52 許されざる者
フレデリックが意識を取り戻したとき、世界では八年の時間が経過していた。
どうしてそんなことが起きたのか、正確なところはわからない。
おそらく、魔王が生息していた【無明の大空洞】という場所の異常なまでに強い魔素濃度が時間を歪めたのだろう。
痩せ細った身体を起こして彼女の姿を探した。
必死で首を振った。
しかし、どこにも彼女はいなかった。
聖女の杖が玉座に刺さっていた。
くすんだ色のローブが傍らでうずくまる猫のように丸まっていた。
よろめきながら、近づいて触れた。
冷たかった。
持ち主がいないローブは、氷のように冷え切っていた。
彼女がもういないことを伝えていた。
目を閉じる。
瞼の裏には、最後に見た彼女の泣き顔が焼き付いていた。
(なんで……なんで彼女があんな最後を……)
悔しかった。
痛かった。
無力だった。
なぜ彼女があんな風に最後を迎えないといけなかったのだろう。
人々を救うために自分を犠牲にして、誰よりもがんばっていたのに。
なぜ何よりも守りたかった愛娘の一部さえ、対価として差し出さなければいけなかったのだろう。
神はいないと思った。
いたとしたら、とても許すことはできない。
それ以上に自分が許せなかった。
何もできなかった。
ずっと隣にいたのに。
傷つくのをただ見ていただけだった。
爪が割れて血が指を伝った。
自分の爪が伸びていることも、そんなに強く拳を握っていることにも気づいていなかった。
『お願い、あの子を助けて。あの子は何も悪いことをしてないの。私が失敗したから――』
彼女の言葉が頭の中で響く。
半ば反射的に伝えていた言葉を思いだす。
『あの子は僕が守る。絶対に幸せな人生を送れるようにする。約束するから』
彼女が守りたかったものを守らないといけない。
まだ自分にはやらないといけないことがある。
信じられないほどに衰弱して骨張った身体を引きずって、大空洞を出た。
一ヶ月かけて【還らずの禁域】を抜け、聖壁の管理をしている魔術師に食事をもらった。
小太りの男性魔術師は、かいがいしく彼のお世話をしてくれた。
「生きてれば絶対なんとかなるよ。大丈夫」
フレデリックに薬草入りの粥を手渡して言った。
「だから嘘なんてつかなくていいんだよ。《救世の七魔術師》筆頭のフレデリック・アレンハウスだなんて」
本人であることは信じてもらえなかった。
フレデリック・アレンハウスの名前は英雄として一人歩きしていたし、八年前に死んだことになっていた。
「王国のこと? 僕が知っていることでいいなら教えられるけど」
聞いたフレデリックに男性魔術師は言った。
「三年前に先王陛下が亡くなって今は新しい国王陛下が国を治めてる。聖女様と結婚した元第一王子殿下だね。評判はすごく良いし、民衆にも先王以上に好かれてるよ。何と言っても、魔王を封印する作戦を立案し総責任者として指揮を執ったのが大きいよね」
「元第一王子殿下が総責任者?」
「知らないの? 予算と武器の調達。優秀な人員の確保。士気を上げるために行った施策の数々。全部あの方がやったことなんだよ」
彼の話は、自分が記憶しているものとかなり違っていた。
あの作戦に、王子殿下はまったく関わっていないし、会議に顔を見せたこともなかったはずだ。
「《反動魔法》の研究はどうなってますか?」
「反動魔法? 何それ?」
「聖女の魔法です。王室が主導して研究していると聞いていたのですが」
フレデリックの言葉に、彼は首をひねった。
「聞いたことがないな。王室は魔法の研究なんてしてないし、今は慈善事業に熱心に取り組んでる」
「慈善事業?」
「うん。各地に孤児院を作って身寄りの無い子供たちのお世話をしているんだ。国王陛下が主導して行ってるんだよ。本当に、あんなにできた人他にいないよ。さすが聖女様が選んだ方だよね」
ちくりと胸が痛んだ。
君が思っているほど良い人じゃない、と言いたくなったが、フレデリックも当時の第一王子殿下のことをあまり知らなかった。
彼女は王子殿下のことをあまり話したがらなかったし、フレデリックも彼の話を聞きたくなかった。
否定したくなるのも、多分彼に対する嫉妬があるからだろう。
本当に、救いようがないほどにくだらない。
結婚するよう彼女に勧めたのは自分なのに。
自分で選んだことなのに。
「聖女様の娘――アリシアはどうなっていますか?」
