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黒い瞳が追うもの ――叶わぬ恋と知りながら

「レイ! こっちよ!」

ユウの弾んだ声が、青空に響き渡る。


黒い瞳のレイが静かに頷き、馬を走らせる。


その後をシュリ、イーライ、サムが追った。


五人は乗馬と称して、りんご林へ向かっていた。


ひと月前まで花を満開にしていた林は、いまは青々とした葉を茂らせている。


「ここが・・・父上と母上が過ごした場所」

レイは枝葉の天蓋を仰ぎ見て、目を細めた。


「御休憩を」

イーライが静かに頭を下げ、敷物を広げる。


やがて香り高い紅茶と菓子が振る舞われた。


「これは、何のパイ?」

ユウが首を傾げながら尋ねる。


「アップルパイです」

イーライが控えめに答える。


「シリ様もお好きでした」

サムの微笑みが添えられる。


とろりと煮込まれたりんごに、さくさくの生地。


「美味しい」

レイが目を丸くした。


その様子に、ユウも思わず微笑む。


――平和な、ほんのひととき。


りんごの香りに包まれた時間は、夢のように静かに過ぎていった。



◇その頃――ロク城 馬場


木陰の下に小さな机と椅子を並べ、ウイは熱心に刺繍針を進めていた。


「ウイ様、何も外で刺繍をなさらなくてもよろしいのに」

乳母モナカが声をかける。


「ここにいれば・・・姉上とレイが馬から帰ってくるのが見えるでしょう」

針を通しながら答えるウイの声は淡々としていた。


「・・・そうですね」


「私も・・・一緒に行ってみたかったな」

ふっと空を仰ぐ。


「女性は馬に乗れなくても・・・」

モナカが微笑むと、ウイは苦く笑った。


「そうね。母上もユウもレイも規格外なのよ」

ため息が漏れる。


――輪の中に入れば、規格外なのは自分の方。


その時。


「ウイ様・・・ご無沙汰しております」


懐かしい響きが背後から届いた。


モナカが「あっ!」と小さく息を呑む。


慌てて振り返ったウイの目に映ったのは、忘れもしない人影。


陽に焼けた頬に旅の塵をまといながらも、黒髪は凛々しく、穏やかな黒い瞳はあの日のまま。


「リオウ様!!」


思わず絶叫し、手元の刺繍が草の上に落ちた。


群青の糸が散らばり、その色と同じ涙がみるみる瞳に溢れてゆく。


「ウイ・・・様」

驚いたように呼びかけるリオウの声。


「ずっと・・・心配しておりました。ご無事で・・・ほんとうに、うれしいです」


群青の瞳から涙をこぼしながら訴えるウイに、リオウは言葉を失った。


じっと彼女を見つめる。


いつも姉のユウの背に隠れていた妹。


その小さな影が、いま自分を真っ直ぐに見て、揺れる瞳を向けている。


――可愛いな。


ふっと自然に芽生えた感情だった。


戦場では決して思い浮かばなかった、柔らかく温かな想い。


「・・・リオウ様・・・」

震える声に呼ばれて、リオウはようやく我に返る。


「ウイ様こそ・・・お変わりなく。本当に・・・よかった」


モナカは胸に手を当て、声を殺して見守っていた。


木漏れ日の下、落ちた刺繍糸が風に揺れ、二人の再会を祝福するかのように輝いていた。


「今日は・・・どうして」

涙で濡れた瞳のまま、ウイはまだ夢を見ているように問いかける。


「姉に・・・挨拶を」

リオウは小さく目を伏せ、答えた。


その後ろに立っていた影に、ウイの心臓が跳ねる。


黒髪をきちんと結い上げ、落ち着いた笑みを浮かべる女性。


――リオウ様の姉、メアリー。


キヨの妾でもある。


「座っても?」

メアリーが穏やかに微笑む。


「ど、どうぞ」

慌てて椅子を差し出すウイ。


三人は木漏れ日の下に並んで腰を下ろした。


少し離れたところで、モナカが手早く茶の支度を始める。


「私は・・・姉のおかげで一命を取り留めることができました」

リオウが静かに呟いた。


「お怪我を・・・された、と」

ウイは緊張の面持ちで声をかける。


「はい。背中を・・・」

リオウはわずかに顔を歪める。


傷はまだ癒えていないようだった。


「ウイ様が縫ってくださった刺繍のおかげで、命を拾ったと聞きました。・・・ありがとう」

メアリーが静かに頭を下げた。


「えっ・・・」

ウイの瞳が大きく揺れる。


――まだ、ノルド城にいた頃。


出陣前のリオウに、ウイは震える手で刺繍を差し出した。


コク家の旗印を縫い込んだ布。


あの時リオウは、それを肩に結わえて戦場へ向かった。


その様子を見て、ウイは天にも昇るような気持ちになった。


「・・・あの刺繍をサム様が気づいてくれたのです。コク家のものだと」


リオウの言葉に、ウイは思わず口元を押さえた。


溢れそうになる涙を、必死に堪えながら。


