サーの奇妙な体験 50
水曜日、午前0時投稿頑張ります。
2人は毎日、穏やかに楽しい生活を過ごしています。
そんな生活の中で、いくつかの不思議な感覚に気がついきはじめました。
それはいったい……
新しい年のはじまり
寒さの残る冬の朝、窓から差し込む柔らかな日差しが、恵美の手元を照らしている。台所では、ゆっくりと煮えるお雑煮の香りが部屋中に広がり、正月らしい静けさの中に温かな
気配に満ちていた。
「んー、いい香り……」恵美が深呼吸をするように呟くと、小さく微笑みながら鍋の中を確認する。
その時、トントンと足音が聞こえ、寝癖のついた髪を手で押さえたサーが、半分眠たげな顔でリビングに入ってきた。
「おはよう……お母さんあけおめ〜〜」
サーが口元を抑えながらあくびをする。
「おめでとう!今年もよろしくね、サー」と恵美はふわりと微笑む。「寝坊助さん、朝からお雑煮作るのがどれだけ大変か知ってる〜?」
「うーん、
それは感謝しないといけないねぇ……ありがとう、お母さん。」サーは少しだけ申し訳なさそうに言いながら椅子に腰を下ろした。
「でもさ、これって正月の醍醐味じゃない?朝起きたら、もうご馳走ができてるって最高じゃん!」
「都合のいいことばっかり言って、ほんと昔から変わらないんだから。」恵美は呆れたように笑いながら、器に雑煮を盛り付ける。
「そう言われると、そうかもね。」サーは軽く肩をすくめると、「じゃあ、その恩返しに顔くらい洗ってくるよ!」と勢いよく立ち上がった。
寝ぼけ眼で洗面所へ向かう途中、廊下にかけられたカレンダーに肩をぶつけて「痛っ!」と声をあげる。そのまま少し恥ずかしそうに振り返ると、キッチンに立つ恵美がちらりと見て「寝ぼけてるなら、雑煮で目を覚ましたほうが早いんじゃない?」と笑いながら言った。
「大丈夫!これも正月の醍醐味だし!」サーはそう言いながら洗面所に飛び込む。鏡の中の寝ぼけた自分の顔を見て、「あー、これはひどい…」と小さくつぶやく。
蛇口をひねり、冷たい水を顔にバシャバシャと浴びるたびに少しずつ目が覚めていく。歯ブラシを手に取ると、「今年こそはお母さんに少しは恩返しするって決めたのに、結局朝ごはん作ってもらってるんだよなー。」なんて心の中でつぶやきつつ、ゴシゴシと歯を磨く。
さっぱりとした気持ちで洗面所を出ると、廊下を歩きながら「お待たせしましたー!顔も洗ったし、気合十分!」と大げさに声を張り上げる。
キッチンに戻ると、恵美が「顔だけじゃなくて、もう少し行動も変わってくれたらいいのに。」と小さく笑いながら言い、サーはテーブルに座りながら「お母さん、そこは突っ込まないで!正月なんだからさ!」とにっこり。
こうして、温かい雑煮が待つ食卓に、サーはようやく落ち着いて座るのだった。
サーは手を合わせて、「いただきます!」と言ったあと、箸でそっとお餅をつまみながら目を細めた。「やっぱり、お母さんのお雑煮が一番だよ。なんかこう、ホッとする味っていうかさ。」
「それ、毎年言ってくれるけど、そんなに変わったことしてないのよね。ただ、昔からの味を守ってるだけ。」
「それがすごいんだって。いつか私もちゃんと継がないとね……でも、まずはお母さんの教えがないと無理かも。」
恵美は少しあきれた表情を見せた。「そう言ってくれるなんて嬉しいわ。でも、まずはキッチンに立つ習慣から始めないと。」
「今年の目標にする?」サーが冗談めかして言うと、恵美は笑いながら、「それは大賛成!」と答えた。
朝食を終えたあと、二人は支度を整えて出かける準備を始める。厚手のコートを羽織り、マフラーを巻きながら、サーがふと思い出したように言った。
「そういえば、初詣はどこに行く?
