寝室騒動 中編
本来であれば今頃新居で過ごしているはずだったクリスタは、自室のソファーに腰掛け深いため息を吐いていた。
俯いた横顔から睫毛の長さが際立ち、儚げな表情も加わって彼女の美少女感が更に増している。
そんな物憂げなクリスタに、ハンナが訝しんだ目を向ける。
「で、どうして引越しが延期になったのです?まさかとは思いますが、フランツ様と喧嘩でもなさったのですか?」
「別に喧嘩したわけじゃない、けど…」
顔を上げたクリスタは紅を引いていない桃色の唇を尖らせ、いじけた表情を見せる。
しばしの沈黙の後、ハンナの視線に負けたクリスタがぼそぼそと事の経緯を話し始めた。
「は」
彼女がつらつらと話した内容に対して、ハンナの返事はたったの一言であった。それもとびきり乾いた声音の。
怪訝そうな顔から呆れた顔へと表情が切り替わる。
「正式なご夫婦でいらっしゃるのに寝室を拒むなど何を考えているのですか?あんなに良くしてくださるのに、同衾すらしないだなんて妻として飽きられてしまいますよ。」
「え…なんかハンナ師匠に似てきた…?」
「いいですか、こういうのは最初が肝心なのです。フランツ様に捨てられたら一生が終わりますよ。戻る実家だって無いのですから。いい加減腹を括ってください。」
「…………分かってるって。」
自分のことを本気で心配するハンナの言葉に、クリスタは俯き言いにくそうに返事をした。
一方のハンナは何も言わずにクローゼットの扉を開け、中に吊るされているドレスを物色し始めた。
荷造りをしていた最中だったため、中にあったのは僅か数着。その中から一番上等なものを取り出すとベットの上に置き、次はアクセサリー類をかき集め始めた。
「ええとハンナ?何してるの?」
ソファーに座ってクッションを両手で抱え込みながら恐る恐る問いかけるクリスタ。
「今からフランツ様のところに行って、『寝室はやっぱり一緒がいい』と可愛く伝えてきて頂きます。それで万事解決、さぁ明日から新居での新しい生活ですよ。」
「・・・・・・・・・・・・」
有無を言わせぬ迫力のある笑顔と強い口調で言い切ったハンナに気圧されたクリスタは何も言い返せなかった。
結局されるがまま、着せ替え人形のように身支度を整えられてしまったのだった。
ハンナの手によって綺麗に飾り立てられクリスタは、相変わらず見た目だけは良家の令嬢そのものであった。
王都の街中でも周囲の視線を独占するであろうその完成された美貌に、ハンナは満足げに頷いている。
「行けばいいんでしょ行けば!寝室が一緒とかもう何だっていいわ!その分、フランツには美味しいものを毎分毎秒食べさせてもらうんだからっ!!フランツの馬鹿!」
「素晴らしいです、クリスタ様。その心意気ですよ。」
逆ギレ甚だしいクリスタの態度だったが、思惑通り動かせたことにハンナはニコニコと温かい拍手を送っている。
「あまり遅くなって訪問しても先方に失礼ですから、そろそろ参りましょう。」
ハンナが先回りして部屋のドアを開ける。
それと同時に外から馬車の車輪の音が聞こえた。その音は徐々に大きくなりこちらに向かっていることが分かる。
「今から出掛けるというのに全く…ハンナが見て参りますのでクリスタ様はこちらでお待ちになってください。」
せっかくクリスタがやる気になったのにとハンナは悪態をつきながら階段を降り、客人が来ているであろう玄関へと急いだ。
だが、玄関のドアを開けた瞬間目に入った存在に、吊り上がっていたハンナの眉は下がり、口元が緩む。
「先触れもなく訪問してしまい申し訳ない。クリスタと少し話せるだろうか…」
そこにはひどく申し訳なさそうな顔をしたフランツの姿があった。
そんな彼とは対照的にハンナの口角は上がり自然と笑顔になる。
「もちろんでございます。フランツ様はクリスタ様の夫君なのですから何一つ遠慮する必要などございません。どうぞお入りくださいませ。」
珍しく緊張した面持ちのフランツのことを気にすることなく、ハンナは嬉々としてクリスタの部屋へと連れて行った。
「え、、、なんでフランツがここに…?」
前触れなしのフランツの登場に、ソファーに腰掛けていたクリスタはこれ以上とないほど目を丸くして視線を一転集中させている。
「うっ………」
外出用のドレスに身を包み外面だけは完璧なクリスタからの視線に、抑えきれずフランツから感嘆の声が漏れ出た。
「フランツ…?」
ソファーから降り立ったクリスタがふわりと花の香りを漂わせながらフランツの側に寄る。彼女の行動が益々彼の心を乱した。
「落ち着け俺…今日はクリスタと真剣な話をしに来たんだ…彼女が花の妖精のように美しいのはいつものことだろ。何を今更こんなに動揺してるんだ…いやしかし物凄く可憐で美しくて、こんなのどうやって心を鎮めろと言うんだ…不可能だろ…はぁ…可愛い…」
「ねぇフランツ?」
ぶつぶつと独り言を発しているフランツのすぐ側、クリスタは彼の袖をちょんと摘んで軽く引っ張った。自分のことを見てとばかりに上目遣いで一心に視線を送る。
「………っ!!!!!」
その愛らしい仕草にやられ、フランツは呼吸も出来ず声も出せず瞬きさえも出来ず心臓が止まりかけている。
「それ私に?」
クリスタの視線はフランツが手にしていた袋に注がれていた。
見るからに高級そうな素材の袋に、金の縁取りでお菓子の絵が描かれている。
「……………あ、ああ。事前に準備していなくて、普通の菓子ですまない。」
「わーい!!ここのクッキー最近食べたかったの!フランツありがとう!さすが!!」
フランツの乱れた精神状態などお構いなしに、クリスタは歓喜の声を上げた。
ちょうどその時紅茶を運んできたハンナが、はしたなく喜ぶクリスタに呆れた視線を向けていた。
「で、フランツ今日はどうしたの?」
クッキーを結構な速度で口に運び入れ、紅茶を流し込みながらクリスタが気軽な口調で尋ねる。
お菓子に夢中なクリスタは、今自分が新居を嫌がっている新妻であるということをすっかり放念してしまっていた。
「その…新居の寝室のことなんだが…」
紅茶にもクッキーにも一切手を付けていないフランツの口調はクリスタのそれとは大きく異なり、重苦しいものであった。




