7 操り人形
ノアがこうして大勢の前で『婚約者宣言』をしたのはこれで二回目。
確かにミスティアは現在、ノアの婚約者という肩書を背負ってしまっている。だがこれは一時的なものだ。
スキアがニトルに課せられた任務をこなせば、ノアとの婚約は解消されると約束したはず。なのに、ノアは堂々とミスティアを自らの婚約者だと言い放った。
まるで外堀を埋めるかのような物言いである。ミスティアは眉をひそめ息を吸うと、先ほどの彼の言葉を大声で否定しようとした。
「いいえ。お言葉ですが――」
――だが。
「ふふっ、いいんですか? はっきり否定しちゃっても。契約水晶の力は想像よりはるかに強力です。契約が結ばれている以上『婚約者ではない』などと口にするのは……やめておいた方が賢明かと。そうでなければ陛下のお命に、思わぬ危険が及ぶかもしれませんからね……?」
「!!」
耳元で囁かれ、ミスティアの全身からさぁっと血の気が引いていった。
――わかりやすい脅しである。
オーラントを人質にとられては、ミスティアは下手に動くことができない。喉元まででかけていた否定の言葉が、胃の底へ重く沈んでいった。その言葉は強い不快感と苛立ちに変化し、ミスティアの心をじくじくと苦しめる。まるで荒縄で体を締め上げられているような息苦しさ。
ミスティアは悔しくて、ぎゅっと拳を握りしめる。
それきり糸の切れた操り人形のように大人しくなってしまった彼女の肩に、ノアの手がそっと添えられた。
「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございました。……さて、僕はミスティア様と少しお話したいことがございますので、このあたりで失礼させていただきますね」
どうやらノアはミスティアに用があるらしい。彼に促され歩き出すと、ひりつくような羨望の眼差しが彼女の肌を焦がした。ミスティアの立場は周囲にとって羨ましく映るのだろう。
(できることならむしろ、この立場を変わっていただきたいのだけれど……!)
本当のことを言えないのがこんなにももどかしいとは。いまだ肩に置かれた手をそれとなく振り払うと、ノアがふっと息を漏らすのが聞こえた。
そして二人は、周囲の視線を背に中庭を立ち去ったのだった。
*
「先ほどは脅すようなマネをして、申し訳ございませんでした」
「……えぇ」
ミスティアとノアは、人気のない第二図書館に場所を移していた。開口一番に謝罪され、ミスティアは言いたいことを抑えつつ何とか謝罪を受け入れる。
するとノアは棚にある分厚い本の背表紙をなぞりながら、くすりと笑みを漏らした。
「ミスティア様は、僕のことが嫌いなんですね?」
「!」
突然そう指摘され、ミスティアの心臓がドキリと跳ねる。何も返せずにいると、ノアは自嘲気味に笑んだ後こう言葉を続けた。
「ま、嫌われるのも無理はないですよね。お二人の恋路を邪魔している訳ですから。でも学園で一番の成績を収めて、笑顔を振りまき皆の人気者になれば、少しは心変わりしてもらえるかもと思ったんだけどなぁ……。他の子は皆、僕のことを好きになってくれたのに。とても残念です」
やれやれと小さいため息を吐くノアを、ミスティアは無感動な目で見つめる。そして毅然とこう告げた。
「申し訳ございませんが、私がノア様を好きになることは今後一切ございません。ですので、私のために貴方様がご無理してまで努力なさる必要はないかと存じます」
「ふはっ、ひどいなァ」
ばっさりと切り捨てられたノアが小首を傾げる。「ひどいな」と口では嘆きつつも、その顔には余裕そうな薄笑いが浮かんでいる。ミスティアは彼の態度にどこか薄ら笑い心地を覚えた。
「本当に、僕のことを好きになるつもりはないんですね?」
「はい、ございません」
なぜならミスティアには、最愛の精霊であるスキアが居るのだから。
「…………そうですか」
残念、とノアが目を伏せ小さく呟く。
笑顔を絶やさない普段の明るい彼とは、まるで別人とも思える冷たい表情。ミスティアが眉をひそめると、ノアは口の端を吊り上げ突然彼女へと歩み寄った。
急に距離を詰められ、ミスティアが緊張に身を固める。――すると、彼は思いもよらない言葉を口走った。
「じゃあ仕方ないですね。ミスティア様、今から貴方様には、僕のお人形になっていただきます」
「――え」
彼女が驚く間もなく、ノアの掌の影が素早くミスティアの顔を覆う。
「『操り人形』」
刹那、ミスティアの視界がぐわんと歪んだ。
ブツリ、という糸を引きちぎるような不吉な音が聞こえ、体の感覚が全てなくなっていく。やがていくらか時間が経つと、ミスティアの歪んでいた視界は元へゆっくり戻っていった。
(何が起こったの……!?)