「ウイ様、ありがとうございます」

リオウが真剣な眼差しでウイを見つめた。


ウイが頬を染めて俯く姿を、リオウはじっと見つめていた。


視線を受け止めるたびに胸がざわつき、居心地悪そうに腰を落ち着ける。


――今日は、この若草色のドレスを選んでよかった。


母にも、モナカにも、皆から「似合う」と言われる一着。


リオウの瞳に映る自分が、少しでも可愛らしくあってほしい。


そう願ってしまう。


「・・・シリ様のことを伺いました」

リオウが言いにくそうに話す。


「私たち・・・姉妹だけになりました。今は・・・少し落ち着いています」

そっと顔を上げたウイの瞳が潤む。


「・・・そうですか」

リオウの声は低く、沈んでいた。




その時――。


乾いた大地を蹴る蹄の音が、馬場に響き渡る。


突如として流れ込んだ疾走の気配に、三人の視線が一斉に外へ向いた。


蹄の音とともに馬場に現れたのは、飾り気のない乗馬服をまとったユウだった。


風を切って瞳を輝かせて馬を操る少女、どこにいても目が引く特別な存在感を放つ。


飾り立てた衣装ではなく、紺色の乗馬服は、凛とした美しさを放っている。


ユウが現れた瞬間、隣に座るリオウの横顔が変わった。


呼吸を忘れたかのように、黒い瞳がユウを追っている。


夢中で、ひたすらに――。


額にかかる髪を振り払い、馬上から軽やかに降り立つユウ。


その一挙手一投足に、リオウの視線は絡みつき、離れなかった。


――そうだった。


ウイの胸の鼓動は急速に冷めていく。


リオウ様は、いつだって・・・姉上に夢中だった。


ノルド城の中庭で、リオウ様が姉上にプロポーズをしていた光景が、脳裏に焼き付いている。


ウイは、そっとリオウの横顔を仰ぎ見た。


その瞳は、恋をする青年のものだった。


ーーこんな表情を、私には向けてくれない。


しばらくすると、リオウの黒い瞳は、

ユウの隣に立つシュリへと、鋭く向けられていた。


シュリが何かを話し、ユウが楽しげに笑う。


その光景を見つめるリオウの瞳には、嫉妬と焦燥が入り混じっていた。


「・・・シュリ。まだ、ユウ様のそばに・・・」

絞り出すようにリオウが独り言をつぶやいた。


ウイはその眼差しに気づき、はっと息を飲んだ。


――リオウ様にとって、シュリは使用人ではないのだ。


姉上を巡る、明確な「恋のライバル」なのだ。


若草色のドレスに包まれた自分は、その争いの輪から遠く離れたところにいる。


胸の奥に冷たい針が突き刺さるように痛み、思わず裾を握りしめた。


その様子を、メアリーは感情の読めない微笑を浮かべながら、じっと見守っていた。


そして、すぐ傍らに立つモナカもまた――ウイの想いを痛いほど知っている。


だが同時に――リオウの心がユウへ向けられていることも、ノルド城にいた者なら誰もが知っている事実だった。


だからこそ、その恋が決して実らぬことを、彼女は知っていた。


モナカは唇を噛み、そっと視線を伏せた。


胸に秘めた憂いを表には出さず、ただ黙ってウイの背を支える。


ウイの胸に走る痛みを知ってか知らずか、リオウの瞳はなおもユウを追い続けていた。


いつも控えめで優しい次女ウイ。

彼女がどんな想いで生まれたのか――その「誕生秘話」を短編としてまとめました。


『男の子を産まねばならない妻が、女の子を抱いて笑った』

https://book1.adouzi.eu.org/n1547lh/


政略のために「男の子を」と望まれ続けた母・シリ。

それでも、女の子として生まれたウイを抱いて、彼女は静かに微笑みました。


本編では語りきれなかった、

グユウとシリ、そして“ウイがこの世に生まれた日”の物語です。


よろしければ、あわせてお読みください。


次回ーー明日の20時20分

リオウは愛を、イーライは忠義を、シュリは沈黙を選ぶ。


ウイは涙を隠し、ユウはただ静かに目を伏せる。


――それぞれの想いが、初夏の馬場で交錯する。

この恋は、まだ誰のものでもない。




登場人物


ユウ

セン家の長女。母シリの知略と美貌を受け継ぐ。


シュリ

ユウの護衛で乳母子。剣の腕に秀で、ユウへの想いを胸に秘める。


イーライ

キヨ配下の家臣。穏やかな茶の心を持つ青年。ユウに惹かれ始めている。


ウイ

セン家の次女。内気で純粋。姉に劣等感を抱きながらも恋を知る。


リオウ

コク家の嫡男。ウイの初恋の相手。だが心は今もユウに向かう。


メアリー

リオウの姉でキヨの妾。知的で穏やか、弟とウイの行方を見守る。


サム

レーク城の重臣。かつてシリに仕えた忠臣。


モナカ

ウイの乳母。優しく見守る庇護者。


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