精霊との攻防戦
早速、翌日からジョセフの授業が始まった。
静かな部屋の中、ネイトがぎこちなくペンを走らせている音が小さく響いている。
(……逆に難しい)
普通に文字を書くのはなんら難しくない。
面倒なので子どもの字に寄せずに書いてしまおうと思っていたのに、いざ取り組もうとした瞬間、エルザが幼いネイトが練習に用いていた紙を持ち出してきた。
ところどころ形が微妙に崩れ、新しい文字が生み出されている紙を横に並べられてしまい、幼い自分のレベルに合わせないといけない気持ちにさせられたのだ。
(面倒くさい。……もういいや)
ネイトは昔の自分の字を手本にして必死に文字を書き連ねていたが、段々と面倒になり、ついには努力を放棄する。
まるで突然覚醒したかのように、ネイトがつらつらと慣れた様子で文字を書き出すと、傍らに立って眺めていたジョセフの目が大きく見開かれた。
「……お上手です!」
「どうも」
興奮気味に発せられたジョセフのひと言に、ネイトは顔色ひとつ変えずに言葉を返す。
指定されたページまでさっさと終わらせたくて、そのままさらさらと書き進めていると、同じく室内で静かに本を読んでいたエルザもやって来た。
「ネイト坊ちゃん、成長がすさまじいです!」
「俺もそう思う」
「まるで大人が書いた文字のように見えますね!」
(だろうな。俺こう見えて十九歳なんで)
最後の返答は心の中だけにとどめて、ネイトは文字を埋めることだけに集中する。
ふたりを唖然とさせながら、あっという間に書き終えると、ネイトはすぐにペンを手放して椅子から立ち上がった。
「終わり。疲れた。休憩」
首を回したり、手を組んで腕を伸ばしたりしたあと、テーブルに歩み寄り、そこに置いてある小さな焼き菓子をひとつ摘まみ上げて口に放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼しつつ、ふたりをちらりと見ると、ぱらぱらと紙を捲って確認していたジョセフが感心の声をあげた。
「……途中から間違いがひとつもありませんね。素晴らしい!」
「取り組む姿勢も評価に値すると思います」
エルザがまるで自分が誉められたかのように胸を張り、誇らしげに言ってのけると、ジョセフは力強く頷いて、その言い分を認めた。
興奮冷めやらぬふたりから視線を外したところで、ネイトはぎょっとする。
テーブルの上にいつも絡んでくる精霊が立っていたからだ。
しかも、まだ残っていたはずの焼き菓子がなぜか残り一枚になっていた。
すぐに精霊の口も周りに食べかすが付いているのに気づき、ネイトは呆れ顔となる。
(こいつ食いやがった)
そこで精霊が最後の一枚にも手を伸ばそうとしたため、それよりも先に、ネイトが素早く焼き菓子を掴み取った。
にやりと笑って煽ると、精霊の顔が悔しそうに歪む。
ネイトは勝った気持ちでいたが、精霊が焼き菓子を奪うべく手に飛びついてきたことで、形勢が逆転する。
あろうことか指にがぶりと噛みつかれ、ネイトは「いてっ!」と声をあげた。エルザとジョセフがそれに反応し、ほぼ同時にネイトへ顔を向ける。
「ネイト坊ちゃん、どうしました?」
「なんでもないから、気にしないで」
心配そうに一歩前に足が出たエルザへと、ネイトは笑顔で答えた。
大人ふたりはちょっぴり不思議そうな顔をするが、すぐに意識は達筆な文字が書かれている紙へと戻っていった。
次の瞬間、ネイトは笑みを消し、足元にいる精霊を睨みつけた。
ついさっきまでネイトが持っていた焼き菓子を、精霊が美味しそうに食べている。
さらに、精霊は高圧的な笑みを浮かべただけでなく、何かを囁きかけるように口を開け閉めしてみせた。
口の形から「ばーか」と言われたのがわかってしまい、ネイトの怒りが沸点に達する。
ネイトは精霊の体を掴み上げようとする。精霊は慌てて避けると、その場から姿を消した。
(ふざけんな。絶対逃がさない)
ネイトは室内を見回した後、窓で視線を止めると、足音を立てないようにして歩み寄る。
そっとカーテンに手をかけると同時に、短く囁きかけた。
「ばればれなんだよ」
ネイトが勢いよくカーテンを引いたため、裏に隠れていた精霊は身を震わせた。
捕獲しようとするものの、精霊の素早い動きにネイトは苦戦を強いられ、結局逃げ出されてしまう。
精霊が姿を消しながらドアへ向かっていく。すると、ちょうどノックの音が響き、ドアが開けられてしまった。
「失礼します」と侍女が頭を下げてから、部屋の中に入ってきた。
先程同様、精霊はネイトを小馬鹿にするようににやりと笑ってから、侍女と入れ替わるように部屋の外に出て行ってしまった。
(腹立つな! 絶対捕まえてやる!)
