サーの奇妙な体験 49
ごめんなさい、寝落ちしてしまいました…
遅れましたがよろしくお願い致します。
記憶が消されたサー、しかしどこかに違和感が……
普通の日常生活を送るサー
この先どうなっていくのでしょうか?
3人は、それぞれの胸に湧き上がる不思議な感情を抱えたまま、静かに公園を後にした。夜の冷たい空気が肌に触れ、遠くから聞こえる電車の音が日常へと引き戻すように感じられる。無言の時間がしばらく続いたが、若菜が小さく笑顔を見せて口を開いた。
「なんかめちゃくちゃ楽しかったのに、不思議な夜だったね。でも、みんなで一緒にいて良かった。」
その言葉にミユも頷き、少し安心したように笑った。
「本当だね。なんだか不思議な気持ちだったけど、こうやって話せると少し落ち着く。」
サーも小さく微笑みを返したものの、その瞳はまだ少し遠くを見ているようだった。ミユと若菜はそんな彼女をそっと見守りながら、駅へと足を進めた。
駅に到着すると、3人はそれぞれの家に帰るため改札の前で立ち止まった。
「じゃあ、また明日、今夜はありがとうございました。」
若菜が明るく手を振り、ミユも「気をつけてね」と優しい声をかける。
サーも小さく手を振り返しながら、「二人とも、今夜はありがとね…本当に楽しかった。おやすみ」と言葉を添えた。
改札を通り、一人になったサーはどこか気が抜けたような気持ちで電車に乗り込んだ。座席に腰を下ろし、窓越しに流れる夜景をぼんやりと眺めていると、突然携帯電話が小さなバイブ音を立てた。
「こんな時間に誰だろう……」
画面を開くと、そこには母からのLINEが届いていた。普段はあまりメッセージを送ってこないお母さんからの連絡に、サーは少し驚きながらも、文面を開く手が自然と早まる。
その瞬間、サーの心には何か温かいものが広がるような感覚があった。この夜の不思議な出来事を忘れるかの様に…
電車の中で、サーは母から届いたLINEの通知を開いた。そこに表示されたのは、こんなメッセージだった。
「サー、お誕生日おめでとう!
24歳でも、来年は四捨五入すると30歳だね〜(笑)
まあ、これからも楽しくやりなさいよ!
それから、来週遊びに行くからね。部屋片付けといてね。じゃーね」
あまりにも母らしい、どこかいい加減で軽やかな文面に、サーは思わずクスリと笑みをこぼした。先ほどまで胸の奥に残っていた不安な気持ちは、ふわりと霧が晴れるように消え去っていた。
「ほんと、お母さんってさ〜……思ったことをズバズバ言うんだから。」
そう小さくつぶやきながら、サーは携帯を見つめた。独り言が自然と口からこぼれる。
「30歳とか言わないでよ、まだ24歳なんだから。……でも、まあ来年確かに四捨五入すればそうかもね……。」
そう言いながら、ふと微笑む。
周囲の人に気づかれないように、小さな声で続ける。
「でも、こういうメールをわざわざ送ってくれるのが、お母さんらしいよね。なんだかんだ言って、私のこと気にかけてくれてるんだもん。」
その声はどこか優しく、愛情がにじんでいた。夜の車内の静けさの中、サーの心の中にぽかぽかとした温もりが広がる。画面に映る短いメッセージをもう一度読み返しながら、サーはふと、ほんの少し照れたように笑った。
「お母さん、ほんとにありがとうね。」
そう小さく呟くと、サーは返信の文字をゆっくりと打ち始めた。
「お母さん、ありがとう!
今夜は同僚たちが小さなお祝いをしてくれたよ。女子会みたいな感じでね。でも、本当に楽しかった!
