53 二千年の孤独
フレデリックは檻の中にいた銀髪の少女――アリシアを外に出した。
鎖を外しても、アリシアは何の反応もしなかった。
彼女の心は投薬のせいで破壊されていた。
檻に入れられていた他の子供たちも同じだった。
フレデリックは彼らを外に出してから、離宮の資料を燃やした。
忌々しい研究のすべてが灰に変わったのを確認してから、離宮そのものを焼いた。
王立騎士団が駆けつけてくる前に子供たちを連れて王宮を出た。
逃げるように辺境の山岳地帯に向かった。
廃館を修繕して、救い出した子供たちと共同生活を始めた。
初めてする子供の世話は簡単なものではなかった。
お金が無かった。
時間が無かった。
余裕が無かった。
それでも、本気で取り組めば人間には案外底力があるみたいだった。
冒険者として危険な魔物を狩って生活費を稼いだ。
館の畑で作物を作り、獣を狩ってその肉を調理した。
固有時間を加速させる魔法で、二倍速で家事を進めた。
投薬の効果は次第に薄れていった。
子供たちは本来の姿を取り戻していった。
お姉ちゃん役を務めてくれる子が現れた。
家事を手伝ってくれる子が増えていった。
子供たちはすくすくと大きくなっていった。
一方でフレデリックの身体は、初めて《反動魔法》を使った日から何一つ変化していなかった。
髪も伸びないし、ひげも爪も伸びなかった。
時間に関する魔法を使った代償だろうか。
あるいは、彼の抱える欠けているものへの願いが原因なのかもしれない。
彼はずっと過去に囚われていたから。
ずっと後悔に囚われていたから。
彼の時間はあの瞬間から、一秒も前に進んでいなかった。
ポケットの中で不格好な手編みのブレスレットが揺れた。
ブレスレットの時間も止まっていた。
王国は躍起になって【裏切りの魔術師】を探していた。
あらゆる事件の責任が【裏切りの魔術師】に押しつけられていた。
王侯貴族にとって、不満と怒りと不都合の行き先として彼はこの上なく好都合な存在だった。
魔王に血を分けられた魔人の仲間だと言われるようになっていた。
命を狙われ、何度も殺されかけた。
子供たちを連れて、別の場所に逃げた。
国王陛下と関わりのあった者たちが、《反動魔法》の研究を秘密裏に進める事件が起きた。
悪魔のような所業が繰り返された。
彼は研究施設を壊滅させ、資料を徹底的に焼いた。
欠けているものへの願いが強い魔法を作るという事実は、権力者を危険な方向に駆り立てるというのが彼の結論だった。
(《反動魔法》がある限り、聖痕を持って生まれた子供は安全に暮らせない)
最後に彼女に伝えた言葉がリフレインする。
『あの子は僕が守る。絶対に幸せな人生を送れるようにする。約束するから』
隠さないといけない。
そうじゃないと、悲劇は何度でも繰り返される。
変身魔法を研究し、偽名を名乗って王国魔法界の内部に入り込んだ。
通常魔法の体系を厳密に作り上げ、魔術師たちが《反動魔法》に気づけない環境を作った。
彼が作り上げた通常魔法の体系を、最も高く評価してくれたのはエヴァレット家の魔術師たちだった。
彼らは、王国で最も歴史と伝統のある名家として通常魔法を急速に発展させていった。
すべてがめまぐるしく過ぎていく中でのことだった。
彼女の娘――アリシアが言った。
「わたしは、あなたがすき」
どこか特別な奥行きがあるような響きの言葉だった。
アリシアの目元は黒い布で覆われていた。
瞳の聖痕。
目が見えない代わりに、心が見える《反動魔法》が使える少女。
「僕も好きだよ」
「あなたとわたしの好きは違う」
アリシアは首を振った。
「わたしは恋愛的な意味であなたが好き」
「ありがとう。でも、君はまだ子供だから」
「わたしはもう大人。五年前と同じ答えでごまかさないで」
アリシアは言った。
そんなに大きくなっていたのか、と驚く。
忙しい生活の中で、彼女を見ている時間は減っていた。
時間の流れは年々速くなり、子供たちの成長に心が追いつけなくなっていた。
「わかった。本当の気持ちを答えるよ」
フレデリックは言う。
「君はすごく綺麗で素敵な人になったと思う。お世辞じゃないよ。見えないからって何も不安に思う必要は無い。君は世界一綺麗だから」
