戻ったのは遠い記憶の中の自分
全身を刺す痛みは永遠に続く……と思っていたが、意外にも徐々に和らぎ、おまけに体が軽くなっていくような感覚に陥っていった。
ネイトはゆっくりと瞼を持ち上げ、見慣れた天井をぼんやり見つめる。思考も鈍く、ここが自室で、自分がベッドに寝ている状態だと理解するまで、少し時間がかかった。
「俺は死んだんじゃなかったのか」
発した声に違和感を覚え、ネイトが無意識に喉元に触れた時、ドア付近で誰かが声を張り上げた。
「ネイト坊ちゃん! ああ良かった。お目覚めになられたんですね!」
声をかけてきた人物に対し、ゆるりと目を向けたその一瞬で、ネイトは覚醒する。
機敏に身を起こし、すぐにでもベッドを降りられるような体勢をとった。
もちろんその間、焦げ茶色の髪を後ろでひとつにまとめ上げている侍女らしき三十代の女性から視線を外さない。
警戒、困惑、動揺、恐怖。様々な感情が心の中でひしめき合い、頭は混乱状態だ。
「……エ、エルザ?」
「はい。エルザですよ」
ネイトが声を絞り出すようにして本人確認をすると、エルザは微笑みと共にあっさり認める。
(確かにエルザだ。……いや、違う。そんなはずない。だってエルザは俺がこの手で殺した。それなのにどうして生きている。そもそも生きているのか? エルザも俺も)
記憶を辿ると、剣を振るってエルザを斬り付けた時の感触が手のひらに蘇り、さらに息絶えようとしている彼女の姿まではっきりと思い出す。
眩暈と吐き気に同時に襲われ、ネイトは小刻みに震える手で口元を押さえた。
「顔色が悪いです。大丈夫ですか?」
心配そうに表情を曇らせたエルザが一気に近づいてきたため、今度はネイトが大声を上げた。
「うっ、うわああっっ!!」
エルザから逃げたくて、ネイトは慌ててベッドを降りたが、足が床に着くと同時によろめいてしまい、そのままぺたりと崩れ落ちる。
(なにか、おかしい)
自分で思っていたよりも、ベッドから床まで距離があった。奇妙なずれを感じながら、ネイトは自分の体に視線を落とし驚愕する。
(足も腕も短くなっている。なんだこれ!)
そこで、いつもより視界が広いことにも気づき、ネイトはそっと左手で左目付近に触れた。
(左目が見えてる。どうして)
自身の状況が理解できず混乱していると、いつの間にか傍らに立っていたエルザに「ネイト坊ちゃん?」と不安いっぱいの声で呼びかけられた。
ネイトは消えかけていた警戒心を取り戻し、勢いよく立ち上がった。
この場から逃げ出そうとドアに向かったが、姿見に映った自分の姿が視界に飛び込むと同時に、ぴたりと動きを止める。
鏡の中から見つめ返してくる姿は、十九歳の自分ではなく、見覚えのある幼い子どもだった。
(子ども……誰……俺?)
似ているなどという言葉では片付けられない。単純に体が縮んだわけでもない。まるで子どもの頃に戻ってしまったかのように、幼いネイトがそこにいる。
(ど、どういうことだ)
呆然とした状態で鏡の中の自分から目をそらせずにいると、「失礼しますね」と後ろからエルザに体を持ち上げられた。
咄嗟にネイトは身をよじったが、「はいはい。動かないでください。傷にさわりますよ」とエルザに軽く注意される。
指摘通り腕にわずかな痛みを感じ、ネイトは大人しくエルザに運ばれることにした。
ベッドに下ろされ、そのまま腰かけたネイトの額にエルザが触れる。不安と安堵が混ざりあったような微笑みを浮かべたエルザを、ネイトは無言で見つめる。
「熱は下がったみたいですね。でも、数日高熱が続いておりましたし、体力が回復するまで安静にしておいた方がよろしいかもしれません」
エルザはベッドのサイドテーブルへと手を伸ばし、そこに置かれていた塗り薬の容器と包帯を手に取った。
「包帯を替えましょうね」
そう言われて、ネイトは一拍遅れてからぎこちなく頷き、自らボタンをはずして上着を脱いだ。
ネイトの右腕に巻かれた包帯を、エルザは丁寧な手つきで外し始める。
包帯の下も若干化膿していたが、多くの刃をその身に受けてきたネイトにとってはただのかすり傷でしかなく、こんなものは怪我のうちに入らない。
(あんなに傷跡だらけだったのに、綺麗な体だな)
筋肉の付いていない細腕や華奢な胸板などを見ていると、そういえば子供の頃は痩せ気味だったなとぼんやり思い出してくる。
「俺はいま何歳?」
「つい先日五歳のお誕生日を迎えたばかりじゃないですか。忘れてしまいましたか?」
ふと頭に浮かんだ疑問をネイトがぶつけると、エルザは傷口に薬を塗りながらそう返してきた。
しかし、ぴたりと手を止めると、思い詰めたような顔をネイトに向け、ぽつりと言葉を発する。
「……庇うことができず、申し訳ありませんでした」
苦しさを伴った言葉がネイトの胸に突き刺さり、当時の記憶が断片的に蘇ってくる。
(思い出した。あれは誕生日当日だった)
ネイトは実母ミラーナとそのお付きの侍女から冷水を浴びさせられたり、木の棒で叩かれたあと、裏庭の物置小屋の中に閉じ込められた。
一晩中、寒さに震え続け、朝には高熱で動けなくなっていた。
薄っすらとだが、折檻の場にエルザもいた記憶がある。
とはいっても、彼女がネイトに手をあげたことは一度もない。何もできず、ただ涙を流しながら立ち尽くしていた。
「気にするな。手当てをしてくれるだけでじゅうぶんだ」
ネイトが小さく首を横に振って気持ちを告げると、エルザの目に涙が浮かんだ。
しかし、泣き顔を隠すようにすぐに顔を伏せて、震える指先で包帯を巻き始める。
ネイトは無感情のままにエルザから視線を外し、記憶を辿り出す。
(かすり傷じゃなくて骨折だったような気もするけど、あれは別の時だったかな……思い出せない)
腕の擦り傷を改めて眺めても、当時の記憶を手繰り寄せることはできず、自然と視線は鏡に映る幼い自分の姿へと移動する。
(本当に時が戻ったのだとしても、俺の意識は十九歳のまま。命を落とす前に見た嘲笑う母の顔は覚えていても、この体での昨日の記憶など無いに等しい)
そうはいっても、無能という烙印を押され、親の離婚で実母から邪険に扱われ、父の命令によって剣術の地獄の特訓が始まったのがこの年だ。またここから人を殺めて生きていくのかと思うと憂鬱でたまらなくなる。
「五歳か」
ネイトは左手で前髪をかきあげつつ、けだるげに呟く。
すると、包帯を巻き終えて顔を上げたエルザはまじまとネイトを見つめ、少しだけうっとりとした口調で述べた。
「なんだか今日の坊ちゃんは口調も雰囲気も大人っぽいですね。色気すら感じてしまいます」
(中身はもうすぐ二十歳だからな)
見た目に合わせて子どもらしく振舞うなど、そんな面倒なことをするつもりは毛頭なく、ネイトは苦笑いで聞き流した。




