第34話「潮騒の建屋」
───少々お待ちください…
何故か遠い目をしたバイトの青年。
名前は…覚えていない。
多分、村人だとは思うが……正直、村人の事はイマイチ覚えていない。
だって、どうでもいいし。
建物の奥に下がっていく青年を尻目に、窓口の傍にあった粗末な長椅子に、ドカっと腰を下ろすバズゥ。
キナが批難する様な目で見ていたが…──大丈夫だって。まったく…
トントンと、横を叩くと、
もうっ、とちょっとホッペを膨らませて、キナはチョコンと横に腰かけた。
人の動きで僅かだが、空気に対流が起こり臭いを運ぶ。
それは、バズゥから移ってしまった汗と、キナの良い香りが混ざった匂いだ。
何故か、それがとても背徳的な───何とも言えない落ち着かない気分にさせる。
「ね、バズゥ…その、本当にやめてほしいの…」
上目遣いでバズゥに懇願するキナ。
「──大丈夫だ、キナが困るようなことはしない」
だが、落とし前は付けないとならない。
そもそも真相がどうなのか…
それに、飲み代やら何やらを踏み倒している状況も納得できない。
既に、キナの借金はギルドが受け持っている。
債務整理の段階で、ギルドから漁労組合に支払われているはずだし──そうでないとしても、もはや請求先はキナではない、ギルドに言うべきなのだ。
その状態を知ってか知らずか…
漁師たちは、キナが持つ借金の負い目を利用して、タダ酒を飲んでいる。
──少々度が過ぎると思うぞ、俺は。
その飲み代の取り立てはもちろんの事。
今の今までそんな状態を放置していた事実も、また…──問いたださねばならない。
もちろん、村人や漁師の全部が全部ではないだろう。
おそらく、漁師──個々の態度に起因することだと思っている。
実際──キナに聞けば、オヤッサンはキチンと支払っているらしい。
尤もかなり例外的なことで、普段の漁師連中の大半が、お代も払わない状態はもう日常茶飯事だという。
───叔父さん激おこ。
キナが、借金まみれで迷惑をかけたという負い目から───お代について、払ってくれと言い出せないことを理由に…
──そういう卑怯な真似をする!
男でもなく、
力強いわけでもなく、
頼れる人がいるわけでもなく、
たった一人で切り盛りしている、足の不自由な心優しい少女に付け込んだ、許しがたい所業だ。
キナが言い出せないなら──男であり、家長でもある俺が言うのは何もおかしくはない。
隣で俯く少女は俺の家族。
だから、俺が出張る。当たり前だろ?
何にもおかしくはない。
キナ…
キナ…
キナは優しすぎる。───愚かなまでに…
人は汚い。
人は狡い。
人は悪どい。
人は救いようがないほど……
そう、救いようがない程…どーしようもなく、臭くて汚くて気持ち悪くて、救えない…───
だから、
だから…キナのような子が──人を信じる、人を愛する、人を慮る…
──それがどうしようもなく美しい。
そうだ、
キナはそれが故に、美しく儚いのだ。
キナのそれはもう──完成された価値観で、今さら生き方を変えるのは難しいだろう。
でも、少しずつ…少しずつでいい。
キナの価値観と、美しい心を穢す行為かもしれないが──
少しずつ、ハイデマン家の一員としてバズゥ流を学んでいって欲しい───……とくに金銭面な。
だがまぁ…
今はまだ、バズゥが矢面に立つべきだろう。
別に、漁労組合に嫌われてもいい。
客が遠のき、店が維持できなくなってもいい。
キナが平穏無事でいられるなら、それでいい。
だからさ、キナ……
ポン、とキナの頭に手を置く。
不思議そうにバズゥを見上げる、美しき相貌。
家族は頼っていいんだよ─────
俺はキナのためなら何でもする。
キナが俺を必要としてくれる限り、なんだってする。
キーファ? ブッ殺。
漁労組合? ガッタガタ。
この世界? 滅べばいいさ。
キナが、家族が、俺たちが──平穏無事に暮らせれば…それでいい。
なぁ、キナ…
俺たちは…─────家族だろ?
