35.無意識の罪悪
二人が話をしているのを見ながら落ち着くのを待っていたのだが、そうやって様子を見ている俺に気づいたフィオナが少しだけ気まずそうにしてから咳ばらいをして、俺へと向き直った。
「し、失礼しました。では、えーっと……シャロさんのことについて話をしましょうか、ええ」
「さっきからしてるはずなんだけど……」
「それは、そうですけど……き、気を取り直して話をしましょう!ね!」
少しフィオナをからかってから、フィオナの言うように気を取り直して本来の用事である話をすることにした。
その際にシャーリーに少しだけ目をやれば、俺がフィオナをからかうためにわざとあんな言い方をしたと察しているようで口元が少しだけ笑っていた。
咎めるようなことをしない理由としては、俺がやりすぎていないから。もしくは、フィオナは良い反応をするということで、今回のフィオナの反応がシャーリー的には楽しいからだろうか。
「えーっと……本来であれば数週間から数ヶ月かけて正規の冒険者として登録するはずのシャロさんをたった数日で正規の冒険者として登録させたことに対して、冒険者ギルドとしては規定に沿っているので何も言えません。ですが私個人としてはやはりそれで良いのか。と思ってしまいます」
「さっきも言っただろ。それに俺には俺の考えがあってあんな方法を取ったんだ。冒険者ギルドには迷惑をかけないようにするからそこは安心してくれ」
「それはわかります。アッシュさんが考えなしにあんなことをしたとは思っていません。ですが、それでもどうしても気になってしまいます」
「……そんなにあいつが心配か?」
「はい。一番初めに冒険者ギルドに登録をしに来た時も、シャロさんに冒険者としての基礎を教えた時も、その後ピースフルに行った時も、アッシュさんの態度というか、接し方にどうしても引っかかる物がありましたから」
引っかかる物があった。というのはシャロのことを警戒していることがフィオナに気づかれたのだろうか。そうであれば、確かに小さな子供を警戒している人間の下に預けておくというか、任せておくのは不安になるだろう。
「引っかかる物、か。気のせいじゃないんだな?」
なので確認をしておく。こう言ってしまえば、確信がなければ引くだろう。
ただ、引かないと言うことはその引っかかる物があるというのが気のせいだとか、そんな気がするという程度ではなく、はっきりと不安になってしまう何かがあるということだ。
「最初は気のせいかと思いましたよ。ただ……ある程度一緒に話をしていれば誰でもわかると思います。もしかするとわかっていて黙っている人もいるのかもしれませんけどね」
「あー……気づく奴は気づいてるかもな……」
事実、ハロルドはそのことに気づいていた。もしかすると白亜や桜花も気づいていたのかもしれないが、あの二人はあまり踏み込んでこないのではっきりとはわからない。
もしあの二人が踏み込んだ話をする場合は、相当に見過ごすことの出来ないことだけのような気がする。
いや、今はそんなことを考える必要はないのか。
「そうですね。私でもすぐに気づけたことですからね……シャーリーも気づいているんじゃないですか?」
「……アッシュさんとシャロさんの二人と話をしていて違和感は覚えました。きっとフィオナが言いたいことと同じだとは思います」
シャーリーとはそこまで話をしたことがないし、特に勘付かれるようなことはないと思っていた。
それなのに気づかれているというのはどうにもおかしい気がする。もしかすると俺がシャロのことを警戒している。ということ以外で、フィオナにとって不安になってしまう何かがあるのかもしれない。
ただ俺にはそれが何なのか見当もつかない。シャロを警戒して微妙に距離がある。ということ以外では、俺としては何もしていないからだ。
「やっぱりシャーリーにもわかりますよね……」
「あんまりもったいぶらないで欲しいな。それで、何が引っかかるって?」
「はい……アッシュさんは……」
もったいぶらないで欲しいと言ったのだが、フィオナは非常に言い難そうに言葉を切り、それでも言わなければならないと思ったのか、言葉を続ける。
