1 時間が戻ったらしい
一体なにが起こったの……?
私、オリヴィエ・ノークタムは飛び起きるなり、鏡の向こうにいる自分に混乱した。
日焼けして細かなキズがあったはずの肌は、陶器のようになめらかな純白に。
肩のところで切り揃えているはずのスミレ色の髪は、腰まで流れている。
私はルビーのように鮮やかな赤い瞳を瞬かせ、部屋を見て回る。
ここは紛れもなく、実家である公爵邸のオリヴィエの寝室。
ドレッサーを見ると、当時通っていた学校の制服がかかっていた。
ネクタイの色は最高学年である三年を意味する赤。
ちなみに一年生が黄色、二年生が青。
五年前に遡ってる?
我ながら馬鹿げていると思うが、そうとしか思えない。
そもそも私は死んだはずなのに。
自分の胸を剣が深く貫く感触をはっきりと覚えている。
夢ではない証拠に、頬をつねったら痛かった。
奇跡が起こったとしか思えない。
今年、私の人生を大きく変わるのだから。
私はエイリアス王国の王太子、カリスト・ルヴァ・エイリアス殿下と生まれた時からの婚約者。
卒業後はすぐに結婚式を挙げ、王太子妃となるはずだった。
しかし今年、新入生である伯爵令嬢ミリエル・ナティシュが、私たちの間に割り込んできた。
彼女は誰からも愛され、親しみのある笑顔を振りまきながら、殿下の心をさらった。
殿下が私と過ごす時間は短くなり、私には決して見せてはくださらない笑顔をミリエルに見せた。
私の心は怒りと憎悪に飲み込まれ、ミリエルに対して嫌がらせを行い、彼女を遠ざけようとしたが、うまくいかなかったばかりか、それに気付いた殿下に叱責された。
婚約者がある相手に付きまとうことはあまりに無礼であると訴えたが、殿下は取り合っては下さらなかった。
私の非を責め、ますます私から遠ざかった。
そこで引けば良かった。
殿下との結婚は国王陛下が決められたのだ。
たとえ殿下がミリエルを求めてもうまくいくはずもないのだから。
しかし当時の私はそんなことにまで考えが及ばなかった。
このままでは殿下に捨てられるのではないか。
私ではなく、ミリエルと結婚してしまうのではないか。
そんな妄想に囚われた末に、夏に学校で開かれたダンスパーティーでミリエルの飲み物に毒を盛った。
しかしミリエルは一命を取り留めた。
調査が入り、私の犯行だということが露見すると、私は逮捕された。
公爵家はこれまでの功績で潰されるということはなかったが、婚約は白紙になり、私は国外追放に処された。
そんな状況に遭いながらも、私は最後まで自分の正当性を訴えた。
誰も聞く耳など持ってくれるはずもないというのに。
頼るべき者もおらず、身ひとつで放り出された私は、行き倒れた。
このまま死んでいくのかと思ったところに、彼──ロイド・ハニンガムに救われた。
六十歳半ばの全国を放浪する商人だ。
彼のお陰で命を拾った私は、荷物運びとして雇われた。
抵抗したものの、与えられた食事も水もタダではない。その分、働いて返せと迫られた。 ロイドはとんでもなく人使いが荒かった。
貴族である私をまるで馬車馬のように働かせ、毎日のように使用人に手入れをさせていた真珠色の肌は荒れ、日に焼け、髪はぱさついた。
追放当時にまとっていたドレスはあっという間に擦り切れ、やたらとごわごわした庶民の服に袖を通さざるをえなくなり、毎日のように自分の境遇に涙した。
一方、彼の元で働きながら、私は世界を見た。
それまで学院と家だけが世界の全てだった私の目には、広い世界はあまりにも鮮やかに映った。
見知らぬ文化に風習、本の中でしか見たことなかった雄大な自然。
これまで接したことのなかった大勢の人々。
ロイドから商人としての心得を学んだ私は、いつしか旅を楽しむようになった。
相変わらず彼の人使いが荒いままだったけれど、人間というのはどんな境遇にもあっさりと馴れてしまうものだ。
そしてそれは私も例外ではない。
彼の元で交渉を学び、商品の目利きを習った。
それは学校で学んだどんな事柄より、私を成長させたと思う。
彼からはもう十分すぎるほど働いてくれた、あとは好きにしろと言われたが、私は自分の意思で彼の元に留まった。