来週、予定が決まったらちゃんと教えてね。無理しないで、ゆっくり休むのも大事なんだから。
もう若くないんだから、少しは自分の体をいたわってよね(笑)自覚も大切だよ(笑)
いつもいつも心配してる、可愛い娘より」
それからの日々は仕事や日常に追われる中、あっという間に過ぎていった。そして3月18日、母親の恵美が久しぶりに上京してきた。
駅で再会した瞬間、恵美の顔を見たサーは思わず笑みを浮かべた。少し白髪が増えたような気もするが、優しい表情は昔のままだ。
「お母さん、久しぶり!大変だったでしょ?」
「まあね、でもあんたに会えると思うと疲れなんて吹き飛んだわよ。」
恵美がそう言って微笑むと、サーは小さく笑いながらスーツケースを持ち上げた。
その日の夕方、恵美が作ってくれた手料理がテーブルに並ぶ。煮物にお味噌汁、そしてサーの大好物のから揚げまで。
「どう?味、落ちてない?」
「落ちてないどころか、最高だよ!お母さんの料理って、なんでこんなにほっとするんだろう。」
サーはから揚げを頬張りながら、満足そうに目を細めた。
「そんなに喜んでくれると、作りがいがあるわね。」
恵美は微笑みながらも、どこかほっとした表情を浮かべていた。
食事が終わる頃、恵美が何かを思い出したように小さな袋を取り出した。
「少し遅くなっちゃったけど、はい、誕生日おめでとう。」
袋の中には、小さなブレスレットが入っていた。サーの好きな淡いブルーの石が連なっている。
「お母さん、ありがとう!これ、私が好きな色だね。」
「そうでしょ?サーに似合うと思って選んだのよ。」
その後も、二人は食卓を囲んで笑い合った。日常の些細な話から、お互いの近況、そしてこれからのことまで。
「こうして一緒に過ごせる時間、本当に貴重だね。だからお母さんも若くない事自覚してよね。こうしている時間私本当に幸せなんだからね」
サーがぽつりと言うと、恵美は穏やかな目で娘を見つめながら答えた。
「そうね。でも、あんたが元気に笑ってるのを見ると、それだけでお母さんも十分幸せよ。」
久しぶりの親子水入らずの時間。サーは胸の中にじんわりと広がる温かさを感じながら、恵美の横顔を見つめた。
「ありがとう、お母さん。今日のこと、一生忘れないよ。」
「そんな大げさなこと言わないの。でも、また来年も一緒にお祝いできたらいいわね。」
夜も更けていく中、二人の笑い声が静かな部屋に響いていた……
それから2日後の昼間いつものように仕事をしていたサーに、一本の電話がかかってきた。画面に表示された名前は「お母さん」。しかし、電話口に聞こえたのは知らない女性の声だった。
「高橋さんの娘さんですか?お母様が自宅で倒れられて、救急車で病院に運ばれました。」
その一言に、サーの胸は一気に凍りついた。動揺しながらも急いで病院に向かうと、ベッドに横たわる恵美の姿があった。顔色は少し青白いものの、意識は戻っており、安堵したサーは小走りで駆け寄った。
「お母さん!大丈夫?何があったの?」
「ちょっと立ちくらみして転んじゃっただけよ。大袈裟に心配しすぎ。」
恵美は気丈に笑ってみせるが、その手には微かに力が入っていないように見える。
医師からは「疲れと軽い脱水症状が原因で、一晩点滴を受けて様子を見れば問題ない」と説明を受けた。命に関わる状況ではないと聞き、サーはようやく胸を撫で下ろしたものの、心の中には大きな不安が残っていた。
その夜、恵美の隣に座ったサーは、ベッドの上の母親を見つめながら静かに話しかけた。
「お母さん、やっぱり無理してるんじゃない?私に何でも話してっていつも言ってるのに。」
「無理なんてしてないわよ。これくらい大したことないから。」
恵美は軽く笑おうとしたが、サーはその笑顔の裏に隠れた疲労を感じ取った。
