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8 ご褒美です

 ミスティアはあまりのショックに目の前が暗くなってしまう。そのさなかである考えがよぎった。


(どうしてここまでして、仲睦まじい婚約者を演じさせようとするの?) 


 ノアの思惑はわからない。だがミスティアは心の中で首を振った。今はそんなことを考えている場合ではない。

 

(とにかく、今はスキアの無事を確かめる方が先だわ。何とかしてこの魔法を解く方法を探さなくては)


 そうミスティアが意気込んでいると、遠くで午後の授業開始を知らせる鐘の音が鳴った。その拍子にミスティア顎からノアの手が離される。彼は冷たい表情で小さく息を吐いた。


「僕のことが大好きってふるまう以外は普通に過ごしても構わないから。……じゃあそういうことで、そろそろ行きましょうか、ミスティア様。次の授業に遅れてしまっては大変です」


「はい、ノア様」


(……っ)


 先ほどの冷たい表情とは一変、ノアの表情に穏やかな笑みが浮かぶ。まるで今までのことが幻だったかのように優しく柔らかい態度。


 彼はそっとミスティアの手を取ると、彼女をエスコートして歩き始めた。いうことをきかないミスティアの体も、ノアに導かれるまま動きだす。


 けれど心は歩き始められない。この状況を受け入れることができない。

 

 ミスティアは嫌悪と怒りと不安を一心に抱えながら、ただスキアの無事をひたすらに願い続けたのだった。



 スキアの無事を確かめられないまま、一週間が過ぎた。


 ミスティアはこの一週間、彼のことが心配で心配でまったく生きた心地がしなかった。そんな中でも、ノアの魔法に抗うため心の中で必死に呪文を唱えたり、様々な方法を試したものの――全てが失敗に終わってしまう。

 

 それでもミスティアはめげなかった。しかし――。


 大変な状況に置かれているにもかかわらず、彼女の過ごす日々は、以前と変わらず平穏な日常そのもので。それが何よりも彼女の心を蝕んだ。


 誰も彼女の異変に気づかないし、助けの声も届かない。まるで足に重りをつけられ、光の届かぬ深海でもがいているような心地だった。


 ある日の昼下がり。次の授業を受けにミスティアが渡り廊下を歩いていると、賑やかな笑い声が聞こえてきた。


(あれは、ノアと、クラスメイトのご令嬢たち?)


 声の方に目を向けると、数人の女子生徒とノアの姿が見えた。座っている彼を女子生徒たちが立ち囲んでいる。――ちなみに、ミスティアはノアに敬称をつけるのを止めていた。体の自由を奪われているのだから当然と言える。


 ノアといえば、藤棚の下にある東屋でなにやら女子生徒たちと談笑を交わしていた。それを見たミスティアの心にメラメラと怒りの感情が燃え上がる。


(私は……突然自由を奪われて、こんなにも悩んで苦しんでいるのに)


 そう吐き出すと、突然ミスティアの体がノアたちの居る東屋の方へと歩き出した。


(ちょっと、あちらには行きたくないのだけど……! ねぇっ、私!)


 必死に制止するもむなしく、体は心とは裏腹にずんずんと迷いなく進んでいってしまう。するとやがて、談笑していたノアたちがミスティアの姿に気づき会話を止めた。ミスティアを目の前にした女子生徒たちが、白い顔を真っ赤に染め上げる。


「ミ、ミスティア様……!?」


 あからさまに動揺している彼女たちに、操られたミスティアが人形めいた微笑みを見せる。


「ごきげんよう、皆様方」


「ご、ごきげんよう……っ」


 ミスティアがゆったりとした動作でお辞儀をすると、女子生徒たちも慌ててお辞儀を返した。しん、と辺りに沈黙が流れる。なぜだか、女子生徒たちの瞳が熱っぽく涙でうるんでいるように見えた。


(……? どうしたのかしら。もしかしてノアと楽しそうに話していたことに罪悪感がおありなのかしら……? 私が彼の婚約者だからと)


 だとしたら、見当違いもいいところである。


 ミスティアが愛しているのはスキアであって、偽りの婚約者であるノアではないからだ。しかし最近のミスティアはあからさまにノアにベタベタとくっついていて、周囲が二人の仲を勘違いするのも無理はなかった。


 ミスティアが心で深いため息をついていると、突如としてさぁっと一陣の風が吹いた。


 頭上の藤が風に揺れ、ぱらぱらと地に落ちていく。そして藤棚から陽が差し込んで、ミスティアの銀髪が幻想的な紫色で染め上がった。その場にいた誰もがはっと息を呑む。彼女の人形めいた表情も相まって、どこか人外じみた美貌に見惚れてしまったからだ。


 その光景を目の当たりにした女子生徒たちが、思わずほうっと感嘆の息を零す。


「あ、あの。ミスティア様。御髪に藤の花がついて――」


 不意に一人の女子生徒が頬を染めつつ、ミスティアの髪へ手を伸ばした。

 だがその手が髪に触れようとした瞬間、ミスティアが彼女の手首をパシンと音を立て振り払った。

 

「きゃっ」


 手を振り払われた女子生徒が小さい悲鳴を上げる。


「失礼。私の髪に触れていいのは、ノア様だけですから」


「……は、はいぃっ! 申し訳ございませんでしたぁっ!」


(ご、ごめんなさい……っ! あ、あれ?)


 心の中のミスティアは目を瞬かせる。なぜなら手を打たれたというのに、女子生徒がとても嬉しそうにうっとりとした笑顔を浮かべていたからだ。その背後では他の女子生徒たちが小さく「ご褒美よ」「羨ましい」と囁き合ってさえいる。

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