「そうね、井の頭弁財天にしようか。あそこの雰囲気、やっぱり好きだし。昔、お父さんとあの近くに住んでてね、初詣も2人で行ったことあるから。サーとも行きたいと思って、お母さん今年はそこに決めてたんだけどどう?」
恵美が微笑むと、サーも頷いた。「じゃあ、それで決まりだね。」
外に出ると、澄み切った冬の空気が二人の頬を冷たく撫でていく。時折すれ違う人々が挨拶を交わし合い、門松や飾りで彩られた家々が、新しい年の訪れを静かに祝福しているかのようだった。
「サー、今年はどんな一年にしたい?」と恵美が聞くと、サーは少し考えてから答えた。「そうだな〜……もっといろんな人と関わって、自分を成長させたいかな。仕事もだけど、プライベートでも。」
「いい目標ね。頑張らないとね。」
恵美の言葉に、サーは少し照れくさそうに笑った。「お母さんは?何か目標ある?」
「そうね……健康でいられることが一番だけど、それに加えて、もっと家族と一緒に過ごす時間を作りたいかな。」
「それは嬉しいな。」サーは歩きながら肩を軽く寄せた。「じゃあ、まずは今年の初詣からだね。一緒にいい年にしようね。」
母娘の温かな会話は、冬の冷たい空気の中でも途切れることなく続き、新しい一年の始まりを心から楽しんでいる2人だった…
元旦のすがすがしい空気の中、サーと恵美は中野駅の改札をくぐった。お正月らしい華やかな服装の人々が行き交い、ホームには初詣に向かう家族連れやカップルの姿がちらほら見える。普段の慌ただしい通勤風景とは一変した穏やかな雰囲気に、サーは思わず微笑んだ。
「お母さん、今日はいつもの通勤電車と雰囲気が全然違うかも…」
とサーが言うと
「まあ、お正月だからね。でも、こうやってのんびり電車に乗るのも悪くないでしょ?」
「そうだね。久しぶりに一緒に初詣出かけるからこれもまたちょっと新鮮かも」
電車がホームに滑り込むと、ふたりは乗り込み、空いた座席に並んで腰を下ろした。車内には正月らしい和やかな空気が満ちている。着物姿の女性や、子供たちの楽しそうなはさ声が聞こえ、ふたりも自然と心が弾む。
2人は話しているうちに、電車は次々と駅を通り過ぎていく。高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、そして西荻窪。ふたりの住む中野から吉祥寺へ向かう道のりは、馴染み深い景色が続いていたが、今日はどこか特別な感覚がする。
「お母さ~ん、おみくじ引くの楽しみだねぇ、私は絶対大吉狙い!」とサーが言うと、恵美は微笑みながら答えた。
「あなたはいつも大吉を引いて嬉しそうだから、見てるこっちまで幸せになるのよ」
「お母さんと久しぶりの初詣だもんね、今年、見せてあげるね、大吉の笑顔!」
そんな冗談を言い合ううちに、電車は吉祥寺駅に到着。改札を抜けると、駅前にはすでに多くの人が行き交い、それぞれ、初詣や福袋を求める人達が自分たちの目的に向かう人々の流れができていた。屋台の匂いと新年を祝う明るい声が広がり、街全体が祝福に包まれているようだった。
「さ、行きましょうか。今年もお願い事、しっかり頼まないとね…」
「うん。お母さんも健康第一でお願いしてよ!もう若くないんだからね!」
「サー、歳は関係ないでしょ!(笑)」
親子の笑顔が新しい一年の幕開けを彩るように、ふたりは井の頭弁財天への道を歩き出した。
井の頭公園に足を踏み入れると、清々しい空気がふたりを包み込んだ。冬の澄んだ空に映える公園の木々は、ところどころ霜が降りてキラキラと輝いている。広場には家族連れや散歩する人々がいて、穏やかな新年の風景が広がっていた。サーは息を吸い込み、満面の笑みを浮かべた。
「気持ちいいね、この空気!ねぇ、お母さん」
「本当ね。お正月にこんなにのんびり歩けるなんて贅沢だわ」
恵美も頷きながら、冷たい風の中に感じる日差しの暖かさを味わうように目を細めた。