「シャロさんのことを、ちゃんと名前で呼んであげたことはありますか?」
「……え?」
「私が聞いていた限りでは、アッシュさんはシャロさんのことを名前で呼んでいませんでした」
「私はあまり話を聞くことはありませんでしたが……それでもアッシュさんが名前を呼ぶことはありませんでしたね」
フィオナとシャーリーに言われてから今までシャロを何と呼んでいたのかを思い出す。
確かに俺は今まで一度もシャロの名前を呼んだ覚えがない。別に意識してそうしていたわけではなく、二人に言われて初めてそのことに気づいた。
「アッシュさんが何を考えてシャロさんの名前を呼ばないようにしていたのか、私にはわかりません。ですが、どんな理由があったとしても子供の名前を呼んであげないというのは、良くないと思います」
フィオナが何かを言っている。ただ、その言葉が俺には届かない。
何故そんなことをしたのか、俺自身にも理解が出来ず、戸惑ってしまったからだ。
「きっとこれはシャロさんも気づいているはずです。だって、少しの時間しか一緒に話をしなかった私たちと違って、アッシュさんと出会ってからほとんどずっと一緒にいたんですよね?だったら、シャロさんが気づかないはずがありません」
どうして。どうして。どうして。
どうして俺は、シャロの名前を呼ばなかった。
俺にとって名前を呼ぶこと、名前を呼ばれることは存在を認識されている証明のはずなのに。
それなのにシャロの名前を呼ばなかったということは、俺がシャロの存在を認識していなかった。もしくは存在を否定しているようなものなのに。
ぐるぐると頭の中をどうしてという言葉が回り続ける。
「でも、きっとシャロさんはそのことについて何も言わないと思います。お世話役だからあまり意見を言うべきではないからなのか、シャロさんの性格がそうだからなのかわかりませんが……いえ、もしかするとシャロさんは名前を呼ばれなくても何かしら理由を付けてそれも仕方のないことだと思い込んでしまうかもしれませんね」
思い出す。幼い頃、この世界での名前を名乗ったところで意味がなくて誰からも自分の存在を認識されていなかったことを。
王都の人間は誰も俺に見向きもしなかった。ただのスラム街に住んでいる子供。極少数が同情をすることはあっても手を差し伸べることはなく、それ以上に路傍の石ころを見るように一切の興味がない人間の方が多かった。
スラム街の住人だってそうだ。自分が生きることに必死で、そこにいるだけの子供になど見向きもしなかった。いや、自分が生きるために利用出来るのであれば利用してボロ雑巾のように打ち捨てるばかりだった。
「アッシュさん、シャロさんはそうやってアッシュさんに何も言わなくても傷ついていると思います。あんな小さな子供が、傍にいる人から名前を呼ばれないことで傷ついて、この先健やかに育ってくれるでしょうか」
誰も名前を呼んではくれない。捨てられた子供なのだから、呼ぶ人間がいないのは当然だったのかもしれないが、それでも俺にとってそれは精神を削るには充分だった。
前世であれば、SNSの利用やお互い顔の知らないネット上、ゲーム上のフレンドが本名ではないとしても自分を示す名前を呼び、自身を認識してくれる。もしくは、そうした顔の知らない相手との繋がりに固執する人間もいた。
だがこの世界にそんなものはなく、自分の近くの人間に名前を呼ばれないのであれば世界中の誰からも名前を呼ばれないのと同じようなものだった。
それなのに、それを知っているのに俺はシャロの名前を一切呼ぶことがなかった。
「アッシュさんが悪い人ではないということはわかります。それでも、小さな子供の名前をちゃんと呼んであげないとなると、その子がちゃんと健やかに育つかどうかを考えるとどうしても不安になってしまいます」
それがどれだけ酷いことをしていたのか。それを認識した途端に頭部を鈍器で強打されたような衝撃を受けると同時に、酷い嘔吐感に襲われた。
実際に吐くようなことはしないが、これはきっと自分の行いがどれほどの物だったのかを認識したことによって精神に負荷がかかってしまったせいだろう。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「だって、そういう経験をし続けるようなことがあればどんな真っ直ぐで良い子だったとしてもいつか歪んでしまうと思うんです」