彼と共に、もっと世界を歩いて回りたかった。
彼は私にとっての師で、もっと多くの事柄を学びたかった。
『ワシみたいな偏屈なじーさんと一緒にいたいとは、馬鹿な娘だ』
ロイドはそう悪態をつきながらも、『勝手にしろ』と最終的に受け入れてくれた。
国外追放に処された十七歳からおおよそ五年。
訪れた某国で、動乱に巻き込まれた。
ロイドと逃げようとしたが、遅かった。
私たちは反乱軍に包囲され、殺され、目の前が真っ暗になった次の瞬間、五年という歳月を遡っていた、という訳。
私はバルコニーに出ると、もう二度と目にすることはないと思っていた庭に目をやる。
小さく白い、五枚の花びらの花。
お母様が好きなフィロという花。
あれが咲いているということは、今はまだ春、ね。
私がミリエルに毒を盛るのが、夏の盛り。
愚かな選択肢を取ることを回避することができるわ。
ホッとした。
どうやらこの奇跡を起こしてくれた誰かさんは、少なくとも私に未来を変えるチャンスをくれたということになる。
今の私はもうミリエルと、殿下がどれほど親しくしようが、取り乱したりはしない。
殿下のことだけが人生の全てだったかつての私はもういない。
私は広い世界を見て、多くの人たちと触れあった。
私の望みは、もう一度、広い世界を見て回ること。
叶うのなら、あの偏屈なじいさん、ロイドと共に。
「お嬢様!」
「ヘンリエッタ」
部屋に入ってきたのは、ミルクティ色のショートヘアの少女。
私付きのメイドだ。
「お目覚めになられたのですね!」
ヘンリエッタは涙目になり、うずくまる。
「ちょっと大丈夫!?」
部屋に戻った私は手を貸して立ち上がらせる。
「ああ、いけません! お嬢様! メイドの体に触れるなど、手が汚れてしまいます!」
「……いいから」
そうだったわ。
当時の私は庶民を徹底的に蔑んでいたのよね。
許可無く触れることを許さず、うっかり触れようものならムチを振るった。
自分のことながら、どうしてそんなことができたのかと理解できない。
「それより、状況がよく飲み込めないのだけど」
「お嬢様は学校の階段で足を滑らせ、頭を打たれてから、ずっと意識がなかったんです」
「どれくらい?」
「二日ほどです。すぐに旦那様と奥様を呼んで参りますね!」
ヘンリエッタが部屋を飛び出すと、すぐに両親がやってきて、あれやこれやと色々と心配してくれた。
お父様、お母様……。
二人の姿を見た瞬間、熱いものがこみあげた。
私の愚かな行為のせいで、二人にどれほど迷惑をかけたことか。
「オリヴィエ、良かった。顔色も良さそうだね」
「私のオリヴィエ、目覚めて良かったわ」
「お父様、お母様、ご心配をおかけしてしまって……」
声が涙に濡れ、最後まで言葉にできなかった。
「目が覚めたからと言ってすぐに起き上がっては駄目だ。おい、すぐに先生を呼んできてくれ」
「かしこまりました」
すぐに駆けつけた医師から診察を受け、問題なしと言われた。
それでも大事を取って、一週間ほどは自宅療養することになった。
私はその時間を無駄にすることなく、屋敷の図書室で様々な書物に目を通す。
自分の国の地理や歴史に関することはもちろん、他国に関する本だ。
これまで自宅でもどこでも本を読むことはほとんどなかった。
感心があるのは美容やお化粧、社交界の流行のことばかりで、勉強は二の次、三の次。
将来の王太子妃なのだから、美しくあることが責務と、見た目を飾ることにしか興味がなかった。
回帰前の私は、本当に薄っぺらい人間だったわ。
これでは殿下が愛想を尽かせるのは当然ね。
私が殿下の立場でもうんざりするもの。
『お前、そんなんで一体これまでどうやって生きてきたんだ?』
非常識な行動をとるたび、ロイドからどれほど信じられないものを見る目で見られたか分からない。
思い出すだけで恥ずかしい。
『……ま、だが、やり直すのに遅いってことはないさ。お前はまだ生きてるんだからな』
焚き火にあたりながら、ロイドがぽつりと呟いた一言。
それが今、この胸にしっかりと刻まれている。
やり直すのに遅いということはない。
そう。私は生きている。
生きている限り、できることはあるの!
