表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/91

狂気の眼差し ― 祈りは届かぬまま ―

「失礼します」


ユウの声は謁見の間の高い天井に響いた。


謁見の間に足を踏み入れたユウは、思わず息を呑んだ。


正面には、盃を片手に笑みを浮かべるキヨ。

その隣に、端正な衣装に身を包んだミミが静かに控えている。


二人の眼差しが、同時に自分に注がれた。


――領主の権威と、母のように慕ってきた女の存在。


この二人を同時に敵に回すことなど、到底できない。


「ユウ様、お元気そうで安心いたしました」

ミミの柔らかな声が響く。


だが、その笑みは逃げ道を塞ぐ網のように思えた。


「ほう・・・ようやく姿を見せおったか」

キヨの声は不気味に弾んでいる。


背筋を正したユウは、無理に微笑んで言葉を返した。


「・・・お久しゅうございます」


心の奥で、悟った。


――ここで逆らうことはできない。


籠もっていたあの部屋の中ならまだ拒めた。


だが、キヨとミミが揃ったこの場では、何を言っても無駄なのだ。


それでも。

せめて、妹たちを巻き込みませんように。


ユウはそう祈りながら、膝を折った。



面会は、あっさりと終わった。


部屋に戻ったイーライは、無言のまま茶の準備を始める。

ユウは静かに椅子に腰を下ろした。


「イーライ。お茶は嬉しいけれど・・・良いのよ」


「いえ、ミミ様から頼まれました」


ユウは小さくため息をつく。


「・・・ミミ様は優しいのね。すべてを見通しているわ」


イーライは静かに頭を下げ、ユウの好みの温度になるまで湯を確認した。


その几帳面な仕草を横目で見ながら、ユウはぼんやりと遠くを見つめている。


「ユウ様、今日はご立派な対応でした」

シュリが静かに口を開いた。


「・・・立派ではないわ。でも、ミミ様が素晴らしいお人柄だから・・・」

言葉を選ぶように、ユウは続けた。


「あの男がいても、我慢できるのよ」


「どうぞ」

イーライが湯気の立つ茶を差し出す。


「ありがとう、イーライ」

ユウは穏やかに微笑んだ。


その笑みに、イーライは一瞬だけ目を伏せた。


「シュリも・・・イーライも・・・一緒にお茶を」


誘われた二人は、少し戸惑いながらも向かいに座る。


静かな湯気が三人の間に立ち上り、

今日もまた――奇妙なお茶会が始まった。




その夜――宴の間は笑いと香の匂いに満ちていた。


キヨは膝の上に二人の若い妾を抱え、盃を掲げて笑い転げている。


「はっはっは! おぬしら、よい香りじゃのう! ほれ、もう一杯!」


妾たちは笑いながら袖でキヨの頬をくすぐり、甘えるように囁いた。

キヨは、子どものように無邪気な笑顔で応える。


その少し離れた座に、イーライが控えていた。

盃を手に取ることもなく、ただ静かに主を見つめている。


キヨがふと気づき、妾たちを払いのけて声を上げた。

「おい、イーライ、こっちへ来い! たまには笑え、堅物め。

共にどうだ? 酒は? 女も選り取りみどりじゃぞ!」


イーライは静かに首を振り、深く頭を下げた。


「結構でございます」


「ほう、またそれか。

 イーライはつまらぬ男よのう。女の柔肌より茶が好きとは!」

キヨが高らかに笑い、妾たちも、どっと笑い声を上げる。


だがイーライは、ただ淡々とした表情で座っていた。


その眼差しには、笑いの意味も、喜びの色も宿らない。


キヨは顔を赤らめ、肩を揺らして笑っている。


「はっはっは・・・世の女は、皆わしを好くのう。

 ミミもメアリーも、町娘までも、わしの顔を見ると笑う。・・・なのに、あの姫だけは・・・」


その声に、妾たちの笑いがぴたりと止まった。


盃を持つ手が宙で凍りつく。


キヨの舌から零れた名を、誰もが察していた。


「・・・ユウ様は、笑わんのだ。どれほど贈り物をしても、どれほど優しくしても、

 あの氷のような目で、わしを見透かすのじゃ・・・」


沈黙。


燃える香の煙が、ゆらりとキヨの顔を覆った。


イーライは静かに頭を下げ、低く告げる。


「キヨ様・・・ユウ様はセン家の姫にございます。

 笑うことを、忘れるほどの過去をお持ちなのでしょう」


キヨの手が盃を握ったまま、わずかに震えた。


「・・・イーライまで、ユウ様の肩を持つか」


声は笑いとも怒りともつかぬ、濁った響きを帯びていた。


「わしがこれほど尽くしてやっておるのに、まだ怒っておる。

いい加減、心をひらけばよいものを・・・。まるで氷だ。触れれば冷たく、心まで凍えるわ」


