誰のための解雇
一瞬でその場の空気が張りつめていく。大股で歩み寄ってきた眼鏡の侍女が、顔を歪めてネイトを怒鳴りつけた。
「奥様が大切にされている壺を割るなんて!」
すぐさま精霊は姿を消したが気配が色濃く残っているため、すぐ近くに留まっているようだった。
一方で、ネイトは頭に響く不快な声に目を細めつつ、改めて床に落ちて無残な姿となっている壺を見た。
(割ったことは反省すべきだろうけど……大切なものならこんなところで野晒しにしておかないで、もっと厳重に保管しておくべきだろ。誰でも触れられる場所に置いておく方も悪い)
心の中で毒づき、ネイトは眼鏡の侍女に冷めた目を向ける。
(そもそも本当に、母さんはこの壺を大事に思っていたのか?)
ネックレスや指輪など、宝石類に執着しているミラーナの姿は何度か目にしているため覚えているが、骨董品を集めていた記憶はない。
なにより両親の離婚後、ミラーナが屋敷を出て行ったあとも、この壺は変わらず廊下に飾られてあった。
本当に大事なものだったのなら、実家に持っていくはずである。
(結局、この人たちは俺が気に入らないから文句を言いたいだけだろうな)
目の前にいる侍女に、ミラーナやミラーナに仕えている侍女たちの姿まで重ねて、ネイトはこっそりため息を吐いた。
「ネイト坊ちゃん、こんなところにいらっしゃったのですね! 突然いなくならないでください、探しましたよ」
廊下の向こうでエルザの声が響いた。
ぱたぱたと足音を響かせてやって来たエルザの傍らにはジョセフもいて、ふたりとも場に漂っている険悪な空気をすぐに察知し、硬い表情を浮かべる。
破損した壺からネイト、そして眼鏡の侍女へと順番に視線を移動させて、ジョセフが問いかける。
「これはいったい。どうなさいましたか?」
「奥様の大切な壺を、ネイト坊ちゃんが落として割ったのです! この目でしっかり見ておりましたから、間違いございません。しかも御覧の通り、反省の様子は一切ございません。これでは、わざと壊したのかと疑いたくなります」
冷静で落ち着いたジョセフの声とは対照的に、眼鏡の侍女は責め立てるように大声でまくし立てた。
(俺は壺に触れてもいないっていうのに、その目は節穴か)
確かにネイトは手を伸ばしたが、壺は指先すら掠めることなく落ちていった。それが事実だ。
(でもまあ、追いかけっこをしていたわけだし、俺にも責任があるのは確かか)
ネイトは廊下に掛けられているランタンへと視線を上らせる。そこには硬い表情の精霊がいて、顔で話の成り行きを見守っている様子だった。
眼鏡の侍女への反論を飲み込んだところで、ジョセフの視線がネイトに戻ってくる。
「どうしてそのようなことを?」
「壺にぶつかって落としてしまいました。決して壊すつもりはなかったんです。信じてください。ごめんなさい」
ネイトはジョセフやエルザ、集まってきている侍女たちにも聞こえるように正直に告げると、心を込めて謝罪の言葉を述べ、頭を下げた。
それにジョセフは軽く頷き、エルザはネイトの真摯な様子に心を打たれたのか泣きそうな顔をする。
「僕が壊したので、僕が片付けます……いたっ」
割れた壺の破片を拾い始めたが、指先にぴりっと痛みが走り、ネイトは動きを止める。
「血が! これらは私が拾います。危ないので触らないでください」
エルザはネイトの傍らに膝をつき、破片を片付けるべく手を伸ばしたが、ぽたぽたと流血しているネイトの右手人差し指を見てすぐさま顔を青くさせる。
「ああでも、手当てが先ですね!」
「……では、手当は私がしましょう。エルザは片づけをしてちょうだい」
手当てを買って出たのが眼鏡の侍女だったため、エルザは動揺して顔を強張らせた。
ジョセフや他の侍女たちも同様に緊張感を露わにしたが、眼鏡の侍女の有無を言わさぬ迫力に黙り込む。
「床に落ちた血もしっかり拭き取っておくように」
眼鏡の侍女は汚らわしいと言わんばかりの目で、床に落ちてしまったネイトの血を見た。
そして「こちらへ」とネイトへ冷たく声を掛け、すたすたと歩き出す。
後を追おうとネイトも動き出すが、エルザから「ネイト坊ちゃん」と呼びかけられ、肩越しに振り返る。
エルザが今生の別れのような顔をしていたため、ネイトは思わず苦笑いを浮かべた。
「後片づけ、お願いね」
それだけ言うと、ネイトは少し先で足を止めて自分が来るのを待っている眼鏡の侍女を真っすぐ見据えて歩き出した。
(さて、俺はどこに連れて行かれるやら)
これまでの言動からして、彼女にネイトの手当てをするつもりなどないと考える方が自然である。
(俺自身で手当てをさせるか。もしくは、手当てをするとしても、その前に傷をいくつか増やしてやろうとか、そんなところだろう)