翌日、退院手続きを終えた帰り道。サーは意を決して話を切り出した。
「お母さん、こっちに来て一緒に暮らさない?」
唐突な提案に恵美は驚き、足を止めた。
「どうしたの、急にそんなこと。」
「急じゃないよ。ずっと思ってた。お母さん一人で地元にいるの、やっぱり心配だもん。」
恵美は少し考え込んだあと、静かに首を振った。
「でも、あの家にはたくさんの思い出があるのよ。」
「分かってる。でも、もしお母さんに何かあったら……私、後悔すると思う。」
サーの声は少し震えていた。その真剣な眼差しを見て、恵美は小さくため息をついた。
「……そんなに言うなら、考えてみるわ。でも、すぐに答えは出せないからね。」
「それでいい。考えてくれるだけで嬉しい。」
その日の夜、自宅で母と一緒に過ごしたサーは、何気ない会話の一つ一つが愛おしく思えた。母が自分のそばにいてくれること、それが何よりも大切だと改めて感じたのだった。
それからの日々はあっという間に過ぎていった。母が大阪からこちらに越してくることが正式に決まり、サーは新しい生活に向けて少し広めの部屋を探すことになった。仕事を終えた後、不動産会社を訪ねて間取りや条件を確認し、休日には母と一緒に内見に出かける。慌ただしい毎日だったが、どこか楽しい忙しさでもあった。
「ここ、日当たりもいいし、キッチンも広いね!」
「でも、もう少し収納が多いほうがいいんじゃない?」
母と意見を交わしながら、これからの生活を思い描いてワクワクする瞬間もあれば、決めきれない焦りを感じることもあった。そんな中、ようやく2人が納得できる部屋が見つかり、契約を済ませると、サーは胸を撫で下ろした。
サーは引っ越しの準備を手伝うために会社を休み、何度か大阪へ足を運ぶことになった。
生まれ育った家での作業は、思った以上に大変だった。クローゼットや押し入れの奥から出てくる古いアルバムや、小さな頃に遊んでいたおもちゃ。どれも母にとってもサーにとっても、たくさんの思い出が詰まっているものばかりだった。
サー
「これ、捨てるのはもったいない気もするけど……持って行くには多すぎるね。」
恵美
「本当に必要なものだけに絞らないと、新しい家に収まらないよ。」
そう言いながらも、サーは手に取ったアルバムのページをめくり、幼い頃の自分と母が笑顔で写る写真を見つめた。
部屋を片付けながら、母は時折立ち止まり、窓の外を見つめていた。
「この家で本当にたくさんの時間を過ごしたわね。あなたが生まれて、歩き始めて、学校に通い始めて……全部がここからだった。」
「そうだね……なんだか、私まで感傷的になっちゃうな。」
サーも窓の外に目を向ける。見慣れた庭や近所の風景が、これで最後だと思うと胸が締め付けられるような気持ちになった。
数日間の準備を経て、引っ越し当日がやってきた。業者が次々と荷物を運び出し、家がだんだんと空っぽになっていく様子を見つめながら、母はふとつぶやいた。
「ありがとうね、サー。仕事も忙しいのに、こんなに手伝ってくれて。」
「当たり前でしょ。お母さん1人で全部なんて無理なんだから。」
サーは笑顔でそう答えたが、その心の中では複雑な思いが交錯していた。母が大阪を離れるのは、とっても大きな決断だったのだ。
最後に家の鍵を閉めるとき、母は少しの間その手を止め、家の中を振り返った。
「ありがとうね、お家さん。本当に長い間お世話になりました。」
静かにそうつぶやく母の姿に、サーも胸が熱くなった。
サーはそんな母を見て、もう若くないのにすごくがんばっていてくれてたんだなぉとつくづく感じていました.サーは心の中で
絶対お母さんに、楽をさせて今までみたい1人で苦労を背負わせない。これからはしっかり私がサポートして楽しく2人で生活していこうと…。
