殺したい――姫の激情と、扉越しの影
翌朝、出陣前のロク城周辺は喧騒に包まれていた。
戦支度を整えるキヨの元へ、イーライが静かに歩み出る。
「ご報告がございます。・・・ユウ様は本日、体調不良により出陣のお見送りはできぬとのことです」
淡々とした声が広間に落ちた瞬間、キヨの顔が歪む。
「ユウ様が・・・具合が悪いだと!?」
怒声が石壁に反響し、周囲の家臣たちが右往左往する。
イーライが一歩前に出て、沈着に頭を下げた。
「ご安心ください。・・・ただの疲労にございます」
キヨの眼はなおも血走り、声を荒らげる。
「疲労だと!? すぐに氷を取り寄せろ! 医師も呼べ!」
イーライは視線を伏せ、低く息を吐いた。
――疲労ではない。
屈辱の贈り物を拒み、なお毅然と立ち向かうために。
ユウ様は、自らを「病」に偽装なさったのだ。
だが彼は、その真意を声に出すことなく、ただ沈黙を守った。
「ところで・・・イーライよ」
声を顰めて、キヨが問いかけた。
「ユウ様は、あのドレスをお喜びになったか?」
「確かに、お渡しいたしました」
イーライは静かに答える。
――嘘ではない。ただし、真実の一部だけを選んで。
「くぅぅ・・・似合うだろうなぁ」
キヨの顔に、恍惚とした笑みが広がる。
「ありゃあシリ様のために仕立てたドレスだ。きっとユウ様にもお似合いになる」
「はっ。次の出陣の時は必ず着て見送ると」
イーライは淡々と伝える。
「そうか。そうか」
戦の前とは思えぬ緩みきった表情。
その様子を遠くで見ていたエルは、小さくため息をついた。
その時――。
背後から、確かな気配が忍び寄る。
「戦前だというのに・・・ずいぶん楽しそうですこと」
やわらかな声とともに現れたのは、キヨの妻ミミだった。
微笑んでいるのに、瞳は鋭い。
――まずい。
エルは即座に身体を硬直させた。
ーー兄者がユウ様に執着していることを、隠し通さねばならない。
キヨは思わぬ登場に目を見開き、言葉を失う。
イーライは落ち着きなく、深々と頭を下げた。
「似ておりますものね」
ミミの声が、低く張りつめる。
「な、何がじゃ? ミミ」
キヨは屈託のない笑顔をつくろうとするが、その視線は落ち着かず、宙をさまよった。
「ユウ様は・・・シリ様にそっくりですから」
ミミが一歩近づく。
小柄な体から放たれる迫力に、エルは思わず顔を覆った。
――もう、すべて悟られている。
後ろに控えていた妾のメアリーが、面白がるようにクスクスと笑う。
「いいですか」
ミミはキヨの顔を射抜くように見据えた。
声は穏やかでも、威圧感はすさまじい。
「ユウ様は“お預かりもの”です。いずれ力ある領主に嫁がせる方。妾にしてよいお方ではありません」
「・・・そ、そうじゃ。ミミの言う通りだ」
キヨの声はかすれ、背中にはじっとりと汗がにじんでいた。
四月だというのに。
「大切なお方です。邪な気持ちを抱かぬように」
釘を刺す声は、氷のように冷たかった。
「も、もちろんだ。もちろん・・・」
キヨは慌ててうなずく。
ミミは満足げに頷くと、手で扉を示した。
「それでは、出陣の時刻です。行ってください」
◇三姉妹の部屋
西棟の外が、急にざわめき立った。
武具の音、兵らの掛け声、そして馬の嘶き――出陣の時を告げる気配だ。
部屋の中で、ユウはじっと耳を澄ませていた。
ウイは落ち着かぬ様子で椅子に腰かけたり立ち上がったりを繰り返し、
レイは黙って窓辺から遠くの空を見つめている。
「・・・いよいよなのね」
ユウが口を開くと、声はかすかに震えていた。
胸の奥に冷たいものが広がる。
外で整然と響く軍勢の気配は、頼もしさよりも不吉さを運んでくる。
ユウは窓辺に立ち、遠ざかる軍勢の列を黙って見つめていた。
兵たちの掛け声が遠くから聞こえる。
だがこの部屋だけは、息が詰まるほどの静けさに支配されていた。
幼い頃から九年間を過ごした荘厳な城――ミンスタの象徴たるシュドリー城。
豊かな領地、母と共に過ごした穏やかな日々。
陽だまりの広間、祭の日の賑わい、庭で交わした何気ない笑い声。