その時、ノックの音に顔を上げた。
「はい」
「お嬢様。ヘンリエッタでございます」
「入っていいわ」
「失礼いたします」
ヘンリエッタが頭を下げて部屋に入ってくる。
「どうかした?」
「王太子殿下がお見舞いにいらっしゃいました。お会いになられますか?」
「殿下が……」
婚約者が目覚めた以上、形ばかりはお見舞いをしなければにけないわよね。
殿下も大変だわ。
「応接間で待ってもらって。すぐに行くから」
「かしこまりました」
他のメイドたちが、身支度を手伝おうと部屋に入ってくる。
「一人でできるから平気。下がってていいわ」
メイドたちは戸惑ったように顔を見合わせていた。
気持ちは分かる。
これまで殿下にお会いする前は常に三十分は身だしなみを整えるのに費やしてきた。
少しでもミスをするたび、メイドを大声で叱責することも一度や二度ではない。
そのことを殿下に窘められたこともあったが、聞かなかった。
むしろメイドごときを庇うなんてと信じられないと、怒りを覚えた。
私は姿見の前で軽く身だしなみを整える。
髪の毛が邪魔ね。切ろうかしら。
長い間、肩の辺りで切りそろえた生活を送ってきたせいか、腰まで伸びた髪が少し煩わしかった。
そんなことを考えつつ、私は一階の応接室へ足を運ぶ。
扉をノックし、「失礼します」と部屋に入った。
「殿下。ごきげんよう。お見舞いに来て頂き、ありがとうございます」
カリスト殿下は美形が多いと言われる王族の中でも一際麗しい容貌の持ち主。
曇りのない銀髪に、紫色の涼しげな双眸。
鼻筋は通り、唇は薄め。
彫りの深い顔立ちはまるで名のある芸術家の作品のように一切の妥協がなく、美しく配置されている。
整っているのは顔立ちだけでなく、体も均整が取れている。
殿下の後ろに控えているのは、赤い癖毛に金色の瞳の騎士服姿の青年。
殿下や私より三歳年上の二十歳。
殿下の乳兄弟のソウル・リジット様。
侯爵家のご嫡男だ。
「……ずいぶん、速かったんだな」
無表情の殿下がぽつりと呟く。
「殿下をお待たせする訳にもいきませんので」
「……顔色が良さそうだ」
「はい。お医者様には問題ないと診断されたのですが、大事を見て休んでいるだけですので、調子は悪くないんです。週明けから学校に通えるようになります」
私は殿下と向き合うようにソファーに座ると、手ずから自分のカップに紅茶を淹れようとする。
「お嬢様、私が」
「ありがとう」
ヘンリエッタにお茶を淹れてもらう。
いけないわ。
自分で何でもすることが普通になってしまっていたから。
殿下も驚いた顔をしている。
「学校はいかがですか? 何かございましたか?」
「いつも通り。特別なことは何も」
殿下は何気なく言うけれど、それは嘘だ。
すでにこの時期、殿下はミリエルと会っている。
殿下はすでに彼女に夢中になっているはず。
こうして面と向かって分かったのだが、回帰前の熱狂的な気持ちは湧いてこない。
もちろん殿下を格好いいとは思う。
でもそれだけ。
きっと私が多くのものを知り、自分の中の世界が広がったからだろう。
これなら殿下とミリエルが親しくなっても、嫉妬を覚えることもなく、あっさりと身が引けるはず。
陛下がお決めになられた婚約とはいえ、殿下とミリエルの親しげな様をご覧になれば、陛下も無理やり私たちを結婚させるようなことはできないに違いない。
殿下とはそれから他愛のない世間話をする。
それにしても殿下は短い会話の間に、「本当に大丈夫なのか?」と確認を取るように心何度も配してくださった。
もちろん私は大丈夫と応えたけれど、どこか釈然としない顔をなされたのはどうしてのだろう。
そんなに顔色が悪いのかしら。
鏡で見た時は普段とそう変わらないと思ったのだけど。
「殿下、そろそろお帰りになられたほうがいいですわ」
私は柱時計を見ながら言った。
殿下のスケジュールは厳格に管理されている。
私のお見舞いに来るのだって忙しい合間を縫って来られているのだ。
以前の私であれば、殿下のスケジュールなどお構いなしにとにかく一緒にいようと引き留めてばかりで不興を買っていた。
思い返すたびに、これまでの自分の行動が、あまりに子ども地味すぎていて恥ずかしい。
殿下でなくともうんざりするし、心が離れるのは当然というもの。
「あ、ああ……。そうだな……」
「玄関までお送りいたします」
「いや、病み上がりだろう。それには及ばない」
「そうですか。では、また来週学校で」
「……ああ」
殿下はじぃっと私を見つめる。
「何か?」
「いや」
「?」
殿下たちは外で待機していたメイドと一緒に玄関へ向かっていった。
どこか奥歯にものの挟まったような印象があったのだけれど、どうしたのかしら。
「ヘンリエッタ。私の顔色、悪いかしら?」
「いいえ。そんなことはございません」
「そう」
「ご気分が優れませんか?」
「ううん。問題ないなら、それでいいの。私は図書室に行くから、お茶の支度をお願いできる?」
「かしこまりました」
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