東京に戻り、7月1日には新しい住まいへの引っ越しが完了した。少し広めの部屋には、大阪から運んだ荷物が山積みになり、サーと母は手分けして片付けを始めた。
「これ、どこに置く?リビング?」
「ううん、そっちは寝室の方がいいかな。」
そんな風にバタバタしながらも、親子で力を合わせて新しい生活の準備を進めていった。
夜になり、片付けがひと段落すると、2人は簡単な夕食を囲んだ。母は湯気の立つ味噌汁をすすりながら、ほっとしたように微笑む。
「本当に大変だったけど、サーが仕事休んでくれたおかげでここまで片付けられたわ。ありがとうね。」
「何言ってるの、お母さん。これからは2人で頑張るんだから、大丈夫、だからくれぐれも無理しないでね。」
サーは笑いながら母にそう言ったが、その瞳には優しい光が宿っていた。
慌ただしい日々を乗り越え、ようやく母との東京生活が始まった。これからどんな日々が待っているのか、少し不安もあるけれど、それ以上に親子で新しい人生を歩んでいける喜びが胸に広がっていた。
それから数日後のある晩、母が突然、サーに向かって静かに話し始めた。
「サー、ちょっと聞いてほしいことがあるの。」
その声には普段とは違う、どこか落ち着いた響きがあった。サーは母の顔を見つめながら、何か重い話を切り出すつもりなのだと直感した。
「何かあったの?」
サーの問いかけに、母は少し間を置いてからゆっくりと話し始めた。
「今までしっかり話した事無かったけど…
実はね、あなたのお父さんのことなんだけど……。」
その言葉にサーは少し驚いた。母が自分の父親の話をするのは、本当に初めてのことだったからだ。
「お父さん?」
サーは母の顔を見つめながら、思わず声をかける。母はしばらく目を伏せてから、深呼吸をひとつして言葉を続けた。
「実は、あなたが生まれる前にお父さんと私は別れたの。だから亡くなったわけではなかったの…
だけどね、嫌いで別れたわけではないの、お互いにね。あなたが成長してから、何度か連絡を取ったことはあったのよ。でもその時は勇気が出なくて…。気がついた時はもう連絡先、わからなくなってたんだよね…」
その言葉を聞いたサーは、胸の中で何かが動き出すのを感じた。父親の話を聞けるとは思ってもみなかった。そこには触れてはいけないとサー自信は思っていたからだ。
「お父さんはどうしているの?」
サーのその問いかけに、母は静かに答えた。
「お父さん.今はどこにいるかもわからない……でも、あなたが大きくなった今なら、もしかしたら会えるかもしれないって、お母さん思っているのよ。」
その言葉を聞いた瞬間、サーの胸に何とも言えない感情が湧き上がった。今まで漠然と父親に対する思いがあったが、母の言葉を聞くことで、ようやくその思いに形がついたような気がした。会えるかもしれないという期待感と、少しの不安が入り混じった心境が広がった。
「本当に会えるのかな?」
サーは心の中でその問いを繰り返しながら、母の反応を見つめた。母は静かに微笑んで言った。
「わからないわ。でも、会えるかもしれないと思うだけでも、少しは気持ちが楽にならない?お母さん、そう思い続けて何十年もたっちゃったけどね…」
その言葉に、サーは自然と安心感を覚えた。これまで父親がどこにいるのか、何をしているのかを知ることができなかったが、今母から聞いたその話は、自分にとって大きな意味を持つものだった。会えるかもしれない、という希望が、サーの心に新たな光を灯したようだった。
母は、昔の写真を出してくれて初めて父親の顔を見せてくれた。2人が最高の笑顔ばかりの写真……
父親との出会いから別れ、どんな人だったかいろんな話を恵美はサーに伝え、時には笑い時には涙して……
時間はゆっくり過ぎて行きました.
