヨの手が盃を握ったまま、わずかに震えた。
「・・・イーライまで、ユウ様の肩を持つか」
声は笑いとも怒りともつかぬ、濁った響きを帯びていた。
「わしがこれほど尽くしてやっておるのに、まだ怒っておる。
いい加減、心をひらけばよいものを・・・。まるで氷だ。触れれば冷たく、心まで凍えるわ」
キヨの言葉に、イーライは小さく息を吐いた。
慎重に言葉を選びながら、静かに口を開く。
「キヨ様・・・ユウ様にだけ、強く求めすぎておられます。
いつものように、他の女性に接するように―― 軽やかに、柔らかく振る舞われてはいかがでしょうか。
焦れば、相手も心を閉ざしてしまいます」
キヨは盃を傾けたまま、イーライをじっと見つめた。
「・・・イーライ、あの姫の味方か?」
「いいえ」
イーライはわずかに首を振る。
ーー惹かれているのは確か。
その想いを口にすることは許されない。
「ただ、いつものキヨ様を誰よりも知っております。
人の心を開く才と術があるのに、
その術を、なぜユウ様の前だけでお忘れになるのか――それを申し上げたいのです」
一瞬、広間に沈黙が落ちた。
燃える香の煙が、ゆらりと二人の間を流れる。
やがてキヨは、苦笑いを浮かべて盃を置いた。
「・・・ふん。なるほど。少しは柔らかくしてみるかの」
イーライは深く頭を下げた。
だがその胸の奥では――この“執着”が理では止まらぬことを、もう悟っていた。
◇
翌朝。
キヨは鏡の前に立ち、珍しく装いを念入りに整えていた。
「・・・軽やかに、柔らかく、か」
昨日のイーライの忠告を反芻しながら、薄い髪を撫でつけ、衣の皺を整える。
だが――ユウの部屋の扉を開いた瞬間、その余裕は吹き飛んだ。
ユウはバルコニーに立っていた。
朝陽を背に受け、黄金の髪が風に揺れる。
顔を上げたその青い瞳は、氷のように澄みきっている。
「・・・ユウ様、ご機嫌はいかがですか」
キヨは笑みを作り、そっと距離を詰めた。
「戦も見事に終わった。ユウ様にご報告を・・・と思いましてな」
「それは何よりにございます」
ユウの声は穏やかだったが、微塵も温度を帯びていなかった。
キヨはもう一歩、踏み出す。
「なぜ、そんな冷たい顔をする。わしはユウ様を、守ってやりたいだけなのじゃ」
「ありがとうございます」
ユウは短く答え、ゆるやかに顎を上げた。
その一瞬、キヨの脳裏に――ゼンシの姿がよぎる。
あの、決して屈せぬ目。
同じ光を、この娘が宿している。
キヨの呼吸が乱れ、恍惚の色が瞳に滲んだ。
言葉を続けようとしたが、喉が詰まる。
イーライの声が頭をかすめる。
『ーー軽やかに、柔らかく』
だが、その手は無意識に拳を握っていた。
「・・・よい。今はそれでよい。いずれ、わしの心が通ずる日も来ようて」
ユウは何も言わず、わずかに眉をひそめた。
ーーそんな訳ない。
そう言いたげだった。
風が髪を揺らし、彼女の沈黙が刃のように鋭く刺さる。
キヨが去ったあと、イーライは静かに目を閉じた。
――やはり、キヨ様はユウ様の前では、領主ではなく、ただの、一人の男にすぎない。
ユウはゆっくりと息を吐き、扉の方を見たまま言った。
「・・・ヨシノ。部屋の換気を」
「はい、ただいま」
ヨシノが窓を開けると、夏の生暖かい風が流れ込む。
だが、それでも――あの男の香の匂いは、まだ消えなかった。
我慢して微笑んだつもりでも、どうしても滲み出てしまう。
あの声。あの目。あの手の動き。
すべてが、嫌悪の対象だった。
「・・・あの男が、嫌い」
声に出すと、唇が震えた。
「憎くて・・・仕方がない」
その言葉を呑み込みながら、ユウは静かにカーテンを閉めた。
陽の光さえ、今はまぶしすぎた。
◇
その頃――。
執務室では、エルが手紙を手に立っていた。
キヨが入ると、低い声で囁く。
「・・・ロス家が、レイ様との婚約を承認しました」
その夜、誰も知らぬところで、一つの運命が決まった。
祈りは届かぬまま――姉妹の未来を、静かに縛ってゆく。
新作短編のお知らせ
ウイが産まれて三週間後のお話です。
タイトルは
『戦のあと、妻は「幸せは私が決めます」と言った』 です。
政略結婚から始まったグユウとシリが、
戦と運命の中でそれぞれの「幸せ」を選ぶ物語です。
▶ 短編はこちら
https://book1.adouzi.eu.org/n0392li/
本編を読んでくださった皆さまに、
この短編もぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
次回ーー本日の20時20分
「末の姫、レイ様の件にございます」
告げられた婚約の報せに、部屋の空気が凍りついた。
十一歳の少女を嫁に出す――それが“命”だという。
怒りと絶望の中、ユウの瞳に母シリの影が宿る。




