第90話「山の掟」
コフ…コフ…
コッフ…コッフ…
ザッシザッシと、土を掻き──、苛立たし気に哨所の周りをまわる。
二本の巨大な牙。
黒い鬣は尻尾まで繋がり、ピンと立つ。
太い尻尾は蛇のように、のたうち地面を掃く。
爛々と輝く双眸は紅く怪しげに闇に浮かぶ。
鼻は潰れたかのように平たく広がりプレス器の如く。
体臭は意外と少なく、土の臭いが強く感じられるのみ。
後肢は太く頑強。
体躯は巨大だが姿勢は低く、どっしりとした安定感を醸し出す。
この山中では、キングベアを除けば一位か二位の座を争う、食物連鎖の頂点に位置する凶暴な生物。
餓えた獣───
彼らは、王国軍の設置した認識阻害の魔法に騙され、今までここに近づいたことは無かった。
しかし、今日この日、強烈な餌の匂いを嗅ぐことにより、この場に誘引されるようにゾロゾロと集まる。
一匹、また一匹と…
当初、敵意を剥き出しにし、睨み会う獣たちは、
同じ家族を由来としているため、臭いで互いを敵ではないと認識。
群れを形成した。
ツガイが2組…単身が1組───どれもこれも、小さな気配を後方に従えている。
大型獣の姿は5頭を数え、それは地羆ほどではないにしても、低い姿勢でありながら──かなりの体躯を誇ることが窺えた。
地猪…
彼らは、雑食性で旺盛な食欲、
凶暴かつ恐れを知らぬ獣として知られる。
そんな彼らだが、今は困窮しているらしい。
夏の終わりに産んだ子供の餌の確保が、キングベアにより食い荒らされたためか、山中に乏しく…躍起になっていた。
特に、この秋の深い時分には、いつもなら大量にあるはずの木の実が、群れを形成するキングベアとその傘下にいた地羆によって食い尽くされたため深刻なエサ不足に陥っているらしい。
子供の成育が遅れて、その親すら満足に食べられない日々が続き、彼らは非常に苛立っていた。
そんな時に、山中を漂う匂いにつられないはずがない。
臭いの軌跡に従い、この場に集まったのは縄張りを別にしていた兄弟たち。
本来なら相争うこともあるのだが、餌の気配を十二分に感じていた彼らは、一度互いの匂いを確かめた後は特に感慨もなく一個の群れを形成し、自然な流れで哨所の間近に集結した。
冷たくも穏やかな風が、バズゥの張りなおした王国軍の鳴子を静かにならしている。
その音は大きくも小さくもなく、一定のリズムを刻み続けていたため、誰も気にするものはいない。
それは、リズムを崩されて初めて警報装置足りえるのだが…
この装置自体、人間や地羆の侵入に備えているため比較的高い位置にあったのが災いした。
確かにあまりに低い位置に設置していたのでは、小動物が触れただけで鳴子が作動する。
それでは、警報装置の役割としては乏しいし、何より不経済だ。
そして、不経済ゆえギリギリの設計に終止していた王国軍の鳴子は、地猪の背丈スレスレのところを掠め…通過を許してしまった。
いや、一応王国軍でも軍施設たる哨所を蔑ろにしているわけもなく、
本来なら生物学者らの意見を参考に、全哨所に対して既定を設けて罠を張っている。
当然その対象には地猪も入るのだが…
バズゥの誤算が一つ。
一度、地羆に破壊された鳴子は全体に比して張るべ紐が千切れて小さくなっていたということ。
そのため本来なら垂らすべきところも、きっちり──張り詰める様にして構成してしまったが故、
そのため、本来発揮すべき高さから外れてしまっていた。
警戒線は遥か上。
容易に地猪の通過を許してしまう。
すなわち無音で───
コッフコッフ……
鼻息荒くも地猪達は、しきりに匂いを嗅ぎつつ餌を探す。
一組のツガイはバズゥの竈の跡を見つけ、そこに残る熊の脂や骨、血の匂いを感じ取り地面を掘り始める。
──出てくるのは消し炭だけとは知らずに…
もう一組のツガイは、畑から漂う死臭に気付きそこに向かう。
そして畑に植えられているモリの死体に目を付けると、熊の小便のことなど気にもしないでむき出しの四肢に噛り付く。
その鋭い牙で噛み折られる骨の音と言ったらもう───…
最後の単身の地猪は、兵舎から漂う新鮮な餌の匂いにつられて入り込んだ。
コッフコッフコッフ…
……
ブルルルルゥゥ…
スッと、目を覚ましたキーファの馬は静かに起きると、その体躯をまざまざと見せつけるように立ちあがる。
地羆程ではないとはいえ、馬も大きい───
体躯は互角、地猪といい勝負だ。
ジィッと睨み合う両者。
一方は餌として…
一方は敵として…
人間で言うなら「お、なんやわれ?」「あ、やんのかこら?」と言っているかのよう。
コフッコフッ…
ブフフフウゥゥ…
立ち上がった馬は地猪と真正面から向き合い、鋭い目で睨み、蹄で威嚇する。
カリカリカリと、蹄が音を立てて室内に響く。
コッフコッフコッフ…ブフフウフゥゥゥ…
両者の緊張が高まり頂点へ───…
バァァァァン…!!