キヨの言葉に、イーライは小さく息を吐いた。


慎重に言葉を選びながら、静かに口を開く。


「キヨ様・・・ユウ様にだけ、強く求めすぎておられます。

 いつものように、他の女性に接するように―― 軽やかに、柔らかく振る舞われてはいかがでしょうか。

 焦れば、相手も心を閉ざしてしまいます」


キヨは盃を傾けたまま、イーライをじっと見つめた。


「・・・イーライ、あの姫の味方か?」


「いいえ」


イーライはわずかに首を振る。


ーー惹かれているのは確か。

その想いを口にすることは許されない。



「ただ、いつものキヨ様を誰よりも知っております。

人の心を開く才と術があるのに、

その術を、なぜユウ様の前だけでお忘れになるのか――それを申し上げたいのです」


一瞬、広間に沈黙が落ちた。


燃える香の煙が、ゆらりと二人の間を流れる。


やがてキヨは、苦笑いを浮かべて盃を置いた。


「・・・ふん。なるほど。少しは柔らかくしてみるかの」


イーライは深く頭を下げた。


だがその胸の奥では――この“執着”が理では止まらぬことを、もう悟っていた。



翌朝。


キヨは鏡の前に立ち、珍しく装いを念入りに整えていた。


「・・・軽やかに、柔らかく、か」


昨日のイーライの忠告を反芻しながら、薄い髪を撫でつけ、衣の皺を整える。


だが――ユウの部屋の扉を開いた瞬間、その余裕は吹き飛んだ。


ユウはバルコニーに立っていた。


朝陽を背に受け、黄金の髪が風に揺れる。


顔を上げたその青い瞳は、氷のように澄みきっている。


「・・・ユウ様、ご機嫌はいかがですか」

キヨは笑みを作り、そっと距離を詰めた。


「戦も見事に終わった。ユウ様にご報告を・・・と思いましてな」


「それは何よりにございます」

ユウの声は穏やかだったが、微塵も温度を帯びていなかった。


キヨはもう一歩、踏み出す。


「なぜ、そんな冷たい顔をする。わしはユウ様を、守ってやりたいだけなのじゃ」


「ありがとうございます」

ユウは短く答え、ゆるやかに顎を上げた。


その一瞬、キヨの脳裏に――ゼンシの姿がよぎる。


あの、決して屈せぬ目。


同じ光を、この娘が宿している。


キヨの呼吸が乱れ、恍惚の色が瞳に滲んだ。


言葉を続けようとしたが、喉が詰まる。


イーライの声が頭をかすめる。


『ーー軽やかに、柔らかく』


だが、その手は無意識に拳を握っていた。


「・・・よい。今はそれでよい。いずれ、わしの心が通ずる日も来ようて」


ユウは何も言わず、わずかに眉をひそめた。


ーーそんな訳ない。


そう言いたげだった。


風が髪を揺らし、彼女の沈黙が刃のように鋭く刺さる。


キヨが去ったあと、イーライは静かに目を閉じた。


――やはり、キヨ様はユウ様の前では、領主ではなく、ただの、一人の男にすぎない。


ユウはゆっくりと息を吐き、扉の方を見たまま言った。


「・・・ヨシノ。部屋の換気を」


「はい、ただいま」


ヨシノが窓を開けると、夏の生暖かい風が流れ込む。


だが、それでも――あの男の香の匂いは、まだ消えなかった。


我慢して微笑んだつもりでも、どうしても滲み出てしまう。


あの声。あの目。あの手の動き。


すべてが、嫌悪の対象だった。


「・・・あの男が、嫌い」

声に出すと、唇が震えた。


「憎くて・・・仕方がない」


その言葉を呑み込みながら、ユウは静かにカーテンを閉めた。


陽の光さえ、今はまぶしすぎた。



その頃――。


執務室では、エルが手紙を手に立っていた。


キヨが入ると、低い声で囁く。


「・・・ロス家が、レイ様との婚約を承認しました」


その夜、誰も知らぬところで、一つの運命が決まった。


祈りは届かぬまま――姉妹の未来を、静かに縛ってゆく。


新作短編のお知らせ


ウイが産まれて三週間後のお話です。


タイトルは

『戦のあと、妻は「幸せは私が決めます」と言った』 です。


政略結婚から始まったグユウとシリが、

戦と運命の中でそれぞれの「幸せ」を選ぶ物語です。


▶ 短編はこちら

https://book1.adouzi.eu.org/n0392li/


本編を読んでくださった皆さまに、

この短編もぜひ読んでいただけたら嬉しいです。


次回ーー本日の20時20分


「末の姫、レイ様の件にございます」

告げられた婚約の報せに、部屋の空気が凍りついた。

十一歳の少女を嫁に出す――それが“命”だという。

怒りと絶望の中、ユウの瞳に母シリの影が宿る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