9 なぜ今になって優しくするの?
「叔父が気を失っているうちに、家を出ましょう」
そう言って、ミスティアは古い旅行鞄に自らの私物をぎゅっと詰め込んだ。ここはミスティアの私室。とはいっても、邸宅の屋根裏部屋である。侍女でさえきちんとした部屋が与えられるというのに、このざまだ。
だが日当たりが良く案外過ごしやすい屋根裏部屋を、ミスティアは気に入っていた。彼女は窓辺に置かれた鉢植えを、持っていくか迷ったあげく小脇に抱えた。
みかねたスキアが、鉢植えと軽い旅行鞄を持とうと進み出る。優しいスキアに、ミスティアは少しばかり心をなごませる。彼女は彼に甘えることにした。
「これでもう後がなくなりました。特待生になれなければ……退学です。スキアを高みに連れていくことは不可能になってしまいます。それでも、共に立ち向かってくれますか?」
「高みに連れて行きたいと考えていたのか? そんなことは望んでいない。だがあなたは俺の主だ。いつだって身を尽くす」
その言葉は、主だから従うというようにも聞こえる。
「ありがとう、ございます。スキアは何を望んでいるのですか? 私が力になれると良いのですが」
ミスティアの心に影が差す。
彼女の元精霊達を思い出したのだ。彼らは、望み通りにならなかったために離れていった。ゆえに彼女は反省して、スキアに問う。また、離れていってしまわないように。
「……婚約者殿が望む事が、俺の望みだ」
ミスティアはその答えに気を抜かれた。スキアはひょうひょうと笑っている。真剣に聞いたというのに、茶化された気分になってしまう。少々むっとして、ミスティアは眉を寄せた。
「真剣に答えて下さ――」
「そう怒らないでくれ、ほら」
すると、ミスティアの体が宙に浮く。「きゃっ」と『冷徹女』と名高いミスティアが声を漏らした。彼女の背がぐっとスキアの胸板に引き寄せられる。スキアの白い滑らかな肌が目に近い。俗に言う、お姫様抱っこだ。
「な、な、な……! おろして!」
ミスティアは顔を真っ赤にさせて抗議した。いつもの敬語も出てこない。足をジタバタさせるミスティアだが、スキアは降ろしてくれない。
「鉢植えはどうしたんです!? 私を持っていたら運べないじゃないですか!」
眉間にしわを寄せるミスティアに、スキアが困ったように笑った。すると、宙からふわふわと鉢植えが下りてきて、ミスティアの手元におさまる。風魔法で浮かしていたのだ。
「これのことか? 暴れたら割れてしまうぞ、大事に持っていて。そうだな……望みが見つかった。ミスティアがしばらく俺にお姫様抱っことやらをされることだ」
その時ミスティアは、図書室で呟いた自らの独り言をふいに思い出した。
『一度でいいから、この主人公みたいにお姫様抱っこされてみたいな』
まさかとは思う。ロマンス小説を読んだ直後で、あてられていたのだ。ミスティアは恥ずかしくてたまらなくなった。なんだか体から力が抜けて、歩き出した美しい精霊の顔をただ眺める。
ミスティアの望みが己の望みだと、スキアは言った。
(完全にはぐらかされた。こんなささいなこと、大して望んでもいないのに)
私の一言一句覚えているとでもいうのかしら、とミスティアは内心独り言ちる。もしそうなら、大陸中を探してもスキアのような貴公子は存在しないだろう。ミスティアは悔しくなってスキアの首に両手を回した。あくまで、落ちる事を防ぐためにだ。
レッドフィールド家を出た二人は、門に誰かが立っていることに気づいた。
(シシャ様。今さら、なにか用があるのかしら?)
シシャは2人に気づくと組んでいた腕を解き、こちらへ体を向き直した。どうやらなにか言いたげな雰囲気だ。ミスティアは鉢植えをぎゅっと抱きかかえた。シシャはスキアへ目配せする。ミスティアと二人だけで話したいらしい。
「スキア、降ろしてください。それとすこし離れていてくれますか?」
「……あなたがいうなら。だが、何かあればすぐ駆けつける」
スキアはそう言うと、不満げではあったがミスティアをそっと降ろした。そして額に手をかざし呪文をつぶやく。ふわりと光があらわれ、やがて消えた。
「今のは?」
「念のため、守護の魔法をかけた。裏切者は何をしでかすか分からないからな」
「……ありがとうございます」
スキアは目を伏せて、ミスティアの傍から離れていく。彼女は振り向いた。目に入るのは萌黄色の髪に金の瞳。上位の風精霊であるシシャは、ひどく無口な精霊だ。
エルフが編んだ絹の服を身に纏い、肩から緑のサッシュが掛けられている。冷たい美貌そのままに、ミスティアはシシャとの楽しい記憶がない。シシャはミスティアへ静かに語りかけた。
「ここを出るのか」
「貴方に関係ありますか? アリーシャの精霊でしょう、彼女の心配だけしていればいい」
「そうだな、関係ない。だがこれを渡しておきたかった」
シシャの表情は硬いが、声色はわずかな苦悩を感じさせた。彼は、胸元から一枚のハンカチを取り出した。そしてそれを掌に置き、丁寧に広げていく。そこには古めかしい金のペンダントがあった。小さくミスティアの生まれた日が彫られている。
「お母様のペンダント……! なぜ貴方が?」
「アリーシャが持っていたんだ。それを俺が修復した。これは貴方が持っているべきだと思う」
シシャは柔らかくペンダントを包み直すと、それをミスティアへ差し出した。アリーシャが素直に修復させるとは思えない。きっとシシャが彼女から隙を見て盗ったのだろう。ミスティアは安堵と、怒りと、何かの苦しい感情がふつふつと胸に湧き出るのを感じた。
なぜ、今さら? なぜ今になって優しくするのだろう?
「修復していただいたことは礼を言います。ですが、ええ。これは、貴方だけには持っててほしくありません。お母さまの精霊だった、貴方にはね」
ミスティアが毒づくと、シシャはそっとミスティアの手を掴み、ペンダントを握らせた。するとそのまま無言で彼女の横を通り過ぎていく。だが彼はスキアの隣でピタリと足を止めた。空気がピリ、と張り詰める。
「彼女を守ってあげてくれ」
「そのつもりだ。裏切者殿」
それだけ言うと、シシャは真っ直ぐ邸宅へ歩いて行った。ふたりの会話はミスティアには聞こえていない。ふたりはしばらくシシャの後ろ姿を見つめていたが、ついにシシャが振り返ることはなかった。ミスティアは、掌のペンダントをぎゅっと握りしめる。
(これでもう、思い残すことは一切なくなったわ)
彼女の鼻に、かつて賑わっていた日々が香った。キッチンメイドが焼いてくれたスコーンの、甘い匂い。高い空に消えていく笑い声や刈った芝生の香り。
ここはたしかに、思い出の詰まった邸宅だったのだ。