すべてが心に刻まれている。
そして――気の強く、少し向こう見ずな従兄弟のマサシ。
いつも不敵に笑い、「ユウ!」と声をかけてくれた、その姿が瞼に蘇る。
あの城も、あの従兄弟も、これからあの男の手で滅ぼされる。
自分はただ、その行く末を窓辺から見つめることしかできない。
胸の奥に、熱とも冷たさともつかぬ痛みが広がっていった。
ウイが姉の袖をそっと握った。
「姉上・・・大丈夫?」
ユウは微笑もうとしたが、その唇は強ばっていた。
「私は・・・男に生まれたかった」
ユウは悔しそうに拳を握り締めた。
声はかすれ、でもその言葉には揺るがぬ意志が宿っている。
「男に生まれていれば、あの男と戦えたのに」
ウイとレイは声を失った。
姉のあまりに強い言葉が、部屋の空気を切り裂く。
ユウの肩が小刻みに震えた。
握り締めた拳から、低く絞り出すように声が落ちる。
「・・・殺したい」
青い瞳が燃え上がり、窓の外を睨みつける。
「――あの男を殺したい!」
その言葉は鋭い刃のように空気を切り裂いた。
だが次の瞬間、炎のような怒気は内へ沈み込む。
唇が震え、吐息とともに最後の言葉が漏れた。
「・・・殺したい」
怒気がユウを取り巻き、部屋の隅まで震わせるようだった。
「姉上・・・」
ウイが震える声で呼びかけ、レイは静かに視線を伏せた。
そのとき――静かな声が割って入る。
シュリだった。
「仮に男であったとしても、ユウ様は戦場で殺されていたでしょう」
シュリの声は穏やかだが、言葉は的確だった。
三人が一斉に彼を見る。
彼は真剣にユウを見据える。
「ユウ様が女性に生まれたのは、不幸ではなく、むしろ幸運だったと私は思います」
ユウはしばらく黙って窓の外を見つめ、やがて俯いて小さく答えた。
「そうね・・・」
扉の外に、そっと影が落ちていた。
妾のメアリー。
彼女は両手を胸に当てながら、青ざめた顔で息を潜めていた。
――「殺したい」
その言葉を、扉越しに確かに耳にしてしまったのだ。
「・・・随分と・・・苛烈なお方」
吐息まじりの囁きは、畏れとも感嘆ともつかぬ響きを帯びていた。
しばらくして、扉を軽く叩く音が響いた。
三姉妹は一斉に顔を上げ、視線を扉に向ける。
ヨシノが静かに扉を開けると、そこに立っていたのは黒髪を豊かに波打たせた女だった。
キヨの妾――メアリーである。
「ユウ様の体調が優れぬと伺いましたので・・・お見舞いに参りました」
柔らかく微笑むその口元に対し、灰色の瞳だけは冷たく沈んでいた。
その瞳の奥に宿るものを、誰も読み取ることはできなかった。
お陰様で、今日で「小説家になろう」在籍一年になりました。
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▶︎ なろう一年生、まさかの150万文字。テンプレ外を書いた。
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次回ーー明日の20時20分
「夫は――キヨ様に討たれたのです」
メアリーの一言に、部屋の空気が凍りついた。
夫を殺した男の妾となった女。
その微笑みは、哀しみか、あるいは誇りか。
ユウは震える唇で呟く。
「・・・あの男に身を委ねるなんて、信じられない」
◇ 登場人物
ユウ
セン家の長女。母シリ譲りの知性と美貌を持つが、
胸の奥には怒りと葛藤を抱えている。
シュリ
ユウに仕える青年。乳母子として育ち、彼女の唯一の支えとなる存在。
ウイ・レイ
ユウの妹たち。姉を慕いながらも、戦と運命の影に怯えている。
キヨ
ワスト領主。ユウの父母を殺した。亡きシリの面影を追い、ユウに異常な執着を見せる男。
イーライ
キヨの側近。冷静沈着だが、ユウへの複雑な感情を隠している。
ミミ
キヨの正妻。理知的で冷ややか、夫の暴走を唯一制御できる存在。
メアリー
キヨの妾。好奇と打算の狭間で、ユウを観察するように見つめている。
エル
キヨの弟。兄の歪んだ情を恐れ、密かにその動向を監視している。