───すさまじい轟音。
ドアも窓も、開放状態にあったとはいえ室内。
その音の反響は、外での発砲時の比ではない。
銃声に慣れているはずのキーファの馬でさえ仰天し、飛び上がる。
そして、地猪もフッ飛ばんばかりに仰け反った。
その喉元には大きな穴が…
「すまん…寝過ごした」
シュゥゥゥゥゥ…と余熱で燻る銃を構えたバズゥが、半身を起こして射撃していた。
スクッっと銃を装填位置に戻すと、時間が動き出したかのよう──
馬は凛と立ち…猪はドゥと伏せて息絶える。
「地猪か…目当てのやつじゃないな」
スルリと寝台から抜け出すと、
バズゥは非難がましい目を向ける馬をヨシヨシと宥めながら、
「くそ…油断したな。警報が鳴らないとは…チッ」
紙薬莢を取り出すと、先端を噛み破り、火薬を火皿に少量注ぎ、残りを銃口から中へ───そして、紙包みごと弾丸を槊杖で押し込む。
「何匹いた? …って見てるわけないよな」
冗談めかして馬に尋ねつつ、『山の主』を発動させると、
「ひい、ふぅ……残り4匹──ほかに小物が少々」
キングベアのような上位の害獣でもない限り『山の主』はその存在を明け透けに示してくれる。
地猪ごとき、驚異でもなんでもない。
ペロリと舌なめずり…──カモだ。
「キングベアを釣るには至らなかったが…依頼品が向こうから来てくれるとはな」
幸先いいぜと、欲丸出しの顔で笑う猟師バズゥ。
馬には、ここにいろと言い置いて素早く兵舎を飛び出すと、近くで竈の残骸を漁っていたらしい2匹の地猪を発見する。
その姿は、当然のごとく『山の主』の示すとおりの位置。何も不足はない。
地猪も、最初の銃声でこっちに気づいている。
臨戦態勢とはいかないものの、無防備ではない。
「いただきだ!」
ズドン! と躊躇いなく一発。
大口径の銃弾が正確に地猪の心臓を撃ちぬく。
こいつらも地羆に似て、負けず劣らずの生命力…そしてタフだ。
急所以外を撃っても簡単には殺せない。
故に急所を一撃する。
撃たれた地猪は、ビクリと体を震わせたかと思うと──
ドサっと、糸が切れた人形の様に倒れた。
まずは二匹目…と、
殺すだけなら容易だが、即死させるとなるとなかなかに技術を要するものだ。
暗い中、暗視だけを頼りに急所を一撃なんてものは神業としか言いようがない。
だが、それでもやらねばならぬ。
そして、バズゥにはできる。
折角の獣肉をみすみす逃すのも惜しいし、例え仕留めても山中に逃げ込まれてしまえば、探すのは容易ではない。
痕跡さえあれば追跡は可能だが…
可能ではあるが、時間を無駄にすることは間違いない。
だからこそ、なんとしてでもここで仕留める!
突如、相方を失ったもう一匹の地猪は、素早く体勢を立て直すと猛然と攻撃に移る。
思い切りは獣にしてはいい。
いや、獣だからこそ、…か。
「猪鍋にしてやるぜ!」
追い紐で猟銃を背中に打っちゃると、流れるような動作で鉈を一抜き。
自らの使いなれた得物を抜く動作だ。
そこに迷いも戸惑いも、手違いもない。
ドドドドド! と一挙手で突進動作に移る地猪のそれを紙一重で回避。──とは言え、それはギリギリというわけでもない。
そう、これは狙った動きだ。
…すれ違うように交差する地猪とバズゥ。
そして、互いに体臭を感じるほどに接して、真横を駆け抜けていくその隙を狙って──
「フン!!」
ドカァンと、掬い上げる様な一撃を後ろ足に放つ。
ブギィィィィィと、耳障りな悲鳴をあげる地猪。
しかし、そんなものに耳を貸すこともなく…
ズザザーと転けて滑り、地面を開拓した地猪に追いつくと、
「3匹目!」
ドスン! と叩き下ろす一撃で喉をぶち破る。
途端に、ドバッとあふれる血が暗視の視界の中で黒々と映えた。
次ぃ!