「バズゥ?」
「キナ、キナキナキナ…」
ポンポンと、綿毛を撫でるがごとく、キナの頭を優しく撫ぜる。
「……ん」
キナはもう、バズゥを止めようとはしなかった。
ゆっくりと体を傾け、コテンと頭をバズゥに預ける。
うん…───バズゥを信じるよ。
キナはゆっくりと目を閉じ───
愛おしい家族の温もりが傍にあることに安堵する。
あぁ…
たった一日…
帰ってきてから、たったの一日。
だけど、今まで生きてきた中で…最も安堵を覚えた一日。
夢なのかもしれない。
泡なのかもしれない。
幻なのかもしれない。
今、目を開けばバズゥは消えてなくなるのかもしれない。
エリンを、
またエリンを追って、戦争に行ってしまうのかもしれない。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
夢じゃない。
夢じゃない。
夢じゃない。
エリンのところに行かないで、
私とここにいて、
ずっと一緒にいて、
私を置いていかないで──────
胸を焦がすような独占欲。
バズゥは、「キナは優しい」なんて言う。
違う。そうじゃない。そうじゃない。
言葉にできないだけ、否定されるのが怖いだけ、─────人が怖いだけ……、
それが私だ。
隣の男性───私の家族。
家族だ、と言ってくれた愛おしい人───バズゥ・ハイデマン。
バズゥ…
バズゥぅぅぅ…
グググググと、もたれ掛る頭に力を入れ、飲み込まれてしまいたいとばかりに押し付ける。
─────キナは俺の家族だ! …そう言ってくれた。
この数年の、
苦しみ、
悲しみ、
憎しみ、
……全てが報われた気がした。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとうバズゥ…
潮騒がさざめく中。
魚の匂いと、潮の香りが漂う──ポート・ナナン漁労組合の窓口で、
二人の人影はまるで、__のようだった。
ありがとう…バズゥ……
ありがとう……
─────ギシギシギシ、と古い建物の床を軋ませて、高齢の男性が青年に付き添われてやってきた。
「おぅ? ほんとじゃ、ホントにバズゥが来とる…のう?」
皺だらけで腰も曲がっているというのに、全体的にがっしりとした印象を与える老人。
肌は真っ黒に日焼けに、眼光は鋭い。
頭髪はいくらか白髪が残っているが、ハゲ散らかしたごま塩頭。
「来たか爺」
バズゥは椅子に掛けたまま──キナがくっ付いているというのに、ふんぞり返ったような姿勢を取る。
キナは離れず、頭から顔へと──バズゥに押し付ける。ちょっとくすぐったい…。
「ワッパが偉そうに、何じゃ? 死んで幽霊にでもなったか」
青年が差し出す椅子に、「よっこいっせ」と腰かけるとバズゥを正面から見据える。
「はっ! てめぇこそまだ生きてたか? あ? ミイラか? こりゃアンデッドか?」
ハァンと顎をしゃくって挑発。
「生意気な…昔から変わらんのぉ」
「あんたも、昔から爺だな」
ケッ──と、カッ──と、二人して微妙な言葉の応酬。
「で、なんじゃ? 挨拶にしては土産もないようじゃが?」
「土産だぁ? てめぇにやるとしたら冥途の土産だけだ」
ほっそい目がギロっと開き、バズゥを見据える。
「ワッパが言うようになったわ」
鋭い眼光には違いないが、バズゥからすれば枯れた老人のソレだ。一般的な村人ならこの眼光に怯えて正面に座ることすらできない。
漁労組合長、ハバナ・ナナン。
御年……何歳だっけ?
ポート・ナナン創設の一家、この村一番の権力者だ。
「で、要件はなんじゃい? ここでキナと、乳繰り合うために来たのか?」
乳繰り合ってねぇっつの………って、キナちゃぁん、くっ付きすぎ──
「ちげぇ…ま、色々言いたいことはあるが、」
ベリリとキナを引きはがすと、横にきちんと座らせる。
「キナの借金のことだ」
※
ザー…ドドォォン…
ザー…ドドォォン…
寄せては返す波が、砂浜を洗っている。
浜に設置された船台には、漁船は一隻も残っておらず──ボロボロの桟橋も同様。
ポート・ナナンの住民は、大半が漁師やその家族。
漁師たちが漁に出ている時間は、恐ろしく村は静かだ。
とは言え、無人というわけではない。
沖合に漁に出る男や、近岸で海女漁をする女以外の村人が当然ながら残っている。
俺または彼女らは、誰も彼もが朝から働き──今日も今日とて、ポート・ナナンの主要産業である魚介類の加工を行っていた。
昆布に貝類、魚、それらに手を加えて、生物から商品にしていくのだ。
勿論いくらかは、自家消費することもある。
他の地域では驚かれる魚卵やいくつかの海藻類など、結構な御馳走として珍重されていた。
海産物の加工は、陸の仕事。
基本的に海女以外の女性や、未だ漁に出られない子ども達や、漁から引退した老人たちが行っていた。
潮騒と海鳴り、そして海鳥と猫の鳴き声──ポート・ナナンの景色は、どう見ても漁村の風景のそれ。
女たちが干し台で昆布を干していたり、
───手伝う冒険者。
番屋の前で魚やイカを手早く捌く子供がいたり、
───手伝う冒険者。
その傍でギャイギャイと泣き騒ぐ子供がいたり、
───あやす冒険者。
それぞれが自分の仕事に集中しており、会話らしい会話もない。
自然が奏でる騒音以外は、実に静かなものだ。
田舎も田舎…ド田舎で、静かな静かな小さな村…
そんな村の奥まった位置にある漁労組合では、緊迫したような何とも言えない張り詰めた空気が漂っていた。
もし、外から建物を見る者がいれば、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ───という効果音を聞いたに違いない。
実際、漁労組合に取引のために訪れた旅商人が、足を止めて何かしらの異変を感じたのか、そそくさと引き返したほどだ…
一体、中では何が…?