七井橋にたどり着くと、弁財天を目指す人々がちらほらと行き交っていた。橋の上から見下ろす池の水面は、穏やかに波打ちながら冬の光を反射していた。鴨たちが水の上をすいすいと進み、子どもたちの笑い声が遠くから聞こえる。
「ねぇ見て、お母さん、あの鴨たち!のんびりしてていい感じだね」
「本当にね。ああいう姿を見ると、ちょっと心が和むわ」
橋を渡り切り、弁財天の朱色の鳥居をくぐると、参拝客の列ができていた。ふたりはその列に並びながら、小声で今年のお願いごとについて話し合った。
「お母さん、もうすぐだね。お願い事まとまった?」
「うーん、家族が健康でいられることかしら。あとは……あなたが幸せでいられるようにって」
「もう、そんなこと言われると照れるよ。でもありがとう」
順番が来て、ふたりは手を合わせた。サーは目を閉じ、心の中で願いごとを唱えた。「お母さんが健康で、今年も穏やかに暮らせますように。そして、自分も仕事で少しでも成長できますように」。横で恵美も静かに目を閉じて祈りを捧げている姿を見て、サーは改めて母の存在の大きさを感じた。
お参りを終えた後、ふたりはおみくじ売り場に向かった。賑わう境内の中、サーと恵美はそれぞれ一本ずつおみくじを引いた。そして、2人同時に紙を広げる。
「やった!大吉!」
「あら、お母さんも大吉だわ!」
顔を見合わせ、大喜びするふたり。
「すごいね、新年早々幸先いいじゃん!」
「これはきっと今年一年、いいことがたくさんあるっていうお知らせね」
笑いながらおみくじを大切にたたみ、それぞれ財布にしまった。
「サー、なんかお腹すいたね。帰りに何か食べて行こうか」
「いいねぇ、何がいい?お母さんたこ焼きとか?」
「お正月らしくないけど、面白いわね、たこ焼き!」
そんな会話をしながら、ふたりは元の道を戻って行った。再び七井橋に差しかかると、ふたりは足を止めた。
目の前に広がる音楽堂が、冬の柔らかな日差しを浴びながら静かに佇んでいる。その何気ない景色に、なぜか心を引き寄せられる。
その時、サーが何かを感じます。
「……ねえ、お母さん、なんだか不思議な感じしない?」
サーが言うと、恵美も眉を寄せたまま音楽堂に目を向けた。
「うん……確かに、何か……懐かしいような、でも言葉にできないような……」
恵美の声も不思議と小さく、何かを思っている様だった。
ふたりは音楽堂を見つめ続けた。その建物自体に特別な何かがあるわけではない。ただ、この景色……」
「どうしてだろう……何か思い出しそうな気がするのに、思い出せない……」
サーが呟くと、恵美は静かに頷いた。
「そうね。昔来たことある場所だけど、今感じてる懐かしさはその当時の事では無いのはわかる…何か違う感じなのよね」
恵美は視線を弁財天の方を見て
「井の頭弁財天もすぐそこだし……神様が何か伝えたいのかしらね…」
ふたりは言葉を交わしながらも、周囲の喧騒がどこか遠のいていくような感覚が、ふたりを包み込んでいた。
冷たい風がふたりの頬を撫で、再び現実に引き戻されたふたりは、互いに小さく息をついた。
「……行こうか、お母さん。」
「ええ、そうね、行きましょう。」
ふたりは音楽堂を背に歩き出したが、ふたりとも心のどこかに奇妙な感じを抱えながら七井橋を渡り切った。
「さ、駅に戻ろうか。」
恵美がふっと息をつくと、サーはすぐさま顔を輝かせた。
「じゃあ、たこ焼きね!絶対たこ焼き買うから!」
まるで子どものように胸を張るサーに、恵美は思わず吹き出した。
「はいはい、お嬢様。じゃあ、どこかおいしいお店を探しましょう。」
「もう決めてる!さっき見た駅前の屋台!行列ができてたやつ!」
ふたりは吉祥寺駅の方へと歩き始めた。道中、先ほどの奇妙な体験を思い出す間もなく、たこ焼きへの期待がどんどん膨らんでいった。
駅前に到着すると、例のたこ焼き屋の行列はさらに伸びていた。