母とサーはしばらく黙って座っていた。お互いに言葉が必要ないくらい、心の中で何かが確かに通じ合っているように感じていた。サーの心には、これから何が起こるのだろうという期待。それでも今はその不安よりも希望が勝っていた。
「お母さん、ありがとう。話してくれて。」
サーは静かに、けれども確かな声でそう言った。母は優しく微笑んだ。
「ありがとう、サー。あなたに話せて、忘れていた事も思い出せてなんか少し楽になったわ。」
その言葉が、サーの胸に温かく響いた。
その夜、サーは自分の部屋のベッドに横たわりながら、天井を見上げていた。心の中に広がる期待と、ほんの少しの不安。それらが入り混じった感情は、胸の中で静かに膨らんでいく。
父親の存在。これまで自分の人生の中で、ずっと知りたくても知ることができなかった人の姿が、母の言葉や写真を通じて、急に鮮明になった。その感覚は、サーにとって驚きであり、どこか夢のようでもあった。
「もしかしたら会えるかもしれない……お父さんに……」
小さくつぶやいてみる。言葉に出すことで、その可能性が少しだけ現実に近づくような気がした。もし本当に会えたら、どんな言葉をかければいいのだろうか。何を話せばいいのだろうか。そして、父はどんな反応をするのだろうか——そんな考えが次々と頭の中を巡る。
サーはそっと目を閉じた。幼い頃、友達が父親と手をつないで歩いているのを見て感じた寂しさ。その記憶はまだ心の片隅に残っている。けれど、今は違う。もし父親と会えるなら、その寂しさを埋められるかもしれない。
「お父さんは、どんな声をしてるんだろう?」
彼の声、仕草、話し方。どれも想像でしかないが、今のサーにはそれを思い描くことすら楽しかった。写真で見た笑顔はとても優しそうだった。あの笑顔で自分のことを見つめてくれるのだろうか。もし会えたら、自分がどんなふうに育ったか、どんなことを頑張ってきたか、ちゃんと伝えられるだろうか。
期待に胸を膨らませる一方で、ほんの少しだけ不安もあった。もし父親が自分に会いたくないと言ったら?そんなことを考えると、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。でもすぐにその思いを振り払う。
「きっと大丈夫。お父さんも、私に会いたいって思ってくれてるはず……」
そう自分に言い聞かせると、自然と笑みが浮かんだ。
サーはベッドの中で小さく丸まりながら、父親との再会を思い描いた。手を伸ばせば触れられそうなその未来を、心の中で何度も確かめるようにして…
期待とともに、静かに眠りについた。
その夜、サーは不思議な夢を見た。
夢の中、柔らかな光の中に男性の姿が立っている。彼の顔はぼやけていてはっきりとは見えないが、その存在感だけは強く心に響いてくる。どこか懐かしくも安心感を覚えるその声が、静かにサーに語りかけてきた。
「サーちゃん、大丈夫だよ。いつも見守っているからね。」
その声には優しさと温もりが溢れていて、サーの心の奥底に直接触れるような感覚を与えた。
「だから安心して、恵美と待っててね。必ず戻るからね。」
その言葉はまるで約束のようで、サーの胸に暖かい光が差し込んだ。しかし、彼が誰なのかは分からない。ただその声には安心感があり、自然と涙がこぼれそうになった。
そして次の瞬間、サーは自分でも驚くほど強い声で叫んでいた。
「マーさーん!」
その名前を呼んだ瞬間、夢の中の光景はふっと消え、サーははっと目を覚ました。
夜の静けさに包まれた部屋で、サーはしばらくベッドの中で呆然としていた。心臓の鼓動が速く、夢の中で聞いた言葉が鮮明に蘇る。だが、それ以上に頭を離れないのは、自分が夢の中で呼んだその名前――「マーさん」だった。
「……マーさん?誰……?」
サーはぽつりと呟いた。心の中を探してみても、その名前に繋がる記憶は何一つ浮かんでこない。マーという名前に心当たりがないどころか、自分がどうしてその名前を叫んだのかさえ分からない。
「なぜ私、そんな名前を……?」
夢の中で呼びかけた名前。まるで無意識に出てきたようなその言葉には、不思議な響きがあった。まるで誰かに伝えなければいけない、大切な名前のようにも思える。しかし、その「誰か」が誰なのか、全く分からなかった。
サーはベッドの中で膝を抱えながら、夢の中で語りかけてきた男性の姿を思い浮かべた。彼は一体誰だったのだろう?そして、なぜ自分は「マーさん」という名前を呼んでしまったのだろう?
