28 ほっと一息、からの
「さぁ? どうだろうな。一応垣根に着地するよう調整はしておいた。しかし先ほどの男、あなたに『こんなもの』を使おうとしていたようだぞ」
そう言うとスキアは先ほど令息が立っていた場所の地面から、とある小さなものを拾い上げた。彼はそれを指先で摘むようにしてミスティアへ掲げて見せる。
「香袋……?」
香袋とは名の通り、香りのよいハーブや乾燥花を布の袋に詰めたものである。
貴族令嬢がよく持ち歩いている小物だが、令息が持ち歩くとは珍しい。ミスティアが目を丸くしていると、スキアは香袋をぎゅっと握りしめた。すると彼の手の中でボッと炎が生じ、香袋はあっと言う間に灰となりどこかへ散り去っていった。
スキアは消えゆく灰を冷たい目で見送る。
「闇の魅了魔法がかけられていた。大した魔法ではないが、一時的に香りを嗅がせた相手を虜にするものだろう。なんともまぁ姑息な手段を使おうとしたものだ。……無抵抗のあなたを力づくで手に入れようとした男のことなど、気にかける必要はない」
「……! そうだったのですね。危ない所を助けていただいてありがとうございました。スキアは本当に頼りになります」
「いいんだ。それより、一人で出歩くとはあまり感心しないな。先ほどのように悪い虫がわんさかついてくるぞ。レッドフィールド領でなら構わないが、ここでは俺に一声かけてからにして欲しい」
グサッと釘をさされ、ミスティアはしゅんと肩を落とした。スキアの言っていることはもっともだし正論である。――しかし。
ミスティアの脳裏に舞踏会での彼の微笑みが過る。
あんな顔を見てしまっては、とても声をかけることなどできなくて。ミスティアが複雑な表情を浮かべ顔を伏せると、何かを察したスキアが彼女へ歩み寄った。
スキアは幼子に言い聞かせるように、柔らかくミスティアへ声をかける。
「すまない、そんな顔をさせるつもりはなかった。一人になりたい時だってあるだろうに、あなたの気持ちを考えず意地悪なことを言ってしまったな。俺はどこかへ行くから、ミスティアはここでゆっくりしていてくれ」
語られるにつれ弱々しくなっていく声に、ミスティアはハッと顔を上げた。
彼女の瞳に、寂しそうに微笑むスキアの姿が映り込む。ミスティアは胸が締め付けられ慌てて口を開いた。
「いいえスキア、どうかここに居てください! こちらこそわかりやすく落ち込んでしまったりしてすみません。……私って、スキアのことになるとどうにも感情が抑えられなくて――」
そこまで言いかけたところで、彼女は自分がつい口を滑らせてしまったことに気づいた。突然押し黙ったミスティアにスキアが首を傾げる。
「俺のこと?」
「ええと、その」
忙しなく視線を彷徨わせるミスティアをスキアがじっと見守る。そしてついに彼女は観念し、自分の秘めたる思いを彼へ打ち明けることにした。
「さ、さっき……。舞踏会でスキアが一人のご令嬢に微笑みかけているのを見ました。貴方はただ微笑んだだけなのに、私、とても苦しくなってしまって。私以外にも、あんな風に笑うんだ、って」
言ってしまった――とミスティアは胸のあたりでぎゅっと拳を握る。しばしの沈黙が流れ、やがてスキアが口を開いた。
「そう、だったのか。あなたに悲しい思いをさせてしまい本当にすまなかった。ただ、言い訳させてもらうと……あの時俺が笑ったのは、あなたのことを褒められたからなんだ。『ミスティア嬢は本当に素敵な女性ですね』と。それで嬉しくなり、つい笑みが零れてしまった」
「……っ!」
ミスティアの頬がかぁっと上気する。
なぜなら彼女は自分の浅はかさを恥じたのだ。スキアがあの令嬢に向けた優しい微笑みが、まさか自分を思ってのことだったなんて。
「私、私……自分が恥ずかしいです。本当に申し訳ありませんでした。ご令嬢にも、スキアにも」
「何も謝る必要はない。あなたを悲しませてしまった俺が悪い。でも、気持ちを打ち明けてくれて嬉しいよ。ミスティアは心を押し殺すところがあるから。……少しは、気持ちが晴れただろうか?」
「は、はい。これからはあまり嫉妬しないよう気を付けます。やたらとスキアを困らせたりしません。ですからどうか、このことで失望しないでくださると嬉しいです」
ミスティアが『迷いは断ち切った』と意気込むと、スキアは優しく目を細めた。