「お母さん、ここ絶対おいしいって!見て、この列!それにもうすごくいい匂いがしてる!」
サーが目を輝かせて屋台を指差すと、恵美はサーのテンションの高さに少し呆れ顔になった。
「まあ、こんな寒い日にたこ焼きっていうのも悪くないわね。それじゃ〜並びましょうか。」
「よっしゃ!いちばんおいしそうなの頼むからね!」
恵美が
「どれも一緒に焼いてるんだから同じでしょ…」
寒さに震えながらも無事にたこ焼きを手に入れたふたりは、その場で立ち食いを始めた。
「……熱っ!でもおいしい!」
サーがひと口食べて跳ね上がるように声を上げると、恵美も笑いながら箸を伸ばした。
恵美
「ほんとだ、おいしいわね。外はカリッとして、中はトロトロ。これ、家でも作れたらいいのに。」
サー
「いやいや、こういうのは屋台だからおいしいんだよ。寒い中で食べるのがいいんだよ!」
たこ焼きを頬張りながら、ふたりは思わず顔を見合わせた。そして吹き出すように笑った。
サー
「これ、なんか楽しいね。」
恵美
「たまにはこういうのもいいわね。立ち食い、ハマっちゃうかもね(笑)」
ふたりが笑いながら残りのたこ焼きを平らげる頃には、音楽堂での不思議な感覚も、先ほどのざわつきも、すっかりどこかへ消えていた。ただ、今は熱々のたこ焼きと、この何気ない瞬間がすべてだった。
たこ焼きで気分もお腹も満たされたふたりは、笑顔のまま家路についた。
「来年も初詣の帰りはたこ焼きにしようか。」とサーが言うと
恵美は屋台を見渡して
「いいわね。でもその時は他にもいろいろ食べたいな。焼きそばとか、フランクフルトとか!」
サー
「食べ歩きツアーになりそうね。」
笑い声が冬の冷たい空気の中に響き、ふたりの足取りは軽やかだった。
お正月の賑やかさがいつの間にか過ぎ去り、日常が戻ってきた。サーと恵美の毎日はあわただしく、気がつけば一日、一週間、一月と、まるで水の流れのように過ぎていく。
仕事に追われているサーは、ふと自分のデスクのカレンダーが目に入った。そこには「2月22日」と赤いペンで小さく丸をつけてあるのが見えた。母の誕生日——その日がもう間近に迫っていることに気づき、サーは小さく息を吐いた。
「お母さんの誕生日か……何をプレゼントしようかな。」
その瞬間、恵美の笑顔が頭に浮かぶ。忙しい日々の中でも、いつもサーのことを気にかけてくれる母の優しさ。その声、その仕草、一緒に過ごす何気ない時間——すべてが宝物のように思えた。
「去年は何をあげたっけ……あ、あのショールだ。でも今年は久しぶりに一緒に過ごせる誕生日だから、もっと特別なものにしたいなぁ。」
サーは母が喜ぶものは何か悩んでいた。
物を贈るだけではなく、母に感謝の気持ちを伝えたい。それがどれほど難しくても、心を込めた何かを贈りたいと思う気持ちが湧いてくる。
サーの心には小さな温かさが灯るような感覚があった。それは、母との思い出がひとつひとつ心に蘇ってくるからだろう。
「お母さん、何を送ったら喜んでくれるかな…?」
サーは小さく微笑んだ。その顔には、母への思いやりと優しさ、そして何か新しい感謝を込めたいという強い気持ちがにじんでいた。
カレンダーを見つめながら、サーはふと思い出した。母がかすみ草を好きだと言っていたことを…
「そうだ、お花にしよう。物はいつでも買えるけどお花は限りあるからなんか違うかも…」
サーの心に、答えがすっと降りてきた。以前、母がぽつりと話してくれた思い出がよみがえる。
「お父さんから初めてもらった花がかすみ草だったの。それ以来、なんだか好きになっちゃったのよね。白くて、小さくて、控えめだけど可愛らしいのよ。」
恵美が話してくれたときの、少し照れくさそうな笑顔。今でもはっきりと思い出せる。それが母の大切な思い出であることは、サーにもすぐに伝わってきた。
「お父さんからの花、今でも忘れられないって言ってたっけ。」