記憶を探っても何も出てこないイライラと、夢の中の言葉が残した静かな安心感が胸の中で交錯していた。
「マーさん……どうして……?」
サーは自問自答を繰り返したが、答えは見つからない。それでも、なぜかその名前が胸の奥に引っかかる感覚だけは残っていた。
夢の中の言葉が胸の中で反響する。「必ず戻るからね」という約束。そして、お母さんの名前も知っていた…マーさんの名前を叫んだ自分。すべてのピースがどこかで繋がっているようで、まだその全貌が掴めない。
けれど、不思議と怖さはなかった。むしろ、どこか安心感さえ感じる。その理由は分からないけれど、サーはそっと目を閉じ、心に刻まれた夢の記憶を何度も何度も考えながらいつしか静かな夜に身を委ねた。
朝、目が覚めると、台所から微かに漂う味噌汁の香りが部屋に広がっていた。サーはふと時計に目をやり、いつもより少し遅く起きてしまったことに気づく。それでも、慌てることなくゆっくりとベッドから体を起こした。
居間へ向かうと、恵美が台所でいつものように朝食の支度をしている姿が目に入る。鍋の蓋をそっと開けて湯気の具合を確認したり、小皿にお漬物を盛り付けたりする手際の良さは、どこか安心感を与えてくれる光景だった。
「おはよう、お母さん。」
サーが声をかけると、恵美は振り向いて柔らかく微笑んだ。
「あら、おはよう。今日はよく眠れた?」
「うん、ぐっすりだったけど、ちょっと変な夢見たかも。」
「変な夢?」恵美は興味を引かれたように小首を傾げる。「後でゆっくり聞かせてよ。」
サーは軽く頷いて、「先に顔洗ってくるね」と洗面所へ向かった。
鏡の前に立ち、歯を磨きながら昨夜の夢のことを思い返してみる。あの不思議な声や、夢の中で自分が叫んだ「マーさん」という名前。その記憶は驚くほど鮮明で、消えるどころかますます頭の中で際立っていた。
「……お母さんなら何か知ってたりしてね…」
ふと、そんな考えが浮かんだ。夢の中で聞いた言葉や、自分がどうしてその名前を口にしたのかを、誰かに話してみたかったのもあった。そして、自分が感じているこの不思議な感覚を共有することで、何か手がかりが見つかるかもしれない。
サーは歯磨きを終えるとタオルで顔を拭き、居間へと戻る足を少し早めた。
サーは洗面所から戻ると、いつもの席に腰を下ろした。恵美はちょうどお味噌汁をよそい終え、「いただきます」と笑顔で手を合わせる。サーもそれに続いて箸を手に取り、温かい湯気を立てるお味噌汁に口をつけた。
「今日も美味しいね、お母さん。」
「そう? 具はいつもと一緒だけどね。」恵美は笑いながら自分の茶碗に手を伸ばした。「今日は会社何時から?」
「普通に10時からだよ。あ、でも昼休みが少し短くなるかも。」
そんな他愛のないやり取りが続く中、サーはふと箸を置いて口を開いた。
「ねえ、お母さん。昨日、ちょっと変な夢見たんだ。」
「変な夢?」恵美は特に気にする様子もなく、焼き魚に箸を運びながら聞き返した。「どんなの?」
サーは冷静な声で、昨夜見た夢の内容を語り始めた。男の人が夢に現れたこと、優しい声で話しかけられたこと、そして最後に自分が「マーさん」と叫んで目が覚めたこと。話している間も、サーの表情はいつもと変わらず穏やかだった。ただ、どこか不思議そうに眉を少し寄せながら言葉を選んでいた。
「……でね、最後の最後に『マーさん』って叫んだところで目が覚めたんだよ。なんであんな名前を言ったのか、自分でもわからなくてさ。」
その瞬間、恵美の箸が止まった。ちょうど焼き魚の端を持ち上げようとしていたところで、その動きがぴたりと静止したのだ。
「マーさん、って……?」
