後編
アルバクは躊躇うことなく言った。
「いい。わかった。リディアを死の病から回復させろ。そして俺の命を取るがいい」
マモノが言う「だが・・・あと数日は待ってみないか」
「なぜだ?早くしてくれ」
「うーむ…」マモノは唸る。
「契約は契約だろう。すぐに実行しろ。妻は明日までも持つか分からない状態なんだよ」アルバクはなおも叫ぶ。
「そうか、よろしい。本日0時にお前の願いを実行する」マモノは手を広げ何か分からない言葉を呟き、そして光って消えた。
アルバクは辺りを見回した。いつの間にか日が暮れていたようだ。昼間でさえ暗い森の奥は、
どこか恐怖すらも与える暗闇の空間と化していた。
アルバクは自分が死ぬ恐怖と妻を救う嬉しさが入り乱れつつ森を駆け抜けた。
リディアに会って回復すると言いたい気持ちに引き寄せられ、
暗闇から迫る自らの死から逃げるようにして走る速度が上がって行く。
息を切らせて家へ駆け込む。おばさん達はびっくりしたような表情でアルバクをじっと見つめ、
どうしていいか分からない表情で立ち尽くしていた。というのも、アルバクが笑っていたからだ。
アルバクはリディアのベッドへ直行した。
「リディア!お前の病は治るかもしれない」リディアは病のためか、少し頷いただけで笑ったりしなかった。おばさん達は顔を見合わせてよそよそしく退場した。
ついにアルさまは気がおかしくなってしまったんだ…と。
アルバクは痛みの和らぐ薬をこしらえて多めにリディアに飲ませた。本来なら過剰な量だが今日の0時になれば病が回復する。 なら少々多めでも問題ないだろう。
その夜、リディアは弱々しいながらも会話し、ベッドの上で起き上がれるようになっていた。
今は薬のおかげだが、いずれきっと本当に完治するに違いない。
アルバクはリディアに言った「リディア、お前の病は治るんだ」宗教とか儀式とかを信じないアルバクだったが、今回は本当に奇跡が起きるのだとなぜか確信していた。
あんな光景を見て信じない人などいるだろうか。リディアは小さな声で話す。
「あり…がとう、でも…」
アルバクはなぜかその「でも」という一言にヒヤリとした。
「でも、なんだ?」と聞くとリディアは「ううん…ありがとう」
アルバクは感じ取った。妻は伝承を知っているんじゃないか
「まさかお前…」
「うん…知ってるよ…泉の伝承…でしょ…あなた精霊にお願いしちゃった…んだよね…だって、不治の病が治るって…精霊に願うしか…思いつかないもの」
ごほごほとリディアが咳き込む。そして続ける。
「願った者は…死ぬってことも…ね…知ってるよ…」
長い沈黙のあとアルバクはリディアの手を握った。そしてなお黙った。妻が助かると知っても互いに嬉しいという言葉が出てこない。結局別れることに違いないことを、今更その重みを思い知った。
「別れたくないよ…」妻がかすれた声で言う。リディアが泣いているのが分かった。
アルバクも似たようなかすれ声で応じた。頬に熱い雫が伝い、握った手に落ちるのを見た。
何時間そうしていたか分からない。
ふとリディアは言った
「アル…」
「なんだ」
「ペンと紙を持ってきて…自分勝手かもしれない…けど、私…あなたと手紙交換したことすらも…なかったから…したいの…」
そういえばリディアとモノのやり取りをしたのはネックレス以外無かった。
俺が最期にしてやれること、リディアへの想いを書いてそれを生きた証に残したい。
そう思ったアルバクは急いで紙とペンを二組ずつ取ってきて片方をリディアに渡し、ベッドに板を置いてリディアが書きやすいように備え付けるとアルバクも手紙を書いた。夜の9時だった。
お互い手紙に封をしてベッド脇の棚の上に置くとアルバクは妻の手を握った。それ以降何も言葉を交わさず、ただずっと手を握った。
お互いこれが最期の別れになると知っていた。言葉は交わさずとも想いは通じた。そしていつの間にか二人は眠りについた。片方が目覚めないであろう眠りに。
-
アルバクは朝日の光で目を覚ました。ここは天国なのか?見渡すとリディアの部屋、
そして窓から差し込む光。手には妻の手が握られて…アルバクはぞっとした。
妻の手は硬直し冷たくなっていた。昨日よりもげっそりした顔の妻。息を引き取っていた。
なぜだ…、まさか俺は騙されたのか。妻に治るとか言って、騙されて、俺はなんて愚かな男だ。
馬鹿な野郎だ。
妻の手をそっと離すとアルバクは飛び出した。ドアの前に立っていた隣のおばさんに体当たりしそうになった。
「あ、アルさま一体なにが」
「リディアが…妻がが死んだ!」
呆然とするおばさんを尻目にアルバクは森へ駆け出しそうになった