サーはつぶやきながら、自然と微笑んでしまった。お父さんからもらったかすみ草を、母はどんな気持ちで受け取ったのだろう。控えめで、けれどしっかりと存在感を持つその花が、母の気持ちと重なって見える。
「やっぱり、かすみ草がいい。」
その瞬間、サーの中で迷いが消えた。ただ贈るだけじゃなく、母が大切にしている気持ちをそっと包み込むような贈り物をしたい。その一途な想いを知っているからこそ、自分が母の心に寄り添える形にしたいと思ったのだ。
「喜んでくれるかな……いや、きっと喜ぶよね。」
そう思うと、サーの口元がにやりと緩んだ。そのまま、手に持ったマグカップを片手で傾けながら、一人でニヤニヤしている自分に気づく。
「あ、やば〜今の顔、同僚に見られたらちょっと怪しい人みたいかも。」
思わず声に出して、ぷっと笑ってしまった。でも、それも構わない。母への感謝の気持ちを形にできる喜びと、どんな風に母が反応してくれるのかという期待が心を温かく満たしていた。
「よし、明日早速、お花屋さんに行こう。」
こうしてサーの中で、かすみ草を贈る計画が動き出した。その優しさと思いやりに満ちた決意は、仕事中ではあるが小さく光を灯していた。
2月22日、とうとうその日がやってきた。
お母さんがケーキや食べたいものを買ってくるので、私はプレゼントだけ
サーは朝からそわそわしていた。今日は仕事を早退させてもらう予定だ
何度も時計を見ながら、駅近くのお花屋さんに足を運ぶ時間を心待ちにしている自分に、思わず笑ってしまう。
仕事も終わり、慌てて帰るサー
「これでお母さん、どんな顔するかな。」
小さな声でつぶやきながら、お花屋さんのドアを押した瞬間、店内に漂う優しい花の香りがサーを包んだ。カウンターには、事前にお願いしておいた大きなかすみ草、まるで待ちきれないような花束が堂々と置かれていた。
「あ、いらっしゃいませ! 高橋さんですね、お待ちしてました!」
明るい声で出迎えてくれたのは、笑顔の素敵な若い店員さんだった。その声と表情だけで、この店が特別だと感じられるくらいの温かさがあった。
「わぁ、本当に大きい……素敵!」
サーは思わず花束を見つめながら、顔を輝かせた。
「お母様へのプレゼントなんですよね? そうおっしゃっていたので、心を込めて束ねました。それと……」
店員さんは少し悪戯っぽく微笑むと、小声で耳打ちしてきた。
「店長にはナイショで、ちょっとだけサービスしておきました! ほら、これでより華やかになったでしょ?」
言われてよく見ると、花束には通常よりもたっぷりとかすみ草が使われていて、ふんわりとした丸みがさらに可愛らしさを引き立てていた。
「本当ですか!? すごく素敵……ありがとうございます!」
サーは目を丸くしながら、大きな声で感謝を伝えた。
「いいえ、こちらこそお母様のためにお花を選んでくれたその気持ちが素敵ですから。お母様、絶対喜んでくれますよ!」
店員さんの言葉に、サーはさらに心が温かくなった。
「このお花屋さん、来てよかったな……」
そう思いながら花束を受け取り、サーは心の中で密かに誓った。また何か特別な時には、この店を訪れようと。
花束を両手に抱え、店を出ると、冬の冷たい空気に花の香りが溶け込むような感覚がした。その清々しさと喜びに、サーの歩調は自然と弾んでいた。
「早く渡したいな……お母さん、どんな顔するかな?」
サーは顔をほころばせながら、嬉しさを抑えきれない様子で家への道を急いだ。その姿は、通りすがりの人々にも幸せを分け与えるように輝いて見えた。
サーは家の玄関にたどり着くと、弾むような気持ちを抑えきれず、花束をしっかり抱えたままピンポンとインターホンを鳴らした。
「ただいまー! お母さーん!ドア開けて〜」
いつもより大きな声で呼びかけると、奥から聞こえてきた恵美の返事は少し気だるそうだった。
「はいはい、今行くわよ。まったく〜、私も忙しいのに〜」
