26 シシャの理由
シリアス注意です。
ある遠い、在りし日の事。
シシャは、腕の中で愛する主人が息絶えてしまうのを、ただ見つめることしかできずにいた。
不幸な事故だったのだ。馬車が崖上から落ち、その高さから風魔法さえも衝撃を防ぎきれなかった。
「シシャ……私の愛しい精霊様。そこに、いるの……?」
「セルビアっ……! ああ、ここにいるとも」
セルビアと呼ばれた女性の震える手が空に差し伸べられ、シシャがその冷たい指をきつく握りしめる。血が滑って滴り落ち、また落ちていく。シシャは自分の力不足を呪った。彼女の傷を癒すことも痛みを取り除くことも出来ない。セルビアはもう目が見えていないのか、ぼうっと焦点の合わない瞳をさまよわせた。
「あの人は無事……?」
あの人とはセルビアの夫の事だ。
シシャが彼女の隣に視線を向けると、既に息絶えたセルビアの夫がいた。
「――ああ、無事だよ。医者に診てもらっているから今は会えないけれど……」
シシャはとっさに嘘をついた。彼の言葉を信じたセルビアが、良かったと緩やかに微笑む。シシャは気取られないよう静かに涙を流した。血と涙が混ざって、どんどん彼女の命を流れさせ奪っていく。
「ミスティアに愛していると……」
うとうと、とセルビアが目を瞑る。握っていた手がぬるりと滑り、地に落ちた。
魔力供給が徐々に絶たれていく。シシャの身体は透け、不可視の存在へなりつつあった。彼が失意に嘆いていると、不意に遠くの方から声が聞こえた。
「おい、見つけたぞ!」
男の声。シシャは喜びで笑顔がこぼれた。
(助けだ! 助けが来たんだ……!)
複数の声が聞こえる、どうやら数人いる様だ。男たちに声をかけようとするが、既にシシャは実体がない存在になってしまっていた。
(くそ……! 俺たちはここだ! セルビアを助けてくれ……!)
そんなシシャの願いが届いたのか、男たちが彼らのいる馬車にやって来る。全身黒ずくめで顔も隠れているが、今はそんなことはどうでもいい。シシャは安堵に表情を緩ませた。
しかしその時、黒づくめの男は思いもよらぬ言葉を言い放った。
「よし、ちゃんと死んでいるな」
(……………な、に?)
これは不幸な事故だ、そのはずだった。
シシャに気づかなかった男たちが踵を返し立ち去っていく。彼の頭の中にぐるぐるといろんな情報が混ざり合った。シシャの心の中に、怒りと憎しみが足先から頭上へと立ち上っていく。
(事故じゃない。セルビア達は殺されたんだ! 一体誰が……夫妻は恨まれるような人柄じゃない。彼女たちが死んで得する者……)
シシャの脳裏に、パッとセルビアの夫の弟の顔が浮かんだ。
良く男爵家に訪ねてきては、セルビアの夫と喧嘩していた様子を思い出す。『俺が当主になるべきだ!』といつも居丈高に叫んでいた。彼ならば、もしや。
シシャは腕の中に眠るセルビアをぎゅっときつく抱きしめる。やり切れない憎しみの中、消えるしかないのか。すべてを呪いながら、彼は完全に実体を失い、やがて不可視の存在へと変わっていったのだった。
シシャが目を開くと、そこには紫水晶の瞳を持つちっぽけな少女が居た。彼はその少女があまりにもセルビアにそっくりだったため、ここは天国で、彼女と再会できたのだと一瞬心が浮き立った。
だが彼女を良く見てみれば、その少女がセルビアではなく彼女の娘、ミスティアであると気が付く。シシャは自分の愚かさに思わず自嘲した。
(精霊が天国などと……馬鹿らしい。まさかセルビアの娘に召喚されることになるとは……)
シシャは一瞬、契約を断ろうと考えた。しかし彼の復讐心がそれを拒む。苦しくとも成し遂げなければならない目的があったのだ。
セルビアを殺した者の正体を必ず暴き、報いを受けさせたい。だが精霊が人を殺めれば、主人であるミスティアも罰を受けるだろう。そのためシシャは復讐の実行をためらってしまう。それは身が引き裂かれるくらいに苦しい選択だった。
(ああミスティア。セルビアに生き写しの貴方が愛おしい。……そして同時にこの上なく憎らしいよ)
愛しい、憎い、愛しい愛しい、憎い。その複雑な感情の燻りによって、シシャはミスティアへ優しく接することができなかった。彼女が主でなければ良かったのに――。セルビアの死を過去にしたくなくて、ミスティアと彼女の思い出を語ることもできず、時は流れていく。
(ミスティアに打ち明けるか? 貴方の母は殺されたのだと。……いや、そんなことを伝えて何になる? 彼女の叔父へナイフを突き立てろと言うのか?)
自問自答を繰り返して時が経ち、ある日転機が訪れた。
「なあ! 俺たちの主人はミスティアじゃなく、アリーシャが相応しいと思わねえか? あの女の無能さにはほとほとうんざりする。お前たちもそうだろう!?」
主を鞍替えしたいというシャイターンの提案である。本来であれば考えられない浅はかな暴挙だ。シャイターンの愚昧さに吐き気さえ催した。しかもセルビアの愛娘であるミスティアを、明らかに虐げているアリーシャを主に据えたくはない――しかし。
(主人がミスティアでなくなれば、俺はセルビアの仇討ちが出来る!)
シシャはその提案を受け入れた。彼女を慕っているように見えた、アリエルさえ賛成したのには驚いたが。こうして、ミスティアは心から大切にしていた精霊達にことごとく裏切られてしまったのである。
アリーシャの父ミハエル・レッドフィールド卿は、娘アリーシャを溺愛していた。そのためシシャは主であるアリーシャを利用することを考えつく。直接本人に尋問しても良かったが、もし邪魔が入りでもしたら復讐の機会が永遠に失われてしまうだろう。
やるなら慎重に、徹底的に計画を練らねばならない。
アリーシャの弱みを握るために彼女を観察していたら、やっと本性を現してくれた。
心が躍る。ああこれで、セルビアの仇を討つことが出来るのだ。シシャは昏く微笑んだ。ミハエルと彼の愛するアリーシャを、必ず地獄に落としてやる。
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