「アルさま!どこへ行かれるのですか」
「森だ!」
おばさんは「やはりアルさまは狂ってしまったのか」というような顔でつったっていたがやがてこう叫んだ「あ…あなたの妻の遺体をそのままにしておくわけには…あの…こう暑いと腐ってしまいますし」
とても事務的な内容だったがそれでアルバクは我に帰った。自分自身を落ち着けるため、気持ちを押さえ込みながらリディアの遺体を教会へ運び安置させた。
神父は説教をしようとしたがアルバクは居ても立ってもいられずやがて強烈な悲しみと怒りが同時にやってきた。神父を後目に教会を飛び出すと森の奥へ一直線に走って行く。
騙したならもうあの野郎―
騙したマモノはとっくに逃げているだろうと考えるのが普通だったが、その時はそんなこと考えもしなかった。
森をつっきり泉へと行く。昼間でも暗い森の奥の泉。誰もいない静かな泉に向かって叫んだ
「おい!出てこい馬鹿野郎!お前のせいで…お前の」
「いや…俺が一番の馬鹿野郎だ…」ガクっと膝を落とし、やがてフラフラ立ち上がり泉へ向かって進んでいた。水の冷たさだけが足先から膝へ、そして下半身から順に伝わってくる。もう何も考えてなかった。身体に脳が征服され、アルバクは泉の深みへと躊躇いなく進んでいく。死ぬ気だった。
水が胸のあたりまできた後はだんだんと水が引いていった。
「馬鹿だな俺は、最も深いところでも胸のあたりまでしか水なかったんだな」そう思いつつあたりを見回すと本当に水が引いているのだった。
泉の中央にある小島に這い上がり、再び叫ぶ「おいマモノ!貴様はそこにいるんだろう、出てこい!」すると意外にもあっさり黒いローブのマモノが現れた。
やはり泉の上に浮いている。
「せっかくお前の命を救ったのに死んだら叶わん。泉の水を引かせてもらった」
「ふざけるな!契約通りにちゃんと願いを叶えろ!」アルバクは叫んだ。
「いや…契約は契約だが…」まごまごとマモノはたじろぐ。
「騙したな!本当は願いなんて叶わないんだ!お前は人の心を弄んでいる、魔物なんだ」なおもアルバクは叫び続ける。
「まず落ち着け。詳しく話してやる」とマモノはアルバクを諭した。
アルバクは怒りを表し喚きたてたがやがて疲れ果てて仕舞には倒れるように膝をついて
静かに嘆き始めた。
マモノは言う「本当のことを話そう。しかと聞け」アルバクは「言い訳無用」と小さな声で言ったが聞き入るように静かにマモノの話に耳を傾けた。
「お前の願いは妻の病を治すことだったな」無言でアルバクが頷く。
「その願いは聞き届けられ、叶えられた」その言葉を聞いてアルバクは握りこぶし片手に怒りを表したが遮るようにマモノは言葉を続ける。
「お前の願いが実行されると同時に、前に来た人の願いも実行された。本当は契約内容を言ってはいけないが、前に来た人の意向もあるし伝えておく」
「ひとつめの石を持つ者はお前が来る1ヶ月ほど前にこう願った」
「もしアルバクという者が願いに来たら願いを実行しないで欲しい。彼の命を救って欲しいとな」
アルバクは狼狽えた「その者の名前は…」マモノの言葉を遮りアルバクが叫ぶ
「妻か!リディアなのか?」
マモノは静かに頷く「そうだ」
「これは契約じゃないが、その、なんだ、ワシの独り言だがその者は自分の家の戸棚に手紙を置くと言っていたな」そう呟くとマモノは光りだしそして前みたく消えた。森には闇と静けさが残った。
またもや日が暮れようとしていた。アルバクは泳いで岸に戻り、大急ぎで自宅へ向かった。
マモノと契約したときと同じくらいの速さで、そして違う気持ちを抱いて走った。自宅に戻り、
リディアが愛用していた戸棚を開けると箱があった。アルバクは急ぎ箱を開けた。
手紙だ。
筆跡は丁寧でしっかりしていた。日付は約1ヶ月前。これを書いたときはまだリディアが出歩けるほど元気だったのが伺える。
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―愛する夫へ
この手紙を読んでいる時、私は死んでいるかもしれません。
自分勝手でごめんなさい。
私はあなたが見知らぬ黒いローブの男と口論しているのを見てしまいました。
何かあると思ってあなたが去ったあとその男に話しかけました。
話すうちにその男はあなたを殺すつもりがあるのだと分かりました。
問い詰めると「あの男が願いを叶えたらあの男は死ぬ。この村は医者が居なくなって医者を求めるだろう。そこでワシが出てきて村を支配してやれる」と白状しました。
どうやらその男は私がその人の妻だということを知らないようでした。
私はその男を張り倒し残った1つの石を拾って泉に行きました。
