第66話「ヘレナの逡巡」
幻聴だろうか…?
あり得ない場所で、
あり得ない人物の声がする。
───バズゥ・ハイデマン…?
嘘だろう?
この状況で外にいるだって?
バカな?
生物災害だぞ?
キングベアの群れだぞ!?
都市すら飲み込む暴威の前だぞ…!!!
いくら、彼が元勇者小隊の人間だったとして…
天災クラスのキングベアの襲撃を…一人で?
たったの一人で???
いや、
バズゥなら…
バズゥ・ハイデマンなら、
人類最強の勇者──────その叔父ならあり得るのか…?
しかし、
…
こんなタイミングであり得るか?
今まさに助けてほしいというタイミングで、まるで救世主のごとく街を救う??
あり得ない。
これは、惰弱で臆病な私の感情が生み出した幻聴に過ぎない…
だって、見なさい?
誰も、希望を持っていない。
誰も、声を聞いていない。
誰も、英雄を見ていない。
ならば、誰もいないのだ。
だが、
変化はあった…
明確な変化。
それは、恐怖に溺れる市民たちではなかった。
彼らの恐怖の源泉たるキングベア───
市民の悲鳴だけが響く中…何故かキングベアが静かになる。
一部だけは興奮してバリケードに張り付いているが…
その後方にいるものはゾロゾロと城壁を潜り外へ向かう…確かな怒気と闘志を燃やしながら───
急に減った圧力に、バリケードの軋みが緩やかになる。
な、
何が起こったの?
い、いえ。
今はそれどころじゃない。
チャンスだ!!!!
「い、今よ! 攻撃なさい! 突いて突いて突いて突いて…突きまくりなさい!!」
ヘレナの叫びに我に返った市民は、確かに変じた圧力に敏感に応じる。
行ける?
逝ける?
征ける?
生ける……
生ける!!!!!
……
…
おおおぉぉぉ!!
おおおううう!!
鬨の声を上げる市民。
彼らは元気を取り戻し、武器を突き出す。
そしてバリケード越しのキングベアに何度か痛撃を与え、その勢いを大きく減じることに成功した。
そのうちに、武器と人員の搬入が完了したらしくギルド職員が大きく合図する。
多少は反撃できたとて、臨時の第1戦のバリケードは脆い…
そろそろ、このバリケードも限界だ。
反撃できただけでも御の字。
下がる頃合いだろう…
しかしその前に!
物見のために城壁に上がっている職員に声をかける!
「そこ! 外に誰かいるのが見える!?」
物見は、城壁になだれ込んだキングベアを注視していて、外を見ていたわけではなかった。
「はぁ?? こんな時に外に生存者なんて…」
と、彼は返そうとするが、振り返った視線の先に───
ん?
……
「何が見える!?」
「ちょ、ちょっと待ってください…! 煙が酷くて…」
未だ燻る炸裂弾の爆煙と、土埃は視界を閉ざしているが幾分晴れ始めている。
筋の様に立ち上る煙を透かして見ると───
「あ…?」
ヘレナの胸がドキンと高鳴る…
何が、何が見えた!!??
「キングベアの一団が去っていきます…? いや、何かを追って?」
彼の視線の先にあるのは何だ…早く言え!
と、
ガシャン!!
破砕音が耳を叩く、
「へ、ヘレナさん…バリケードが壊れます! 退避を!」
最終防衛ラインたるバリケードから顔を出した職員が、閉塞する間際の入り口から、しきりに手招きする。
もう、第1線バリケードの内側に残っているのは、ヘレナと物見の職員だけだ。
バリケードの内側には城壁へ上る階段もある。そこに留まり続ければ彼も危険だ。
「っっ! 下がりなさい! ここも限界です!」
彼の視線の先が知りたい…
惜しい気もしたが──ヘレナは決断を下す。
城壁の特性上、バリケードの内側が占領された時点で、城壁は全て通行が自由になってしまう。
人間が攻め手ならば、それは見逃さないだろうが、…相手は獣。
餌さえなければ、城壁に上がって攻めようという考えにならないだろう。
故に負傷者も物見も全て退避させる必要がある。
キングベアの注意をバリケードの内側のみに向けさせるのだ。
間違っても城壁へ上がる階段へ注意を向けさせてはならない。
物見の視線の先が凄まじく気になったが…今は、街の防衛が最優先だ!