「……ふふ」
彼が笑う。しかしその微笑みは決して心が安らぐようなものではなく、黒く妖しい雰囲気を纏うもの。ミスティアは目を瞬かせる。一体どうしたのかと。
「……あぁ、すまない。あなたの言っていることがあまりに見当違いすぎて」
「け――見当違い?」
「わからないか? 失望どころか俺は嬉しいんだよ、あなたに嫉妬されて。俺が決して純真な精霊と言えないことは、ミスティア。あなたなら既に承知だろう。あなたの黒い悋気をすすり、心を悦びで満たすおぞましい精霊――それが俺だ。……嫉妬も抱える黒い感情なにもかも、ミスティアのものなら愛しい。あなたを愛しているから」
だからどうか俺の前だけでは、肩の力を抜いて。ありのままでいて欲しい。
耳元で囁かれ、ミスティアは頭が真っ白になった。
その隙にスキアがミスティアの手を掬い上げ、自らの頬へそっと当てる。スキアの暗く深い碧眼がミスティアを魅了する。目が離せない、まるで神話の蛇に睨まれて体が石になってしまったかのように。強い視線に心を射貫かれたまま、ぼうっと体が熱を帯びていく。
ミスティアはやっとという風に声を発した。
「そんなに優しくされたら、スキアに何もかも依存してしまいそうです」
「大歓迎だ。俺もあなたに依存している。ミスティアなしでは生きられないから」
「……スキア」
ミスティアはたまらなくなり、目の前の彼へぎゅっと抱き着いた。
普段、ミスティアから積極的に彼へスキンシップを図ることは少ない。そのためスキアはわずかに目を見開き、目元を薄く赤らめた。そして愛おしくてたまらないという風情で彼女をぎゅっと抱きしめる。
ミスティアはスキアの腕の中で内心独り言ちた。
(私、スキアの前で背伸びしすぎていたのかも。ありのままでいて欲しいって言われて……なんだかホッとしちゃったわ)
スキアならきっと嘘偽りなく、彼女の全てを受け入れるのだろう。そう考えるとミスティアはスキアのことが愛おしくて愛おしくてたまらなくなった。湧き出る感情が抑えられず唇から言葉となって零れ出る。
「世界一大好きです」
「! ミスティア。俺もあなたが世界一好きだし、愛している」
二人はそうしてしばらくの間、隙間なく抱きしめあっていた。するとふいにミスティアがおずおずとスキアを見上げる。何か言いたげな彼女の様子にスキアが優しく微笑みかけた。その笑みにつられミスティアはある問いを彼へ投げかける。
「あの、つかぬことをお聞きするのですが。……精霊って、性別関係なく恋愛感情を持ったりするんですか?」
思いがけない質問にスキアが一瞬固まる。
「好きになるのに性別は関係ないが」
「そ、そうですか」
「何か気になることが――まさか、俺がソルムに気があると?」
図星を刺されたミスティアの頬がさっと赤くなる。
「いっいえいえいえっ! ちょっと聞いただけですから忘れてください!」
「ふ、そんなに必死にならなくてもいいのに。心配せずとも俺はミスティア一筋だ」
「ですから忘れて――」
という賑やかなやりとりが中庭で交わされる中、ある人物が薔薇の垣根の影で息を呑んだ。
(完全に姿を現すタイミングを見失った……)
土精霊、ソルムである。
ソルムはスキアとほぼ同じタイミングで、別々の場所からミスティアを追いかけていた。そして、彼女が貴族令息に絡まれているのを見て、助けに入ろうとしたのだが――スキアに先を越されてしまう。
その瞬間、ソルムは自分が悔しさを覚えていることに気づいた。
答えを見つけられぬまま身を潜めていると、目の前でミスティアとスキアが甘い雰囲気になり始め――。声をかけることもできず、ただその場に立ち尽くすしかなくなってしまったのである。
(ミスティア様とスキアが互いを想い合っていることは、とうに気づいていた。それなのに……なぜ、こんなにも胸が締めつけられるのだろう)
ソルムの表情に影が差したその時、中庭で空気を裂くような大声がした。
「ミスティア嬢、ミスティア・レッドフィールド嬢はいらっしゃいますか!? 一大事です! この声が届きましたら、至急、陛下がおられる大広間へお戻りください!」
「!?」
見知らぬ何者かの声。ミスティアたちと物陰のソルムが息を呑む。彼女を探し求める声はどんどん増えていき、ミスティアがスキアを見上げる。