いつもならそこで引くのだが、今日のネイトは違った。
ジョセフとエルザはやって来た侍女と真剣な顔で話し込んでいる。
三人がこちらを見ていないのを確認しながら、ネイトはドアまで一気に進み、こっそりと部屋を出た。
廊下に出るとすぐに精霊の姿を見つけ、ネイトは走り出す。
その足音に気づいて振り返った精霊は、まさか追いかけてくるとは思っていなかったらしく、ほんの数秒、唖然とする。
そこからネイトと精霊の追いかけっこが始まった。
「お前、なんで追いかけてくるんだよ!」
「バカとか言って俺を煽るからだ!」
「バカが嫌ならチビの方が良かったか」
「てめえ。口に気をつけろよ!」
時折姿を消しつつ、精霊は必死に逃げていく。
階段をのぼったり、おりたり、急に向きを変えられてもネイトはしっかり反応する。
通りすがりの侍女たちには精霊の姿が見えていないらしく、猛烈な勢いで駆けていくネイトをただただ驚き顔で振り返る。
精霊の気配を逃さず追いかけていくうちに、ネイトの左目には彼の足跡までが徐々に見え始め、完全に動きを把握し追い詰めていった。
廊下の台の上に飾られている壺の後ろに、精霊が身を隠した。
しかし、休息など与えないとばかりにネイトが両手を伸ばし、精霊の体をがしりと掴んだ。
「はい、俺の勝ち」
「離せ、小僧!」
「嫌だね」
精霊は暴れていたが、ネイトが手に力を込めると握りつぶされる危険を感じたのか大人しくなった。
「なんで俺の周りをうろちょろしている? 目障りなんだけど」
ネイトはずっと抱いていた疑問をぶつけるが、精霊は答えたくない様子で視線をそらして話題を変える。
「魔力鑑定で無能判定食らったくせに、お前どうしてこんなにはっきり俺の動きを認識できるんだよ!」
「それはこっちが聞きたいくらいだ」
「鑑定を誤魔化したのか。いや、そんなことをしたら、ルイモール様が気づくはずだ」
ルイモールの名前に思わずネイトが眉根を寄せて反応すると、それを見て取った精霊が怪訝そうな顔をする。
ネイトはそっと手の力を緩めた。
「もうこれ以上、俺の周りをうろうろするな。誰かに見つかる前に、今すぐこの屋敷を出て行った方が良い」
もしゴードンに見つかり捕らえられてしまったら、どこぞの性悪貴族に売られてしまうだろう。そうなったら終わりである。
諭すように話しかけると、精霊は面食らった顔をした。
「……お、お前の指図は受けん!」
しかし、すぐに我に返ると、ネイトの手を蹴り飛ばすようにして、がむしゃらに逃げ出そうとする。
「待て、危ない!」
ネイトが注意するのと、精霊がゴンと鈍い音を響かせて壺にぶつかったのはほぼ同時だった。
体当たりした拍子に壺がぐらりと傾いた。
(やばい!)
ネイトは慌てて手を伸ばすが、壺は台の上から落ちていった。
ガシャンと割れた音が廊下に響き、ネイトと精霊が無表情になって数秒後、慌ただしく近づいてくる足音が聞こえてきた。
「なんてことを!」
声を震わせて叫んだのは、あの眼鏡の侍女だった。