足音が近づき、玄関のドアが開く。そこで目にしたのは、大きな真っ白なかすみ草の花束を抱えたサーの笑顔だった。
「えっ……?」
恵美は一瞬言葉を失い、目を丸くした。その後、花束に視線を落とし、再びサーの顔を見つめた。
「お母さん、お誕生日おめでとう! これ、プレゼントだよ!」
サーの声は明るく、誇らしげだった。恵美は驚きの表情を浮かべたまま、しばらく花束を見つめていたが、やがて目元がじんわりと潤んでいくのがわかった。
「これ……全部、私に……?」
「そうだよ。お母さん、かすみ草が好きだって言ってたから。」
サーの言葉を聞いた瞬間、恵美はもう抑えきれなくなった。
「……ああ、もう……バカね、こんなに大きな花束……」
恵美はそっと涙をぬぐいながら、それでも目は離せないように花束をじっと見つめた。
「でも、ありがとう。こんなに綺麗な花、久しぶりに見たわ……お父さんがくれた時みたい。」
恵美の声が震えているのを聞き、サーは少し照れくさそうに笑った。
「お父さんのこと思い出すかなって思って。喜んでくれてよかった!」
恵美は静かに頷き、花束をそっと受け取った。その手のひらに伝わるかすみ草の柔らかさに、涙がまた溢れそうになる。
「本当に……ありがとうね、サー。あなたがいてくれて、お母さん本当に幸せよ。」
玄関先で立ったまま、ふたりはしばらく言葉を交わさなかった。ただ、かすみ草の白い小さな花々が、ふたりをそっと包み込むように静かに揺れていた。
家に入り、恵美は、大きなかすみ草の花束を両手で抱えながら、家の中をあちこち見渡していた。どこに飾るのが一番いいのか迷っている様子だ。その表情には、サーからのプレゼントを心から喜んでいるのがはっきりと伝わる。
「うーん、この花束、こんなに立派だと目立つ場所じゃないとね……」
恵美は独り言を言いながら、リビングのテレビ台の脇の棚に目を留めた。そして、棚を少し拭いて整えた後、そっとかすみ草を置いてみる。ふわりと広がる白い花が、部屋全体を明るく包むように見える。
「わあ、ここがぴったりね!」
嬉しそうに微笑みながら、恵美は少し離れて花束を眺めた。その視線には、感謝と愛おしさがあふれている。
「サー、本当にありがとう。これを見るたびに元気が出るわ。」
ふと後ろを振り返ると、サーがにこにこと笑いながら立っていた。
「気に入ったみたいでよかった。やっぱりお母さんにぴったりだと思ったんだ。」
「ええ、とても素敵よ。お父さんのことも思い出すし……本当にありがとう。」
サーは母の嬉しそうな姿に目を取られキッチンのテーブルを見ていなかった。
サーは思わず目を見開いた。テーブルの上には所狭しと並べられた料理の数々。揚げたての唐揚げ、彩り鮮やかなサラダ、豪華なオードブルの盛り合わせ。湯気が立ち上るその光景を見て、サーは目を輝かせた。
「お母さん、これ……どう見ても二人分じゃないよ!」
恵美は笑いながらエプロンを外し、得意げに胸を張った。
「いいのよ。今日は特別な日なんだから! お腹いっぱい食べてくれると思ってね。」
「でも、これ……全部食べたら私たち動けなくなるよ。っていうか、明日もこれ食べることになりそうな予感……」
サーは嬉しそうに笑いながら、唐揚げに手を伸ばした。そして、ふとテーブルの真ん中に置かれたホールケーキに目が留まる。シンプルで可愛らしいデザインのケーキには、なんと蝋燭が3本だけ立っていた。
「……ちょっと待って! お母さん、これどういうこと?」
サーが指を差すと、恵美は小首をかしげた。
「何が?」
「蝋燭、3本しかないんだけど! 今日で何歳になったか、完全に無視してない?」
恵美は吹き出しそうになりながら肩をすくめた。
「だって、全部立てたらケーキの上、蝋燭だらけになるじゃないの! これじゃあケーキというより、キャンドルスタンドよ。」
その言葉にサーも大笑いした。
