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夫を殺した男の妾になる――届かなかった小さな願い

突然のメアリーの訪問に、ヨシノは慌てて深々と頭を下げた。


「どうぞ」


メアリーはすっと足を踏み入れ、窓辺に目をやる。


ロク湖の水面が、陽を反射してきらめいていた。


「・・・良いお部屋ね。広々として、気持ちがいいわ」

柔らかな笑みを浮かべながらも、その灰色の瞳はどこか冷たく光っていた。


三姉妹の中で最も感情を隠せないウイが俯く。


冷静なレイが、その様子を横目に見ていた。


――メアリーが暮らすのは、一階の二十四ある部屋のうちの一室。


対して自分たち三姉妹は、二階の四部屋すべてを与えられている。


望んだわけではない。


けれど、あまりにもあからさまな格差がそこにあった。


レイの乳母サキが気を利かせてお茶の支度を始める。


その間に、メアリーはゆるやかに椅子へ腰を下ろした。


「ユウ様」

微笑んだまま、じっと顔を見つめる。


「体調はいかがでして?」


仮病を使ってまでキヨの出陣を見送らなかったユウは、息をのむ。


その瞳を真正面から受け止めきれず、少し居心地悪げに頷いた。


「・・・お陰様で、大丈夫です」


「・・・それなら良かった」

メアリーは言いつつ、意味深にユウのドレスへ視線を落とす。


ユウは、その瞬間、ビクッと肩を震わせた。


そんなユウに気づかぬふりをして、メアリーは穏やかに微笑む。


「あなた方は、私の従姉妹。・・・どうか私を姉と思って、なんでも相談してくださいね」


輝くような美貌に、教養をにじませた落ち着いた口調。


だが、ユウの胸には警鐘が鳴っていた。


――あの男の妾。油断してはならない。


「・・・はい」

曖昧に微笑みながら答えるユウの声は、わずかに硬い。


「あなた方のことは、弟のリオウから伺っております」


メアリーの声が穏やかに落ち、室内の空気が揺れた。


リオウ。


かつてノルド城にいた頃、ユウの婚約者候補となった黒髪の青年。


その名を聞いた瞬間、ウイが勢い込むように前に出た。


「リオウ様の・・・お身体のご様子は?」

群青の瞳が切実に輝く。


思わずメアリーは目を見開き、やがて小さく笑んだ。


「今は手当を受けておりますが・・・近いうちに、ご挨拶に来られると思いますわ」


「そうなのですね!」

ウイの声が弾み、頬が赤らむ。


レイはその様子を横目に、ちらりと姉を見た。


――ウイ姉様は、ずっとリオウに恋をしていた。


無事の喜びに胸を躍らすウイとは、対照的に

ユウは、紅茶を口に運ぶ仕草ひとつ変えず、淡々とした顔をしていた。


リオウの容体は、以前耳にした。


目の前にいるメアリーの真意が気になる。


熱い液体が喉を通っても、心の内は凍りつくように静かだった。


「それにしても・・・ユウ様はお母上にそっくりだと伺っております」

メアリーは穏やかに微笑んだ。


「はい、そう言われます」

ユウは静かに答え、窓辺に金の髪が揺れる。


陽の光を受け、淡く輝いた。


「その・・・青い瞳には、やはり青いドレスがお似合いでしょうね」

メアリーの視線が、ユウの身に纏う薄紅のドレスへと落ちる。


一瞬、空気が張りつめた。


――今の言葉。探りを入れている。


レイは姉とメアリーを交互に見やりながら、黒い瞳を細めた。


「ええ。けれど今日は、こちらを選びました」

ユウは涼やかに微笑んだ。


その凛とした姿に、場の空気が一瞬張りつめる。


――姉上も強い。けれど、このメアリーという人も・・・。


レイはカップを持ちながら、淡々と二人を見比べた。


ーー少し空気を揺らそう。


レイは決意して、ふと無邪気な声を投げる。


「メアリー様は・・・どうしてキヨ様の“想い人”になられたのですか?」


その言葉が、静かな部屋に波紋を広げた。


“想い人”――それが妾を意味することは、誰もが理解していた。


レイの問いが落ちた瞬間、

ユウは瞳を大きく見開き、ウイは慌てて口元を押さえる。


――あまりに真っ直ぐで、あまりに危うい質問。


一瞬の沈黙が流れ、薄紅色のドレスの裾を握るユウの指が強張った。



「私には、かつて夫がおりました」


メアリーはふんわりと微笑みながら、レイの顔をまっすぐ見つめた。


「あなたは・・・セン家の顔立ちね」

メアリーは指先でカップの縁を弾く。


「夫・・・がいたのですか?」

ユウが思わず顔を上げる。


「ええ。良い夫でした。子供も二人授かりました」


「・・・お子さんが、いるのですね」

ウイが言いにくそうに呟く。


――だったら、なぜここに。


その思いが、姉妹の胸の奥に渦巻いた。


部屋の片隅で控えていたシュリも、黙ったまま耳を傾けている。


