09.交渉
「私は稲田万里子。日本では母の苗字を使ってそう名乗ってます」
つまりこの大きな中年女性も日本人では無いのだろう。どこか不自然なアクセントはそのせいだ。でもせっかくだから改めて名乗っておくか。もしかしたら今後は良い取引先になるかもしれない。
「ご存じかと思いますが、私は佐藤悠馬です。これは馬主としての名刺です」
稲田さんは名刺を受け取るとそのまま、隣の金髪女性に渡した。その名刺、メールアドレス以外は日本語しかないんだけど。そしてそのまま今度は彼女の紹介をする。
「そしてこちらはソフィア・カヴェンディッシュ。私の雇い主で、あなたの馬、グランフェリスを買いたいとのことです。簡単な交渉です。あの馬を800万円で買いましょう。あなたの返事を聞かせてください」
事前に2000万円でも売らないと決めておいてよかった。そうしなければついこの雰囲気に呑まれたまま頷いてしまっていたかもしれない。だって昨年200万円で買ったまだ1歳馬。普通のピンフッカーなら喜んで握手をするところだ。悠馬だって理性だけならその手を取っていただろう。
「残念ですが無理ですね。ご縁が無かったようです」
「ゴエン?」
ここで初めて金髪の女性が口を聞いた。
"He says, I guess it just wasn't meant to be. You know, fate and all that."
中年女性が運命だと訳した。ちょっとニュアンスが違う気がする。
"Ah, fate. That is a concept I find rather intriguing."
ふたりは悠馬には聞き取れない話をしている。そう思った途端ソフィアさんは悠馬へと視線を変えて訊ねてきた。
「なぜ?」
悠馬は驚いた。ソフィアという金髪女性も日本語を使うらしい。学習中なのかもしれない。
ここは英語で答えた方がよいのかもしれない。でも何て言えばいいんだ?
『I want her to run race』
ダメだ全然自信がない。ここは日本語で返そう。
「あの仔は僕の手元において走らせたいと思っています」
「だからなぜ?」
「なぜって……」
”She should run on turf. You know that, don't you?"
滑らかなだけどどこか違和感のある英語で問いかけられた。ヒアリングテストを受けているような気分になる、不自然なほど流暢な英語。でもどこか奇妙に聞こえる。いやそんな場合じゃない。この人はグランフェリスがダートよりも芝向きなことを、悠馬がダートしか走らせられない馬主だということを知っている。
「グランフェリスは芝で走らせるべき馬だと……」
万里子さんが訳してくれようとするのを悠馬は遮ってしまった。
「ありがとうございます。聞き取ることはできました。でもあの仔は僕の手で競馬場を走らせたいのです」
"He said……"
万里子さんの声が聞き取れない。だがソフィアさんは悠馬の方を見てはっきりと言った。
"It is my belief that this filly would be far better suited to European turf. May I ask, why would an owner wish to stand in the way of their own horse's future?"
「彼女にはヨーロッパの芝が合うはず。馬主が馬の邪魔をするのはなぜかと聞いている」
悠馬が聞き取れなかったところを万里子さんが補足してくれる。グランフェリスが芝向けなのは分かってたけど、欧州の芝の方が向いているのか……それはこれまで考えたこともなかった。でも何て言えばいいのだろう。悠馬は迷った末に英語で言った
"She is my dream. I can’t leave my dream"
もう理屈でもなんでもない。自分の夢を手放すことができないのだと悠馬は言った。
"Aren't you a pin hooker?"
"Yes,but I have a dream"
ピンフッカーにも譲れない夢があるんですよ。そう言いたいけど悠馬の英語力だとこの程度しか伝えられない。ソフィアさんがため息をついた。
そして初めてコーヒーカップに軽く口を付け、再びカップがソーサーに戻される。
「残念です。またエンがあればお会いシマショウ」
ソフィアさんがそう言って立ち上がった。万里子さんも、悠馬も立ち上がる。交渉は予定通り決裂した。多分もう会うことはないだろうなと思った。
「お時間取らせてしまい申し訳ありませんでした」
悠馬の言葉を万里子さんが訳している。
「それではシツレイします」
去り際のソフィアさんの透き通るような目が、悠馬の内心の動揺も見透かしているのではないかと思った。
交渉が終わり、ふたりの女性がほとんど口が付けられていないコーヒーカップと共に去った後、悠馬は崩れるように席に座り込んだ。コーヒーの香りも、店内のざわめきも、どこか遠くに感じる。彼女たちの声が、まだ自分の中で小さく響いているような気がする。
やっぱり、感情論でしか返せなかったな。
ソフィアさんもマリコさんも終始冷静だった。馬の将来性、欧州での可能性、合理的な提案。どれも正論だ。それに対して自分は、「夢だから」「手放せないから」としか言えなかった。
ピンフッカーなら、利益が出るうちに売るのが当然 。そう言われて、何も言い返せなかった。悠馬は地方の零細馬主。彼女たちは世界を見ている。馬主という肩書だけが同じで、見ている景色がまるで違う。
それでも、グランフェリスを売り飛ばすことはできない。この馬だけは、どうしても手放せない。自分が馬主であることが、あの仔の最大のハンデになるのだとしても。あの金髪の女性、ソフィアさんなならばグランフェリスのちからを最大限に発揮できるレースに出すことができるのだろう。
正しいことを言われて悔しくなり、感情論でしか返事ができないのはみっともないことだ。もし自分にもっと余裕があったら、違う答えを出せたのかもしれない。
でもグランフェリスと一緒ならば、この現状を打破することができるのではないだろうか? それができないならこの馬を持つ意味がない。
悠馬は冷めかけたコーヒーを一口で飲み干して、ようやく席を立った。