恵美は思わず顔を上げ、サーを見つめた。その瞳には、いつもの柔らかな表情とは異なる何かが浮かんでいる。驚きとも戸惑いとも取れる微妙な感情が、彼女の中で渦巻いているのが見て取れた。
しかしサーは、その変化に気づくことなく話を続ける。
「うん。何でか分かんないけど、夢の中でそう叫んでた。自分でも、誰なのか思い当たることがなくてさ。でも、妙にその名前が耳に残ってるんだよね。」
サーの声は至って普通だ。夢の話をするだけの何気ない朝の会話の一環という雰囲気だった。けれど、恵美はそれ以上箸を動かすことができず、視線だけをサーの顔に留めていた。心の中では、静かな波紋が広がっていた。
サーが時計を見て「あっ、ヤバい!」と声を上げたのは、朝食の途中だった。慌ただしく立ち上がり、食器を台所へと持っていくと、素早く洗面所へ向かい身支度を整える。恵美が「ちゃんと食べないとお腹空くわよ」と声をかけても、サーは「行きに何か買っていくから大丈夫!」と軽く返事をするだけで、すぐに玄関に向かった。
「行ってきま〜す!」
慌てた足音とともに、サーは家を出ていった。その姿を見送った恵美は、静かに台所へ戻り、食卓に残された器を片付け始める。流しに器を運び、スポンジで丁寧に洗いながら、彼女の心には次第に深い思考が広がっていった。
サーの夢の話――それを聞いたときの衝撃が、今でも胸に鮮明に残っている。昨夜、初めて雅俊の話を娘にしたが、そのときはただ「お父さん」と呼んだだけで、名前までは伝えていない。それなのに、サーは夢の中で「マー」という名前を叫んだ。そしてその夢の内容は、奇妙なほど自分が昨夜見た夢と一致しているのだ。
「どうして……?」
洗い物を終えた恵美は、台所の窓から差し込む朝の光をぼんやりと見つめた。夢に現れた雅俊の姿、そして彼の優しい声が、今でも耳元に残っている。
「恵美大丈夫だよ。いつも見守っているからね。
だから安心して、サーと待っててね。必ず戻るからね。」
「雅……」
その名を小さく口にした瞬間、胸の奥に押し込んでいた感情が溢れそうになった。もう何年も会っていない。いや、何十年だ。別れて以来、一度もその姿を見たことがない。それでも、彼の笑顔や声、仕草の一つひとつは、色褪せることなく記憶に残っている。
昨夜、雅俊が夢の中で自分に語りかけた言葉――「大丈夫だよ、必ず戻るからね」というその声が、どれほど心強く響いたことか。それは、恵美の中で消えかけていた希望の灯を再び灯した。
「もし、本当に戻ってきてくれるなら……」
恵美は、手を止め、ふと自分の胸に手を置いた。雅俊と過ごした日々、彼と笑い合った思い出、そして彼を失った後の孤独な時間――すべてが胸を締めつけるように蘇る。
恵美は彼に対する愛情は変わらなかった。時が経つにつれ薄れていくどころか、その存在はより鮮明になり、彼への想いは深まっていった。サーの中に雅俊の面影を見つけるたび、彼がどれほど大切な存在であったかを痛感する。そしてそのたびに、再び会いたいという願いが心の中に芽生えるのだ。
「一体、何が起きているの……雅?」
恵美は小さくつぶやいた。サーが「マー」という名前を叫んだのは偶然だろうか。それとも、何か見えない力が働いているのだろうか――。
夢の中で彼に会えたこと、それだけでも奇跡のように感じた。けれど、もしそれが現実へと繋がる兆しならば、もう一度彼に会えるかもしれない――その希望が、恵美の胸に静かに灯っていた。
「雅……また、あなたに会いたい……」
その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ心の中から自然に零れ落ちた。雅俊への変わらぬ愛情と、今でも彼を想い続ける気持ち。それは、恵美の中で揺るぎないものとして存在していた。