歩きながら鉈を血振りし、スチャっと納刀、
楽器でも弾くかのような手つきで、背中の猟銃を手元に寄せる。
慣れたその動作── 一部の狂いもなく再装填を済ませると、銃剣を取り付けた。
残り2匹。
銃撃は一度、あとは近接で仕留める、と──
並の猟師なら、地猪は決して油断できる相手ではない。
メスタム・ロックに入る猟師の死因の多くを占めるのがこいつだ…
数も比較的多く。
凶暴で雑食…おまけにそこそこ強い。
何より厄介なのは、こいつらは夜行性でもないし、かといって昼間に活発に行動するかといえば──そうでもない。
あえて言うなら、固体ごとに好みの時間に好き勝手に動き回る。
そのため、猟師としても行動が読み辛いのだ。
そして、油断した猟師なんかが野営中に襲われたり、日中に群れに遭遇したりして命を落とす者が間々いる。
ある意味、熊よりも危険な害獣だ。
とはいえ、猟師として最高峰にいるといえるバズゥにとってはただのカモ。
油断はしないが、ことさら警戒するほどでもない。
ザクザクと地面を踏みしめ、気配を隠すことなく近づく。
本来ならもっと慎重に近づくべきなのだろうが、…奴さんやる気十分らしい。
兵舎の影からでも濃密な殺意を感じる。
ひょいっと無造作に畑を覗き込めば、予想通り2匹の地猪。
…そして、食い散らかされたモリの死体。
熊の作った土饅頭であってもお構いなしだ。
「おいおい、人様のものに手をつけちゃいけないって教わらなかったか?」
小バカにした雰囲気を感じたのか、地猪は俄然鼻息荒くバズゥを睨みつけてくる。
「躾のなってねぇ獣だ」
それだけを聞き届けると、地猪は猛然とやる気を出して突進…───
ドズォン!
駆け出した一匹目の鼻先に一発。
そいつは、グシャっと変形した顔に構わず…2、3歩たたらを踏むと、猫の様にペタンと香箱座りをして動かなくなる。
一見すれば、休んでいるようにも見えるが…即死だろう。
血と脳しょうがドロリと溢れ落ちている。
「ラストだ」
あっという間に仲間が殲滅されたのを見て、最後の地猪は観念するでも、逃げ出すでもなく愚直に突進に移った。
予備動作として、後ろ足に力が籠るのが見える。
…いいぜ? 来いよ。
地猪は、この好戦的な性格ゆえ、危険とされるが……バズゥ並みの腕前を持つものならただのカモ。
しかも、逃げずに踏みとどまってくれるのだから手間いらずだ。
「獣肉ゲット…」
ザッザッザ───…
無造作に歩を進めるバズゥに、ブホォ! と激高し、牙を振りかざし威嚇する。
……
…だから?
ジリジリジリ…と初めて、
地猪が後ずさる。
改めてバズゥを見て、圧倒的なまでの力量の差を感じているのだろう。
本来、動物はそういった能力に優れている。
しかし、ここメスタム・ロックでは地羆と地猪が食物連鎖の頂点で…
その地猪とてキングベアでもない限り、地羆であっても、時には勝つことができるほどに実力は伯仲している。
故に彼らは知らない…
退くという選択肢を───
ザッザッザ…
「どうした? 来いよ?」
チョイチョイと手で挑発するも、地猪は慎重だった。
彼らの持つ性質からして、考えられないほどの慎重さ。
それほどに実力差を感じているのだろう。
この生物には勝てない───と。
「チ…弾を使うまでもなかったな」
ザッザ…───ピタリ。
威嚇姿勢は低く、バズゥの腰のあたりを狙う形。
今、地猪はバズゥを見上げている。
実際の体長は地猪の方が大きいが、二本足で立つ人間の大きさは、実際よりも生物として大きく見せていた。
それを見上げる地猪…
その人間は強く…
棒のような武器の先端にギラリと光る金属の槍。
全身から立ち上る殺意。
食欲でも、敵意でもない…──ただの殺意。
殺される…
地猪がそう考えたのかは知らない。
ただ、彼は後退り…攻撃のために、後ろ脚に貯めていた爆発力を自ら殺す。
そして、ただただ硬直するのみ。
逃げもせず、
戦いもせず、
命乞いもしない───
「堕ちたな…獅子よ」
スっと僅かに憐みの籠る目を見せたバズゥは…
……
…
ブギィィィィイイイイィィィ──────……!
弱者の悲鳴が山中に響いた……