「順調に大きくなっているという話だよ。相変わらず目は見えないままだという話だけど」
「目が見えない?」
「知らないの? 君、本当に世間の人と関わらずに生きてたんだね」
驚いた様子で小太りの男性魔術師は言う。
「魔王が封印された日、王女殿下の目に白い聖痕が現れたんだ。彼女は視力を失った」
「封印の対価……」
「対価なんてとんでもない。聖女様が世界に残した祝福の証だよ」
目の白い痣は、《白の聖痕》と呼ばれて民衆からありがたがられているという話だった。
魔王を封印した対価であり、《光の聖女》が失敗したと悔いていたことは誰も知らないみたいだった。
(当然か。あれを見たのは僕だけだ)
フレデリックは唇を噛む。
『お願い。お願いだから……』
最後に見た彼女の姿を思いだす。
(とにかく、王都に行かないと)
髪を切り、髭を剃った。
「たしかにフレデリック様に似てるね。嘘を吐きたくなるのもわかるかも」
そっくりさんだと思っている男性魔術師に苦笑する。
馬車に乗るお金はなかったので歩いて王都を目指した。
王宮の衛兵に声をかける。
「貴方は自分が《光の聖女》を支えた英雄、フレデリック・アレンハウス様だと言うのですか?」
「そうですけど」
「しばらくお待ちください」
衛兵はフレデリックのことをまるで信じていないようだった。
十分ほど待たされた後、現れたのは見覚えのある使用人だった。
彼は驚いた顔でフレデリックを見つめ、「どうぞ中へ」と王宮の中に彼を入れてくれた。
瀟洒な応接室に通される。
テーブルに置かれた紅茶を飲みながら待っていると、現れたのは意外な人物だった。
「久しぶりだね。よくぞ戻ってきてくれた」
彼女と結婚した元第一王子殿下――現国王陛下。
八年ぶりに見る彼は、以前に比べて随分としっかりしているように見えた。
さすが国中から絶大な信頼と支持を集めているだけのことはある、と素直に感嘆する。
「救世の英雄に再びお目にかかれるとは。今日は素晴らしい日だ。このことを早くみんなに伝えないと」
明るい声で言う国王陛下。
「聖女様の娘――アリシア様はどうなっていますか?」
「元気だよ。相変わらず目は見えないけど、そんなこと忘れてしまうくらい活発で元気に動き回っている」
「何よりです」
ほっと胸をなで下ろすフレデリック。
「それより、君に見て欲しいものがあるんだ」
国王陛下は離宮にフレデリックを案内した。
そこは国王陛下が許可した人以外は立ち入ることのできない特別な場所だった。
「魔素障害になるかもしれない。念のため、この腕輪をつけてほしい」
手渡された腕輪に視線を落とす。
指示された通り右の手首につける。
「実は、この離宮の地下室である魔法の研究をしているんだ」
「ある魔法の研究?」
「ああ。聖女が使っていた欠けているものへの願いが作る魔法だ」
「《反動魔法》」
「さすが、発見者にして名付け親だ」
国王陛下は目を細める。
「見て欲しい。私が積み上げてきた研究の成果を」
そこは薄暗い部屋だった。
獣を入れる檻が並んでいて、中に鎖に繋がれた動物が眠っていた。
動物は人間の子供くらいの大きさだった。
ぼろ切れから覗く手足は鶏ガラのように痩せ細っていた。
腕を折られた動物がいた。
足が切断された動物がいた。
口を縫い付けられた動物がいた。
フレデリックは息ができなくなった。
それは動物ではなく、人間の子供だった。
「欠けているものへの願いは強い魔法を作る。君が書いた通りだったよ。失ったものが大きいほど、強い魔法を使うことができる。とはいえ、その欠けているものに関連した魔法しか強くはならないし、使える魔法も通常の魔法とは異なる独自の体系のものになってしまうんだけどね」
何を言っているのかわからなかった。
何も考えられない。
何が起きているのか理解できない。
「君にも研究に協力してほしいんだ。君の残した資料は全部読ませてもらった。本当に素晴らしいよ。私ほど君の書いたものを深く読み込んだ者は他にいないだろう。一番のファンと言っていいと思う。このアイデアもすべて君の本からもらったんだ」
国王陛下は言う。
「《反動魔法》があれば、人類はさらに先に進むことができる。今より多くの物を生産し、多くの富を集積し、いかなる脅威にも負けない力を手に入れることができる。既に周辺国と戦う準備を進めてるんだ。もちろん、入念に裏工作をして、すべて相手の国が悪く見える形にしてるから安心して欲しい」