「それはそれでロマンチックだけどね。でも、お母さん、これってチョンボじゃない?」
「違うわよ。こうすることで若く見えるっていう作戦なの。どう? 天才的でしょ?」
「いや、天才っていうより、ただの言い訳でしょ!」
二人で顔を見合わせてまた笑う。そんな中、サーは改めて思った。この温かい空間と、お母さんと過ごす楽しい時間こそが、何よりの幸せなのだと。
「じゃあ、せっかくだから3本でお祝いしようか!」
「そうね! 少ないけど、その分、一緒にたくさん笑えばいいのよ!」
ふたりは笑顔でケーキを囲み、誕生日の歌を歌いながら、ふわりと灯された3本の蝋燭を吹き消した。蝋燭の小さな光が消えると同時に、部屋の中には二人の笑い声が弾けるように響き渡った。
パーティーも佳境に入り、恵美とサーは料理をつまみながらグラスを傾け、すっかりいい気分に酔っていた。唐揚げやサラダをつつきながら、何気ない話題で笑い合う声がリビングに響く。
「お母さん、これ、もっと食べなよ!今日はお祝いなんだから!」
サーは赤ら顔で笑いながら、恵美のお皿に唐揚げをどんどん乗せていく。
「もう、お腹いっぱいだってば!あんた、先に酔っ払ったでしょ?」
「そんなことないよー。私はまだまだいける!」
そう言いながら、サーが次の一口を口に運ぼうとした時、玄関のチャイムが鳴った。
「……え?こんな時間に?」
恵美が首をかしげる中、サーは勢いよく立ち上がった。
「私が行く!」
ふらりとしながらも、軽い足取りで玄関へ向かうサー。酔ったせいか、妙にテンションが高い。
「はーい!」
扉を開けると、そこには宅配業者が立っていた。
「お届けものです。」
そう言って差し出されたのは、なんとまたしても大きな束のかすみ草。
「えっ……ちょ、ええ〜〜えっ!?またかすみ草!?」
サーは目を丸くしながらも、思わず笑い出した。
「ちょっと待って、これ、どういうこと?今日、うち、かすみ草祭りなの!?」
荷物を受け取る手が少し震えているのは、驚きと酔いのせいだろう。
リビングに戻ると、大きな花束を抱えたサーを見て、恵美も目をぱちくりさせた。
「え、何その花……またかすみ草?」
「そう!なんでまた届いたのかわかんないけど、これ、すごくない!?お母さん、今日かすみ草に愛されてるよ!」
サーが抱えてきた二束目のかすみ草に、恵美は驚きと戸惑いを隠せない様子だった。
「ちょっとサー、それ……誰から?」
恵美が不思議そうに尋ねると、サーは首をかしげながら答えた。
「それがね、わからないの。送り主の名前、書いてないんだよね。」
「え、書いてないって……どういうこと?」
サーは手元の花束に添えられたメッセージカードを取り出し、恵美に見せた。カードには、ただ短くこう書かれているだけだった。
「誕生日おめでとう…」
そしてその下に意味深に記された三文字、「ING」。
「……これだけ?こんな大きな花束を送ってくれたのに、名前も何もないの?」
恵美が驚いた表情でカードをじっと見つめると、サーは困ったように笑いながら肩をすくめた。
「うん、そうみたい。誰だろう……?これ、なんか意味があるのかな。」
「もしかして……お店のお客さんが、お母さんにファンレター代わりに送ってくれたとか?」
サーが首を傾げながらそう尋ねると、恵美は苦笑いを浮かべた。
「私のお客さん?いやいや、そんな人いないわよ。みんな普通に髪を切りに来てくれるだけで、花束なんて気の利いたもの、誰も送らないわ。」
「そっか……じゃあ、やっぱり違うか……。」
ふたりは顔を見合わせながら、カードの文字に視線を落とした。
「『誕生日おめでとう』は、わかるけど…
この『ING』って、どういう意味なのかな?」
「進行形……とか?でも、何が進行してるのかなんて、全然わからないわね。」
ふたりはソファに座り、花束とカードをテーブルに置きながら、頭をひねった。
恵美
「これってもしかして……何かのいたずら?