物見の彼がバリケードの内側に逃げ込むと、ヘレナは最後に放棄した陣地を見回して残留者がいないことを確認すると、体を捻じ込むように内側に逃がし、閉塞を指示した。
ヘレナの避難と放棄した陣地がキングベアに蹂躙されるのは、ほぼ同時だった。
あっけない程崩れ去った第1線の陣地に対して、最終防衛ラインたる陣地は頑強だった。
城壁のそれとは比べるまでもないが、分厚く積み上げられた家具の山に、太い杭が何本も撃ちこまれ、多少の衝撃ではビクともしない。
さらには、矢狭間のような防御施設も考慮されているのか、いくつもの隙間が作られ内側から攻撃できるように工夫されている。
そして、それらにはすでに射手が配置に付き、銃に、弓矢を、その銃眼に構えている。
防御施設をざっと確認した後ヘレナは、指揮所に戻る。
指示するまでもなく、すぐに防戦が始まる。
数はそう多くはないが、安全な位置から銃撃に矢による攻撃がキングベアに突き刺さっていく。
その様子に安堵すると、
「状況は?」
声をかけた先には、第1小隊に付かせていた老練なギルド職員が控えていた。
「ヘレナさん! ご無事で!」
ヘレナの労をねぎらう彼を手で制すと、報告を促す。
「え、えぇ。王国軍の兵力は半減。指揮官は二人とも負傷しました…命に別状はありませんが…その」
言葉を濁す職員に、
「何よ?」
「あ~…その、ショックで眼を回してしまいましてな…」
なるほど、腰抜け揃いの王国軍。
瓦礫のシャワーで気絶中──ということらしい! ───使えない連中だ!
「と、とりあえず…王国軍の兵はこちら側に協力的です。幸い砲に習熟し始めた連中もいますので…」
む…
「大砲が運用できるのね?」
職員の言葉は決して悲観的なものではなかった。
王国軍の兵も防戦には協力すると言う。ここでごねられるとまずい所だが…どのみち今は戦うしか生き残る術はない。
それでもありがたいものだ。
「いいでしょう! 今度はきちんと砲を使いましょう」
大砲の威力はやはり魅力的だ。
炸裂弾とて、至近ではなく遠方にぶっ飛ばしてやればいい。
いくら銃があっても豆鉄砲では何発撃ったとて、そう効果などない。
自分のピストルがほとんど効果がなかったことを苦々しく思い、ヘレナは歯ぎしりする。
「そう思って準備させております」
気の利く男だ。そう職員を評すると、ヘレナは指揮所を出て砲のある現場に向かう。
バリケードの作る影に身をひそめながら、
反対側をガリガリと引掻くキングベアの気配に顔を顰めつつ、据え付けられている砲を視察する。
「ヘレナさんご無事で!」
王国軍の将校を呼びにいった女性職員が現場を取り仕切っていた。
疎らにいるのは負傷したらしい王国軍の下士官と少数の兵のみ。
あとは市民が砲弾を運び込んでいる。
現場は巨大な矢狭間ような空間で、凸状に組まれたバリケードの先端にはキングベアの顔が覗いている。
ガリガリと腕を伸ばし家具を引掻いているが、特に太い杭が何本も打ち込まれているためビクともしない。
薄く見えて、見た目よりも丈夫なのだ。
すぐ近くにキングベアの気配を感じるのは気分が良くないが、安心感は段違いだ。
「砲は使えるの?」
ヘレナは下士官に話しかける。
「あ、あぁ…アンタか」
ポリポリと頭を掻く彼はバツが悪そうだ。
城壁上で、大砲を運用しようとして、砲身から弾を落とす失態を演じたのは彼の指導のせいでもある。
「で、どうなの?」
ヘレナはそれを咎める気は一切ない。
そもそも、砲の運用を決めたのはヘレナの判断だ。彼の責任ではない。
「こ、今度は撃てる! 地上からなら弾が落ちることもない!」
そう豪語して見せる。
少々怪しいが…
いいだろう。
今度こそキングベアを直撃しておくれ。
「ならばすぐに取り掛かって、人員は回しましょう」
「い、いや、十分だ。それよりも砲の威力を過信しないでくれ…こいつは旧式なんだ」
コンコンと方針を叩きつつ下士官は、どこか不安そうだ。
「安心なさい。砲一門でどうこうするつもりはないわ」
大体、この至近距離で撃ったとて炸裂弾は使えない。
それよりも、正門から去った集団がいつ戻るとも知れないのだ…
砲の、目標はそいつらだ。
内部に侵入したキングベアは銃と矢で仕留める。
これだけ数が減れば対処可能。
時間を稼げたお陰で、市内からは武器弾薬に、矢や槍に塗る毒薬も届いているという。
いくらキングベアが強とも、大量の銃に、猛毒に耐えられるものか!
集団を二分した愚かさを呪うがいい。
ヘレナはすぐさま防衛戦力に残ったキングベアの排除を命じる。
悠長に構えている暇などない。
このバリケードとて急造なのだ。本気で一点集中されれば簡単に瓦解する。
散発的ではあるが銃撃が集中する。毒矢が命中する。熱湯、油、レンガが飛び交い──
市民と衛兵と駐屯軍が一体となって戦う。脅威と戦う!
さぁ、最終防衛ラインの戦い!
ここにすべてを賭けるのだ!!
ヘレナ・ラグダ───彼女の奮戦もここに成就する───