にっこり目を細める国王陛下。
フレデリックは檻の中を呆然と見つめていた。
絞り出すような声で言った。
「自分が何をしているかわかっているんですか……?」
「わかってるよ。人類を上の領域に推し進める何よりも価値のある研究だ」
自信に満ちた表情で国王陛下は言う。
「とはいえ、人為的に作るのは個体差が大きいし、強い魔法が生まれないことも多い。やっぱり聖痕を持っている子供には特別な力があると思うんだけど、君はどう考える?」
「聖痕……アリシアも《反動魔法》が使えるんですか?」
「うん。彼女の魔法はすごいよ。人の心が見えるんだ。その分逆らうし暴れるから、手懐けるのは本当に大変だった。最後は薬漬けにして私の言うことを聞くように躾けたんだ。ほら、あの一番奥の檻にいるのが彼女だよ」
フレデリックは奥の檻を見つめた。
檻の中で、目元を黒い布で覆われた銀髪の少女がぺたんと座り込んでフレデリックの少し隣を見つめていた。
「君にも、私の研究に協力してほしい。君の力があれば、我々は新しい世界の覇権を握ることができる」
「あの子は王女でしょう……? 自分の娘ですよ……? どうしてあんなことができるんですか……?」
「そんなこと、《反動魔法》の研究に比べればどうだっていいことだろう。もちろん常人には理解できない考えだとわかっている。でも、君なら私の志がわかるはずだ」
「わかるわけないでしょう。貴方は狂っている」
「残念だ」
国王陛下はポケットから小さな魔道具を取り出した。
フレデリックの右手につけた腕輪が紫色の光を放った。
「一切の通常魔法を使えなくする腕輪だ。君には、特別製の薬を投与させてもらう。安心して欲しい。君の才能は私が有効に活用する」
フレデリックは顔を俯けていた。
握りしめた右手が小さくふるえていた。
赤い筋が指の間を伝い、雫となって地面に跡を作った。
「貴方はリリアを愛していなかったんですか……?」
か細い声が地下室を反響した。
国王殿下は驚いた様子で瞳を揺らした。
「尊敬していたよ。あれは本当に綺麗な魔法だった」
愛おしそうに目を閉じる。
「あんなに美しい魔法を私は見たことがない。我慢してもいいと思えるくらいに大きな価値を感じていたよ。民たちの期待も大きかったしね。この国のために最善の選択だったと今でも思ってる。もちろん、妻として愛することはできなかったけど」
深く息を吐く国王陛下。
「容貌が本当にひどかったからね。近くにいた君ならわかるだろう」
国王陛下は言った。
「あんなに醜い、火傷痕だらけの女愛せるわけがないじゃないか」
そこで初めて気づいた。
なぜ彼女が夫である第一王子殿下の話をしたがらなかったのか。
胸を焼く痛みに耐えるために、目をそらしていた。
考えないようにしていた。
そのせいで、そこにある闇に気づくことができなかった。
自分のせいだ。
全部自分のせい。
「さあ、私と一緒に人類を上の領域に進めよう」
腕輪が作動する。
通常魔法を使えなくする力。
身体から魔力の感覚が失われる。
薬液の入った注射器を手に近づいてくる国王陛下。
頭が真っ白になっていた。
怒りがすべてを塗りつぶしている。
自分が抑えられない。
何に対する怒りなのかもわからない。
彼を殺したいと思った。
跡形もなく消してしまいたい。
全部壊れてしまえばいい。
すべてを最初からやり直したい。
選択を間違えた自分をやり直したい。
勇気のなかった自分をやり直したい。
彼女を救えなかった自分をやり直したい。
でも、やり直すことはできない。
過去に戻ることはできないから。
知らない何かが身体の奥から噴き出したのはそのときだった。
叶えられるならどんなことでもできる強い願い。
でも、絶対に叶えられない願い。
埋められない空白。
――欠けているものへの願いが作る魔法。
フレデリックが、時間を操作する《反動魔法》を使えるようになったのはこのときだった。
初めて使った《反動魔法》は、腕輪を一瞬で風化させ鉄屑に変えた。
気づいたとき、彼は地下室を徹底的に破壊していた。
国王陛下は、皺だらけの顔で虚空を見上げていた。
身長の十六倍の長さまで伸びた白い髪が彼の全身を埋めていた。
数秒の間に、彼の体内時計では二百年の時間が経過していた。
【裏切りの魔術師】フレデリック・アレンハウス。
史上最悪の魔術師と呼ばれる男が生まれた瞬間だった。