「知ってる。わたしは心が見えるから」
「余計なお世話だったか」
苦笑してからフレデリックは言う。
「だから君は何も悪くない。これは僕の問題なんだ」
フレデリックは目を細めて言った。
「好きな人がいるんだよ。今も、どうしようもなく好きなんだ」
少しの間、押し黙ってからアリシアは口を開いた。
「知ってる」
アリシアは静かに口角を上げて言った。
「貴方の心が救われることを祈ってる」
五年後、アリシアは腕を切断された男の子と結婚した。
古びた屋敷の庭でささやかな結婚式をあげた。
アリシアの子供も聖痕を持って生まれた。
フレデリックはこの子を守るとアリシアと約束した。
聖痕は子供へと引き継がれていった。
同じことが何度も繰り返された。
血が薄くなると、次第に聖痕を持たない子供が生まれるようになっていった。
フレデリックは聖痕を持つ子供たちが隠れずに暮らせるようにするために、《反動魔法》の記録を世界から消し続けた。
《反動魔法》が世界から完全に失われるまで八百年かかった。
それから少しずつ、聖女の血を引く子供たちを日の当たるところへと出していった。
最初に選ばれたのは、貴族社会の中では珍しく純朴で善良な人が多いフランベール家だった。
聖痕を耳に持った少女は、フランベール家の三男を気に入った。
偽名と変身魔法を使って、聖痕が祝福の証だという風評を作った。
それでも、身体機能の一部が欠損していることを悪く言う者は必ず現れた。
気づかれないように陰から彼女たちを守りながら、どれだけの年月を重ねただろう。
魔王の封印は周期的に弱まる時期があったから、その修繕と調整にも追われた。
気がつくと、彼の心は一切の感受性を失っていた。
多分、長く生きすぎたのだろう。
何をしても何も感じない。
仲良くなった人たちはみんな自分より先にいなくなってしまった。
すべてのことが、過去に経験したことの繰り返しであるように感じられた。
ずっと後悔し続けていた。
どうしてこんな人生を生きているのだろう。
どうしてあのとき、正しい選択ができなかったのだろう。
自分の人生は間違いだったのだと思う。
それでも、最後に彼女とした約束だけが彼を動かしていた。
自分には他に何も残っていないから。
光と聖女を意味する言葉の最初の一文字を抜いたアナグラムで偽名を作った。
くだらない感傷だ。
そんなことをしても心は一ミリも動かない。
時々、自分が何をしているのかわからなくなる。
もう彼女の顔も思いだせない。
声も思いだせない。
長すぎる時間は、一切を彼方へ押し流してしまっている。
それでも、彼は進み続けた。
(終われるよ。もうすぐ終われる)
彼女が失われた日から二千年後、魔王の封印は過去に例がないところまで弱まる。
すべてを終わらせるために準備を進めていた。
思い残すことはもう何もない。
「そう思っていたあの日、君に出会った」
ローレンスは言った。
「僕は君のことを知っていた。数十年ぶりに産まれた聖痕持ちの少女。声が出せないから詠唱魔法が使えなくて、なのに誰よりも魔法に憧れているという話を聞いたことがあった」
悲しげに目を伏せて続けた。
「申し訳ないな、と思ったよ。君には《反動魔法》が使えた。だけどそれに気づけない世界を作ったのは僕だったから。でも、それでいいと思ってた。君も僕にとってはたくさん繰り返した中の一人に過ぎなかったから」
声が地底湖に響く。
「だけど、君を見た瞬間にすべて忘れていた。他に何も見えなくなっていた」
ローレンスは言う。
「君は彼女に似ていたんだ。君を見て、僕は彼女の顔を少しだけ思いだしたんだよ。そこからはもう自分でも制御できなかった。娘みたいに君をかわいがってた」
〖それで、わたしに《反動魔法》を〗
「そういうこと」
ローレンスは目を細める。
「本当はこんなこと話すつもりなかったんだけどね。でも、話せて少なくとも僕にとってはよかったよ。これで心置きなく目的を果たすことができる」
玉座に刺さった聖女の杖に手を添える。
「魔王の封印は今、この二千年の間で最も力を失っている。僕は魔王の封印を解く」
ローレンスは言った。
「そして、彼女が失敗した封印を正しい形に作り直す。僕の命を対価に、この世界からすべての聖痕を消す」