でも、こんな綺麗な花束を送るなんて、いたずらにしてはおかしいしね……。」
サー
「うん、すごく丁寧に束ねられてるし、むしろ本気の贈り物だよね。」
ふたりの会話は自然と落ち着いたトーンになり、贈り主の意図や「ING」の意味をあれこれと考え始めた。突然の贈り物に心が浮き立つ一方で、謎が深まるばかりだ。
リビングにはかすみ草の優しい香りが満ち、ふたりの心をそっと包み込む。それでも、この不思議な出来事に込められたメッセージの正体を思うと、どこかざわつくものが残った。
恵美はかすみ草を眺めながら、ふと何かを思い出したように小さく首を傾げた。そして、ぽつりと呟くように口を開く。
「もしかしたら……あの人が送ってくれたのかも…サプライズ好きだから……」
サーはその言葉に反応して顔を上げた。
「あの人って、誰?お母さん、何か心当たりがあるの?」
恵美は少し困ったように笑いながら、視線を宙にさまよわせた。
「いや、でも……そんなはずないわ。この住所を知ってるはずもないし、そもそも、連絡なんて取ってないもの。」
その言葉にはどこか曖昧で、ふわりとした余韻が漂っていた。サーはそんな母の様子をじっと見つめながら、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開く。
「もしかして……お父さんじゃない?」
その一言は、部屋の空気をふっと変えた。かすみ草の淡い香りが、静かなリビングに漂う中、恵美の表情が一瞬強張る。
「お父さんな訳ないよぉ……?」
驚いたようにそう言いながらも、どこか遠くを見つめるような眼差しになった。サーはそんな母の反応を見て、少しおどけるように笑みを浮かべたが、どこか真剣な口調で続けた。
「だって、かすみ草はお母さんの好きな花でしょ?お父さんも知ってたんじゃない?それに、誕生日だって知ってるしね、きっと……
この『ING』って……何か続けてるとか、進行中って意味だよね。もしかして、お父さんが何か伝えたかったんじゃないの?」
その言葉に恵美は返事をしなかった。ただ、かすみ草の花束をじっと見つめ、ふわりと微笑みを浮かべる。
「もしそうだったら……ねぇ〜…でも、そんな奇跡みたいなこと、あるわけないわよねぇ…」
その声には半分冗談のような響きがありながらも、どこかほんの少し期待する気持ちが含まれているようだった。
ふたりは再びカードに目を落とし、「誕生日おめでとう」と「ING」という文字を見つめる。不思議な空気がリビングに流れ、先ほどまでの陽気なムードが、何かしらの静けさと共に変わっていくようだった。
「……ねえ、本当にお父さんだったら、どうする?」
サーの問いかけに、恵美は花束を手に取りながらそっと呟いた。
「どうするも何も……きっと泣いちゃうわね。」
その言葉に、ふたりはふっと笑い合ったものの、どこか胸の奥に不思議な感覚が残っていた。それは懐かしさとともに、何かを問いかけるような感覚だった。
恵美の誕生日から数日が過ぎ、日常の忙しさが戻りつつあったある日の夕食時。テーブルの上には恵美特製の煮込み料理と彩り豊かなサラダが並び、部屋中に温かい香りが漂っていた。サーはスプーンを手に取りながら、ふと視線を上げて母を見つめる。
「お母さんの煮込み、やっぱり最高だね。疲れててもこれ食べたら元気出るよ。」
その言葉に恵美は照れ隠しのように軽く
「大袈裟ね。でも、嬉しいわ。誕生日みたいに褒めてもらえるなんて。」
ふたりは顔を見合わせて笑い合う。どこか和やかで、温かな空気が部屋を包んでいた。
そのとき、恵美が少し思いついたように顔を上げた。
「ねえ、サー。今年の誕生日、特別なことしない?どこかで美味しいものを食べてお祝いするのはどう?」
突然の話に、サーはスプーンを持つ手を止めて
驚いたように目を丸くしながら、すぐに顔をほころばせた。
サーは携帯で急いでカレンダーの予定を見ます。
「私の誕生日?……平日だけど、いいの?」
恵美はにっこりと笑い、ゆっくりとスープをひと口飲むと、ちょっといたずらっぽく尋ねた。
「だからね、3月13日、会社休めるか確認してほしいの。」
サーは少し考える素振りを見せたが、すぐに頷いた。
「あ、大丈夫だと思う。ちょっと上司に相談してみるね。でも……」
ここでサーは、思いついたように眉を上げ、ニヤリと笑った。
「でもさ、13日の金曜日なんだよね。お母さん、ホラー映画みたいに何か起きたらどうする?」
その言葉に恵美は一瞬考えるそぶりを見せたが、すぐに声をあげて笑った。
「本当ね!ホラー映画みたいな日付だけど、私たちが楽しんでたら怖いことなんて起きないわよ。」
サーもつられて笑い出し、ふたりの間に笑顔が広がる。
「じゃあ、どこに行くかはお母さんに任せるね。どうせ美味しいお店を見つけてくれるんでしょ?」
「もちろんよ。期待してて!」
そう言って微笑む恵美の顔を見ながら、サーはこの時間の温かさを胸に刻むように感じた。何気ない夕食の中で交わされた会話だったが、それは確かに、ふたりが一緒にいる幸せそのものだった。
続く
読んで頂きありがとうございます。
とうとう迎えてしまいました……
次回、最終回です。




