言うはずのない言葉
窓の外は夜の闇に染まり、室内ではランタンの明かりがほんのりと広がる中、ネイトは寝間着に着替え終えると、疲労感たっぷりの息を吐き出した。
ベッドを整えていたエルザが振り返り、苦笑いを浮かべる。
「今日は大変な一日でしたね。お疲れ様でございました」
「本当にいろいろ大変だった」
同意の呟きと共に、ネイトは包帯でぐるぐる巻きにされている右手の人差し指へと視線を落とした。
昼間、ネイトはミラーナの部屋で切り傷の手当てを受けた。
侍女がてきぱきと応急処置を施す間、ミラーナはネイトの周りをうろうろし、何度も「大丈夫?」と声を掛けてきた。
ミラーナの真剣な様子は、まるで本気で心配しているかのようだった。
それが不気味に思えて仕方なく、ネイトは手当てが終わるとすぐに部屋を後にした。
ようやく解放されたと安堵したのも束の間、ネイトは再びミラーナと顔を合わせることとなる。
ネイトが食堂で夕食をもぐもぐ食べていると、同じテーブルに食事が並び出す。
誰の分かと不思議に思って眺めているうちにミラーナが現れ、「一緒に食事をしてもいいかしら?」と話しかけてきた。
それにネイトが「ど、どうぞ」と答えた瞬間、ミラーナは嬉しそうに表情を輝かせた。
そしてなぜか、ミラーナ自ら食事が乗った皿をネイトの傍へと移動し始める。
ネイトが恐れ慄きながら「母さんの席はあっちでは?」と疑問を投げつけると、ミラーナは「席が遠いと話しづらいから、つい」とばつが悪そうな顔をして、元の席へと戻っていった。
テーブルの両端にそれぞれ座って、静かに食事を……とはならなかった。ミラーナが声を張り上げて、ネイトにあれこれ話しかけてきたからだ。
「木剣を持った立ち姿、とっても格好良かったわ!」と褒められた時はむせ返りそうになり、「文字が上手だと聞いたわ。私にも見せて欲しい。なんなら、今度お手紙交換しましょうよ!」と提案された時は、「無理!」と全力で拒否したのだった。
そして、食事を終えた後も、ミラーナの侍女がふたりほどネイトの部屋にやって来た。
ひとり目は両手いっぱいにお菓子や果物を持っていて、「奥様からの贈り物です」とそれらをすべて置いていった。
ふたり目は包帯、ガーゼ、消毒液等を持ち込んで、「奥様のご命令です」とネイトの切り傷の手当てをし、半笑いになるくらい大げさに包帯をぐるぐると巻いていったのだった。
「大した怪我じゃないのに、大げさだな」
ネイトは自分の指を見つめてぼやいたあと、机の上に置いてあったゼファーセイン国の歴史の本を手に取って、ベッドに向かっていく。
「明かりは後ほど消しに来ます。お休みなさいませ」
「お休み」
エルザはネイトに微笑みかけてから、軽く頭を下げて部屋を出て行った。
ネイトはベッドに腰かけると、エルザの足音が聞こえなくなるのを待って、本棚に向かって話しかけた。
「こそこそしていないで出て来たら?」
数秒後、呼びかけに応じるようにして精霊が姿を現した。
「俺に何か文句があるなら言いなよ。それでスッキリしたら、さっさと部屋を出て行って」
精霊は物言いたげな顔をしたまま本棚の上に立っていたが、そこから飛び降りるようにして、ネイトのベッドに移動する。
「……さっきは迷惑かけたな」
突然の謝罪に、ネイトの頭上に疑問符が浮かぶ。
「なんの話?」
「壺だよ……って、おい、指大丈夫か?」
重症にしか見えない人差し指の痛々しい状態に精霊が唖然としたため、ネイトは気だるく首を横に振った。
「見た目はこれだけど、まったく問題ない。平気」
「……でも指先を切っていたよな」
「ほんのちょっとね。あんなの怪我のうちに入らない」
「包帯外せ」
精霊の要求にネイトは顔をしかめた。
「なんで、面倒くさい」
「良いから外せ」
しかし、あまりにも真剣に繰り返してきたため、ネイトは包帯を外すことを余儀なくされる。
「ほら。傷は大したことないだろう?」
持っていた本を傍らに置いて手早く包帯を外すと、傷口を精霊に見せた。出血は止まっているが痛々しさは否めない。
じっと傷口を見つめていた精霊がぽつりと呟いた。
「すまなかったな」
聞き間違いかとネイトが目を見開くと同時に、精霊が傷に手をかざした。
白い輝きを纏った温かな風が舞い起こり、みるみるうちに傷口がふさがっていった。
「なんで俺に白魔法を?」
治癒や浄化をするときに用いられるのが白魔法だが、上級魔法であるため難しく、誰でも簡単に扱えるわけではない。
嫌われていると思っていたのに治癒魔法をかけてくれたことに、ネイトが驚いて問いかけると、精霊は視線をそらして素っ気なく答えた。
「その怪我は俺のミスが原因だ。見て見ぬふりはできない」
「……意外と誠実なんだな」
「意外とってなんだ! 誠実にしか見えないだろ!」