9月になり、恵美は本格的に就職活動を始めた。これまでの家事を中心とした生活から少しずつ外に目を向け、近所の美容室でパートとして働くことが決まった。シフト制のため、サーと休みが重なる日も多く、母娘で過ごす時間がさらに増えた。そんな新しい日常の中で、2人の絆はこれまで以上に深まっていった。
休日になると、2人は一緒に買い物へ出かけたり、映画館で話題の映画を観たりして過ごすことが多くなった。街中でショッピングを楽しみながら、恵美が気になる服を手に取ると、サーが「これ絶対似合うよ!」と笑顔で背中を押し、試着を勧める。試着室から出てきた恵美に「若返った感じがする!」と大げさに拍手を送るサーに、恵美は苦笑いしながらも嬉しそうに微笑んでいた。
帰り道、近所のカフェに立ち寄るのも2人の小さな楽しみのひとつだった。その日も、軽やかな秋の風に吹かれながら歩き、馴染みのカフェに入り、いつもの窓際の席に腰を下ろした。コーヒーとケーキを注文し、穏やかな時間を過ごす中で、何気ない話題が弾む。仕事の話や日々の出来事を笑いながら共有し、ふと会話が途切れたとき、サーが恵美に問いかけた。
「お母さんって、どんな花が好きなの?」
突然の質問に少し驚いた様子で、恵美は少し考える素振りを見せた。そして、小さな声で「かすみ草かな」と答えた。
「かすみ草?」サーはその答えが少し意外だったのか、首をかしげて聞き返した。「なんで?」
恵美は一瞬遠くを見るような目をして、そっと微笑んだ。その表情が、まるで思い出の中に浸っているように見えた。
「お父さんがね、私に初めてくれた花束がかすみ草だったのよ。」
その言葉を聞いた瞬間、サーは胸がじんわりと温かくなるのを感じた。母が語る父親の思い出には、いつも愛情が溢れている。彼女が大切にしているその記憶に触れるたび、サーの中で父親という存在が少しずつ形を成していくようだった。
「へぇ、お父さん、素敵な人だったんだね。」
サーのその言葉に、恵美は少し照れくさそうに「そうね、そういうところがあったわね」と笑った。その笑顔はどこか照れ隠しのようでもあり、愛おしさが滲み出ているようでもあった。
「かすみ草って、控えめだけど可憐で、ずっと見ていたくなる花よね。」サーはそう言いながら、父親が母に贈った花を思い描いていた。
「そうね。小さな花がたくさん集まって、何だか幸せを感じさせてくれる花よ。」
母のその言葉を聞きながら、サーは心の中でそっと呟いた。自分もいつか父親に会えるかもしれない。もし会えたら、どんな言葉をかければいいのだろうか。彼がどんな人だったのか、もっと知りたい――そんな思いが、サーの心の中で少しずつ大きくなっていった。
カフェを出た後、帰り道で見かけた花屋の店先には、かすみ草が白く揺れていた。サーはその姿に足を止め、じっと見つめた。あの花を見ていると、父親がどれほど母を大切に思っていたのかが伝わってくるような気がした。
「いつか、お父さんにも会ってみたいな……」
その言葉を口にしたとき、恵美は驚いたようたが、すぐに優しく微笑んだ。
「そうね、いつかそんな日が来るかもしれないわね。」
2人は静かに歩き始めた。これからも一緒に歩んでいく時間が、穏やかで幸せなものでありますように――かすみ草のような控えめだけれど確かな幸せが、2人の中に広がっていくようだった。
続く
あと
読んで頂きありがとうございます。
作品どうでしたか?
初心者ですが、読者が少しでもいてくれる事がこんなに嬉しいとは思いませんでした。皆様のおかげで何とかここまで書くことが出来ました。本当にありがとうございます。あと、もう少しお付き合いよろしくお願い致します。
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