あなたは優しい人ですから、もしかしたら私の病を治すよう頼むかもしれません。
だから私は精霊にお願いしました。あなたが死なないように。
伝承が嘘ならそれでいいんです。本当だったとき、あなたが死んでしまうと思うと私は居ても立ってもいられませんでした。
どうせ病で死ぬ身なら、せめてあなたを救うために命を使いたいと思ったんです。
-リディアより
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気がつくと手紙は涙で濡れていた。
同時にその手紙がもともと何かで濡れていて、それで乾いてしわくちゃになっているのだと気がついた。
1ヶ月前、これを書いているとき、きっとリディアも泣いたんだろう。
リディアが寝ていたベッドに黄昏の光がオレンジ色を帯びて差し込む。
昨日と違うのはリディアがそこに居ないことだけだったが、それだけで世界が違うようにみえた。
カーテンが揺れ、夕日のオレンジがじわじわ揺れるのを見ると、どこかさみしさを感じる。
ベッド脇の棚にはもう一通妻からの手紙があった。昨日交換した手紙。
アルバクの手紙と共に封をしたまま置いてあった。
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―愛する夫へ
あなたを騙してしまってごめんなさい。
辛い想いをさせちゃってごめんね。私は死にます。
1ヶ月前に私はマモノにあなたが死なないように願ったの。だから死ぬのは私。
でも嬉しいよ、病気のためじゃなくてあなたのために死ねるって思えるから。
あなたは私のために命を張って助けようとしてくれた。そんな夫に世話されて私は幸せでした。
つきっきりで看護してくれたのとても嬉しかった。
全部私のわがままだよね。
でも許してほしいな。
もうひとつ、最期にお願い言わせて。
一生のお願いを聞いてくれるかな。
あなたの命はあなたの為にあるから、幸せになって。じゃないと命を張った意味がなくなっちゃう。
命を懸けてもいいと思える人、あなたに出会えて良かった。
-リディア
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妻からもらった二つの手紙。アルバクは涙を流し、やがて枯れるころには夜を越えて朝になっていた。
次の日には妻の葬儀が行われた。葬儀には似つかわしくないほど晴れた爽やかな日で、少し暑かった。
棺に土をかけ、神父が説教をする。
相変わらずアルバクの心を癒すことは無かったが、以前よりも説教に耳を傾けられるようになっていた。
だんだんこうやって妻への気持ちも和らいで、そしていつか消えてしまうんだろうか。
想いも土と共に埋めるのだと、以前治療して最終的に死んでしまった患者の家族がそう言っていたのを思い出した。
リディアの葬儀には村人のほぼ全員が参列した。さながら国葬のような、静かでうちに秘めた熱気に満ちた葬儀だった。
アルバクは普段通り診察を再開するために、一通り薬草を採るため森へ行った。
そして水性植物を採るため、あの泉へと向かった。波ひとつ無い深い青をたたえた水。
アルバクは腰を下ろして水に脚を浸した。暑い時期だったからひんやりした水は気持ちよかった。
アルバクは背中から倒れこみ木や葉を見た。小鳥の鳴き声やガサガサ言う木の葉の歌う声。
漂う土の匂い。森だ。脚を水から出し、寝そべっているうちに本当に寝てしまった。
何時間経ったか、起きるとあたりは暗くなっていた。疲れが溜まっていたのかいくらでも眠れる気がした。 ふと泉を見るとなんと光っているではないか。あの時と同じだ。
「そういえばマモノは石が無くても叫ぶだけでも出てきたよな」そのことを思い出しアルバクは叫んだ。
友達を呼ぶかのごとく気軽に「出てこいマモノ」と叫んだ。するとマモノが出てきた。
本当に気軽そうになんの重みもなく。人間のように。
「そろそろ消えようと思っていたところなのだが」とマモノ。
呼んだはいいが、アルバクは別に用事がある訳じゃなかった。単純に好奇心だったから、何を言おうかまごついた。
するとマモノは話を続けた「ワシを呼ぶ者もお前が最後だろうな。石の数だけ願いを叶えた。ワシの役目は終わり、もう会うことは二度と無いだろう。これでもう人の命を奪わなくて済む。静かに消えられる…」そう言うとマモノは消えた。静けさがあたりを包んだ。
アルバクはこの不思議な出来事を誰にも話すことはなかった。話したとしても信じてくれるのは妻のリディアだけだっただろう。
その後その地で泉が光るのを見たものは居ない。
(おわり)