つい本音が口から出てしまったが、顔を真っ赤にして怒っている精霊の姿が可笑しくて、ネイトは小さく肩を揺らして笑う。
精霊は子どもらしい無邪気な笑みに毒気を抜かれたらしく、脱力するようにため息を吐くと、ドアへと移動する。
「お望み通り、俺は帰る! ドアを開けろ!」
「……はいはい」
ネイトは気だるくベッドから立ち上がると、部屋のドアを押し開けた。
「どうぞ」
精霊は優越感たっぷりにネイトを見あげて、部屋の外へと歩き出す。
「精霊さん、ありがとう」
ネイトが軽く右手をかざして見せると、精霊はほんの少しためらったあと、ぽそりと呟いた。
「俺はドレイクだ」
名前を教えてくれたことに驚き、ネイトは目の前を通り過ぎて行くドレイクをじっとみつめる。
「……ドレイク、もうここに来るなよ」
冷めた声でそう告げると、ドレイクは物言いたげにネイトをちらりと振り返り、そのまま姿を消した。
「……あの顔はまた来るな」
肩を竦めつつ静かにドアを閉めて、ネイトはベッドではなくテーブルへ向かう。
「喉が渇いたな」
コップに水を注ごうとしたが、水差しには水がほとんど残っていなかった。
エルザが明かりを消しに来るまで、本を読むつもりである。
小腹が空いたら焼き菓子も食べようと思っていたこともあって、ネイトは厨房まで水を取りに行くことに決める。
水差しを抱え持って、ネイトは廊下へ出た。
廊下はぽつりぽつりと置かれているランタンの明りしかなく、とても薄暗い。
子供の頃、夜の薄暗い廊下が怖くて部屋から出られなかった記憶があるが、今は一切恐怖を感じない。
ネイトは颯爽とした足取りで廊下を進んでいたが、階段に差し掛かったところで両親の声が聞こえてきて、反射的に動きを止めた。
階段の下に、ゴードンとミラーナが向かい合って立っていた。
「おまえ、最近ネイトの周りをうろちょろしているそうだな。今日は夕飯も一緒に食べたとか」
「ええ、その通りです。いけませんか?」
ふたりの間にはいつも通りの殺伐とした空気が漂っているのに、ミラーナがひどく冷静にゴードンを見つめているため、それは見慣れぬ光景となっていた。
「離婚は受け入れます。すぐにでも出ていきましょう。しかし、それにはこちらの条件を受け入れていただきたい。ネイトは私が引き取ります!」
ミラーナの発言にネイトは危うく水差しを落としそうになる。
(母さんが俺を引き取るって……本気か?)
ネイトは大きく動揺し、ミラーナの後ろに控えている侍女もはらはらと落ち着かない様子だ。
一方で、ゴードンはその発言に不満を覚えたようで、一気に顔を険しくさせた。
「なんだ、急に息子が惜しくなったのか?」
「当り前です。私はあの子の母親ですから」
「ネイトは後継ぎだ。離婚後、お前だけが出ていくという話は変わらない」
きっぱり言い切られ、ミラーナは唇を引き結ぶ。そして、次なる一手を放った。
「でしたら、私はサインをしません。これまで通り、仮面夫婦を続けましょう」
「なんだと! 俺にはもうお前など必要ないと言っているだろう!」
「なにを勘違いしているんですか。あなたと一緒に居たいなんてひと言も言っておりません。私はネイトのそばにいたいのです!」
ミラーナの物言いがゴードンの怒りに触れた。ゴードンがミラーナの胸倉を掴み、「生意気な!」と怒鳴りつける。
ミラーナが屈せず睨み返すと、ゴードンの眼差しに殺気が混ざり出した。
それに気づいた瞬間、ネイトは持っていた水差しを床に落とした。
陶器の割れる鈍い音に、ゴードンとミラーナがハッとしたようにネイトへ視線を向ける。
「ネイト!」
ミラーナは息をのむようにしてネイトの名前を口にすると、素早く歩み寄ってきた。
「こんなところを見せてしまって、ごめんなさい」
「……あ、ええと、僕、また割ってしまいました。ごめんなさい」
両親の喧嘩は日常的な光景だというのに謝られてしまい、混乱気味のネイトもつられるように謝罪する。
するとミラーナは穏やかな面持ちで、ゆっくり首を振った。
「これは水差しかしら。喉が渇いたの?」
「……は、はい。そうです。お水をもらいに行こうと思って」
ミラーナは侍女に向かって「水をお願い」と命じると、すぐにネイトへ視線を戻した。
「すぐに持って行かせるから、ネイトはお部屋で待っていてちょうだい」
「……わ、わかりました」
素直に従うとミラーナがにこりと微笑んだため、ネイトは真顔になる。
痺れを切らせたゴードンが「おい!」とミラーナを呼んだ。
その瞬間、ミラーナの表情が冷たくなる。
ゴードンの元へ戻り、再び向かい合ったミラーナからは、絶対に引かないという揺るぎない意志が感じ取れた。
(なにか思惑があったとしても、俺を引き取りたいだなんて、口が裂けても言わないと思ってた。信じられない)
一歩一歩後ずさりしたあと、ネイトは身を翻し、動揺を抑えきれないまま自分の部屋へ走り出した。