メアリーの瞳が一瞬だけ翳り、柔らかな笑みのまま言葉を継いだ。


「夫は・・・争いに敗れて死にました。キヨ様に討たれたのです」

その一言が、部屋の空気を裂いた。


一瞬、湯気が止まり、部屋中の時間が凍りついた。


茶器の湯気がふっと揺れ、誰も息を飲む音すら立てられない。


ユウの青い瞳が大きく見開かれ、指先は白くなるほどテーブルの縁を掴んでいる。


ウイの頬は瞬く間に蒼ざめ、レイは口を開けたまま声を失った。


――夫を殺した男。


その男の妾となった女。


事実の重さが、容赦なく三姉妹の胸に沈み込んでいった。


だが、メアリーの表情は変わらなかった。


まるで何事もなかったかのように、静かに微笑みを浮かべている。


その微笑みこそが、三姉妹の胸をさらに締めつけた。


「どうして・・・妾に」

ユウは顔をこわばらせたまま、メアリーを見据えた。


「女が生き残る道は、それしかなかったのです」

メアリーの声は静かで、揺るぎがない。


「私が妾になれば、生き残れる。子供たちも助かる」

低く落とされた言葉が、部屋に重く響いた。


「今回の争いも・・・私はキヨ様に必死に頼みました。そのおかげで、弟と母の命は救われたのです」

メアリーは、微笑んだまま少し目を細める


「でも・・・」

ウイが口を開いたが、声はそこで途切れる。


メアリーはそんな彼女を見やり、ゆるやかに微笑んだ。


「姫様方は恵まれたお立場。けれど・・・私には、他に選ぶ術などなかったのです」


「どうして・・・そんなふうに」

ユウの言葉は途中で途切れた。


夫を殺した男に身を委ねる――その苦痛は計り知れない。


それなのに、目の前のメアリーは穏やかに微笑んでいる。


「守りたいものがあれば、人は強くなれるのです」

静かな声が部屋に落ちた。


「私は・・・子供たちの成長を見届けたい。そして、コク家の復興を願っています」


ユウの胸に、かつての言葉がよみがえる。


「それは・・・リオウも、同じことを話していました」

思い出すように、ユウは小さく呟いた。


「ええ。コク家の再興。それは弟の夢でもあり、私の夢でもあります」

メアリーは静かに頷く。


メアリーが去り、波乱の午前はようやく幕を閉じた。


ユウは廊下の突き当たりにあるバルコニーにひとり佇んでいる。


湖風が金の髪を後ろへなびかせ、眼前には遥か彼方まで広がる広大な水面が銀色に揺れていた。


その扉はかつてレーク城にあったものーーユウはその木目に触れ、どこか愛おしげに指を滑らせる。


この扉の前で、父と母はよく話していたと聞いた。


亡き両親の名残を確かめるように扉に頬を寄せた。



「シュリ」

ユウがぽん、と手すりを軽く叩く。


無言の合図ーー寄れ、という合図だ。


背後に控えていたシュリは一礼して傍らに立つ。


「メアリー様は強い方ね」

ユウがぽつりと漏らす。


「はい」

シュリは控えめに返す。


ユウは視線を遠くに戻した。


「すごい方だとは思う。でも・・・私にはできないわ」

語気に少しだけ棘が混じる。


「・・・はい」

シュリの声は小さかった。


「・・・あの男に身を委ねるなんて、信じられない」

吐き捨てるような声。


胸の奥に溜め込んだ憎悪と拒絶が、湖風に乗って散っていく。


シュリは眉を寄せ、ただその横顔を見守った。


想像するだけで胸が裂かれる。


――この方があの男に抱かれるなど。


「守りたい人のために、自分を犠牲にするなんて、私には出来ない」


ユウの声は、泣き出す寸前のように震えていた。


シュリはそっと手を差し伸べ、静かに握る。


そのぬくもりを伝えながら、心の奥で固く誓った。


――ユウ様が穏やかに笑っていられるなら、それでいい。


それ以上の望みなどいらない。


彼の願いはささやかなものだった。


だが、その小さな祈りが届くことは、決してなかった。


次回 明日の20時20分

サムの提案で、ユウは母が愛した“りんごの丘”へ向かう決意をする。

紺の騎乗服に身を包み、馬に跨るその姿は、まるで若き騎士のようだった。


「シリ様と同じだ」

サムの声に、周囲が息を呑む。


ユウの背には風、傍らにはシュリ。

遠ざかるその姿を、誰もが――そしてミミまでも――ただ見つめていた。


登場人物 (一部)

ウイ・レイ

ユウの妹たち。ウイはリオウを想い、再会の知らせに心を揺らす。

レイは冷静に姉たちを見守る。


メアリー

キヨの妾であり、リオウの姉。

夫を討たれながらも、生き残るために敵のもとへ身を寄せた。


リオウ

メアリーの弟。ユウの元 婚約者候補だった。重傷を負いながらも生存が確認される。

その報せが、三姉妹の心に新たな波を呼ぶ。

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