名前を呼ぶ誰かが傍にいるというのは当たり前のようで、とても貴重なことだ。
それなのに、どうして俺はシャロの名前を呼んでいなかったのだろうか。名前を呼ばれないことの苦しみがどれほどの物なのか、理解していると言うのに。
確かにシャロは俺と違って、ハロルドや白亜たち、フィオナたちが名前を呼んでいた。それでも最も傍にいる存在から名前を呼ばれないということは幼い頃の俺とは程度は違うまでも、必ずシャロの心に傷を作ってしまうはずだ。
それなのに俺は、シャロと出会ってから一度も名前を呼ばなかった。シャロにとって一番傍にいて、頼らざるを得ない相手に名前を呼ばれないというのは、どれだけシャロを不安にさせただろうか。
「ですから、アッシュさんにはどうしてシャロさんの名前を呼ばないのか。ここではっきりその理由を聞いて、アッシュさんにシャロさんを任せるべきではないと判断したら私に出来る限りの手を打とうかと思っています」
フィオナが何か言っている。だが頭に入ってこない。
何が傍にいる相手を警戒してしまう性分だから仕方ないだ。何が些細なきっかけさえあればそんな警戒心も消えるはずだ。そんなのは甘えでしかなかった。
くだらない性分だからと放置し、些細なきっかけがあればとあればと甘え、俺自身の行いに目を向けようともしなかった。
今すぐにシャロに会わないといけない。会って、謝って、許されるならば名前を呼んで。それで漸く初めて、俺はまともにシャロと向き合える。
「フィオナ」
「何ですか、シャーリー」
「アッシュさんの様子が……」
「……え?」
動かない体を無理やり動かして席を立つ。
だからこんなことをしている暇はない。早くシャロを預けているストレンジに戻らなければ。
「あ、アッシュさん!?酷い顔色になってますよ!?」
「フィオナが責めすぎてしまいましたか……いえ、今はそれは置いておくとして。アッシュさんを救護室に案内した方が良さそうですね」
「私はそんな責めて何て……!」
「フィオナ、それは後です。アッシュさん、無理はなさらないでください」
「そ、そうですね……さぁ、救護室に案内しますから無理に動かないでください!」
フィオナが俺を引き留めようと腕を掴んで来るがそれを振り払う。顔色が悪いだとか、そんなことはどうだっていい。
今はとにかくシャロに謝るためにストレンジに向かわなければならないのだから。
「悪い。でも急ぎの用事が出来たんだ。話はまた今度聞くから、放っておいてくれ」
「放っておいてくれって……そんな状態のアッシュさんを放っておくなんて出来ませんよ!」
「頼む……どうしても、すぐに行かないと……」
「で、でも……」
「フィオナ、ここはアッシュさんの言うようにしましょう」
「シャーリー!?」
どうやらフィオナは俺を引き留めようとしているのに対して、何かを察したシャーリーがそんなフィオナ制してくれていた。
これ以上残ってもフィオナが俺をすんなりと行かせてくれるか怪しいので扉を開けてそのまま冒険者ギルドを出るために歩き出す。
「アッシュさんの用事というのはきっと何よりも優先すべきことなのでしょう。それに私たちギルド職員は冒険者の方を支援するために存在しているのであって、邪魔をするためにいるわけではありませんよ」
「それはそうかもしれませんけど、それと同時に無理をしないように制するのも私たちの役目ですよ!?」
「わかっています。ですが、時として無理をしてでも動かなければならないこともあります。フィオナ、今回は譲ってください。アッシュさんにとっては、用事とやらを優先する理由があるようですから」
「…………わかりました……」
後ろから聞こえてくる声を聞く限り、フィオナは俺を止めたいと思っているが、無理やりに放っておくべきだと納得させたようだった。
これならもう止められることはない。だから早く、早く、ストレンジに戻ろう。いや、ストレンジに戻るのではなく、シャロに謝って、ちゃんと話をしに行こう。