そして、気づく。
指を、唇を、瞼を動かそうとしても、まったく身動きが取れないということに。
まるで体を石にされたようにミスティアが動けないでいると、目の前に立つノアが満足げな笑顔を浮かべた。
「あはは! 凄いなぁ。この魔法かなり強力なはずだけど、精神までは操れなかったよ。さすがは救国の英雄様だ!」
(……!?)
ケラケラと笑われ、ミスティアは思わず息を呑む。
(体の自由がきかない。魔法をかけられた……!? でも出立前、スキアが守護魔法をかけてくれたのに、どうして……!?)
そう、スキアは『学園だから心配はいらないだろうが、念のため』と出立前にミスティアへ守護魔法をかけていた。ゆえに彼女に対する魔法は無効化されるはずである。だがノアはその守護魔法を打ち破ったのだ。
困惑するミスティアの心境を察したのか、ノアが口を開く。
「今、大精霊がいる『聖なる森』は、空気中に漂ってる魔素――つまり魔力の粒子がものすごく濃い場所なんだ。そのせいで、お前と大精霊を繋いでる魔力の流れに乱れが生じる。で、その魔力が乱れた一瞬の隙を狙って、僕がお前に闇魔法をかけたってわけ。……理解できた?」
(そんな……! まさか、罠だったなんて……! スキアは無事なの!?)
心の中でそう叫ぶも、ミスティアの体はまったくいうことを聞かない。
「かわいそうに。いっそ心まで操られていれば、辛い思いをせずに済んだのにね。大精霊のことが心配でしょうがないんだろうけど、僕はいじわるだから彼が無事なのかどうかは教えてあげない」
そう昏く嗤いながら、ノアがミスティアの頬にそっと自らの手を添える。
(いや、触らないで!)
心で拒絶を続けるミスティアへ、ノアのゾッとするほど美しい顔が近づく。お互いの息遣いさえ感じられる距離――。
ミスティアが心の中で冷や汗を垂らしていると、ノアが彼女の顎を乱暴に掴み上げた。至近距離で見る彼の瞳は、どす黒い闇が蠢いているように見えて。
その昏さにミスティアは思わず気圧されてしまう。
「いい? お前は今から可愛い僕の『操り人形』だ。いくら心の中で泣きわめこうが、体は命令に決して抗えない」
(私に一体何をさせるつもり!?)
ミスティアが心の中で問うと、彼はまるで彼女の言葉が聞こえているかのように、クッと口の端を吊り上げた。
「期待させて悪いけど、『今すぐ死んでくれ』だとかそんな、血も涙もないような残酷なことを強いはしないよ。ただ、僕の『婚約者』として――それらしく振る舞ってもらいたいだけ。たとえば僕に笑いかけて、優しくするとかね。僕を心から愛してるって周りに思わせてほしいんだよ。たったそれだけのこと。……さあ、返事は?」
返事を促すノア。するとミスティアの唇から、とんでもない言葉が飛び出した。
「はい、ノア様。大好きなノア様の命令に従います」
――『自分』が発した言葉に、ミスティアは思わず凍り付く。
(っ! どうして。声が勝手に!?)
ノアが大好きだなんて微塵も思ってもいないのに、なぜかミスティアの口からはスルスルとそんな言葉が飛び出てしまったのだ。
ミスティアの素直な返事を聞いたノアが、ニコリと機嫌好く微笑んだ。
(本当に、文字通り彼の『操り人形』にされてしまったってこと……?)
「いい子だ」