以前、彼女が放った『罰を与えなければなりませんね』というひと言を思い出すと、その予想は確信に近いものへと変わっていく。
やがて眼鏡の侍女はとある部屋の前で足を止めた。その部屋の主はミラーナであることから、すぐさまネイトは理解する。
(なるほど、俺を母さんの前に突き出そうっていう魂胆か。壺を壊したって言えば、母さんは激昂するだろうし、罰を与える展開に持っていきやすいな)
ちょっぴり感心しているネイトを、眼鏡の侍女がちらりと振り返り見た。
「先ほどのような白々しい謝罪など通用しませんからね」
高圧的な口調でそう前置きしたあと、ノックもなしに勢いよくドアを開ける。
(入りたくないな)
面倒ごとに発展するのがわかっているため、室内に入る気になれずにいると、眼鏡の侍女がネイトの首根っこ掴んだ。
そのままネイトは室内へと手荒に引っ張り込まれる。
「奥様、大変です!」
窓際に立って外を眺めていたミラーナが気だるそうに振り返った。
「今度はなに? ……え、ネイト? まさか本人? どうしてここに……って、ちょっと待って、なにしているの?」
ネイトと目が合った瞬間、ミラーナの口元に笑みが浮かんだ。
声を上ずらせておろおろしていたが、眼鏡の侍女がネイトを掴んでいるのを見て取ると、一気に眉根が寄っていった。
機嫌が急降下したミラーナへと、眼鏡の侍女は不敵に微笑みかけながら言い放った。
「奥様の大事にされている壺を落として壊したのですよ!」
「壺?」
「一階の廊下に飾られている、ご実家から贈られた壺でございます」
(実家から贈られた壺だったのか。そういった背景があるなら、大切にしていてもおかしくない)
ネイトは考えを改めさせられ、同時に、激怒の予感に身構えた。
「ああ、あれね」
(……怒らない?)
しかし、ミラーナはあっけらかんとしていて、怒り出す気配はまったくない。
予想外の展開にネイトが唖然としていると、眼鏡の侍女が怒り心頭でわめき出した。
「大切な物を壊しておいて、謝罪もなし! 役に立たない上に余計なことばかりするのだから、罰を与えないといけませんよね!」
ネイトは突き飛ばされる形で、勢いよく床に倒れ込んだ。
眼鏡の侍女は近くの棚の戸を開けて、中から短鞭を掴み取った。すぐさまにネイトへと向き直り、つかつかと歩み寄ると短鞭を思い切り振り上げた。
「反省なさい!」
咄嗟に避けようと身をよじったネイトを捕えるように、短鞭がひゅっと音を立てて振り下ろされた。
しかし、それはミラーナによって阻止された。
「罰を与える必要はありません」
ミラーナはネイトを庇うように短鞭をぎゅっと掴んで、眼鏡の侍女に向かってきっぱりと言い切った。ネイトは目を大きく見開き、ミラーナを見つめる。
「……し、しかし奥様」
「ネイトへの体罰も暴言も許さないと言ったはずよ」
「私は奥様のために……」
「黙りなさい!」
ミラーナは毅然とした態度を崩さず、顔を歪めて不満をあらわにする眼鏡の侍女から短鞭を取り上げる。
「納得いかないみたいね。だったらもう私に仕えなくていいわ。あなたはクビよ」
解雇を突きつけられて、眼鏡の侍女は顔色を失う。なにごとかといった様子で室内に入ってきたジョセフへ、ミラーナは力強く命じた。
「ジョセフ、彼女を連れて行きなさい。二度とネイトに近づけさせないように」
床に倒れ込んでいるネイトの姿と、ミラーナが手にしている短鞭からジョセフは素早く状況を判断したらしく、こくりと頷く。
大声で文句を喚き散らす眼鏡の侍女は、ジョセフによってあっという間に部屋から連れ出された。
(演技……しているように見えない。いったい何が起きているんだ)
ネイトが大きく動揺していると、すぐ横にいるミラーナから悲鳴があがった。
「きゃああ、血が! あの侍女にやられたの? 許せない!」
ミラーナが指先の切り傷を見つめていたため、ネイトは床に座り直しながらぶんぶんと首を横に振る。
「ち、違う。割れた壺の破片を拾おうとして指を切っただけ」
「なんですって、大変だわ。すぐにネイトの手当てを!」
少しの迷いもなくミラーナからそう指示され、侍女たちはあたふたとガーゼや消毒液を準備し始めた。
「……か、母さん」
「なあに?」
呼びかけると同時に、嬉しそうなミラーナの顔が向けられる。ネイトは若干体を後ろに引きながら問いかけた。
「階段から落ちた後、頭に包帯を巻いていたよね。もう大丈夫?」
「心配してくれているのね。ありがとう。もう大丈夫よ!」
(本当に大丈夫か? この豹変ぶり、演技でないとしたら頭を打った後遺症としか説明がつかない)
にこにこと笑うミラーナを見つめながら、ネイトは口元を引きつらせた。




