第6話 ないことに気づく
何かを感じてアリシアは目を覚ました。
目を開けた瞬間に見えたのは満月で、カーテンを開けたままだったのかとアリシアは思った。
月明かりの所為で寝室が明るく、カーテンを閉めないといけないと思うのだがアリシアは月から目が離せなかった。
(今夜の月はずいぶん大きくて……何かしら、妙にドキドキするわ)
妙に落ち着かないのは自分だけなのか。
隣を見ればヒューバートは月に照らされていても起きる気配はない。
いつものアリシアならまた寝たに違いない。
ヒューバートに体をくっつけて、その温もりに包まれて眠る心地よさをアリシアは覚えてしまった。
(眠りたくない)
何故かは分からない。
でも自分でも不思議なほど、アリシアはこの夜を終わらせたくないと感じていた。
(月が、とても綺麗だからだわ)
眠らないと決めて、アリシアは体を起こす。
ベッドの軋む音にヒューバートを起こしてしまったかと一瞬怯んだが、乱れのないヒューバートの寝息にホッとして床に足を着く。
立った瞬間自分が裸足であることに気づいたが、近くにスリッパも靴もないのでアリシアは裸足のまま、何故か扉が開いたままの寝室を出て廊下に出た。
(とても静かだわ)
ヒューバートを起こさないように気を使っていることもあるが、毛足の長い絨毯がアリシアの足音を消してくれた。
リビングの扉も開いたままで、「なぜだろう」とアリシアは首を傾げかけたがリビングのソファから点々と落ちている二人分の衣服に『理由』を思い出した。
恥ずかしさで顔を熱くしながら服を全て拾い上げてソファの上に置く。
妙に喉が渇いてキッチンで水を飲み、水を入れたグラスを持ってリビングに戻る。
寝室と同じ南向きの窓からは満月が見えて、時計で時間を確認すると朝の四時だった。
窓を開けたが街も部屋の中と同じ様に静まり返っている。
世界に一人しかいない気分をアリシアは味わったが、心細さはなかった。
月をぼんやりと眺めていたら風が吹いた。
パラパラッと紙の捲れる音がして、そっちを見るとカレンダーが風に揺れていた。
今までカレンダーには自分とパーシヴァルの予定しか書かれていなかったが、最近はヒューバートの予定も書かれている。
ヒューバートは夜になるとカレンダーのその日の欄にバツをつける。
今日が何日か忘れないように、結婚式のあとに仕事に没頭するあまり日付けを忘れたことから学んだやり方らしい。
アリシアは昨夜楽しそうにバツをつけていたヒューバートを思い出す。
最新のバツの二つ隣。
そこは真っ赤なハートマークが書かれている。
(ヒューバート様って、ハートマークが描けたのね)
真っ赤なハートマークの付いた日にアリシアはヒューバートと結婚する。
(それで落ち着かないのかしら)
ここにきてマリッジブルーだろうか。
一回目ならまだしも二回目、それも花婿は同じ人で周囲との関係は一回目のときと比べものにならないくらいに良い。
式も宴も準備は万全だ。
ウエディングドレスは新品なだけではなく人気ブランド『ミセス・クロース』の力作。
式場となる大神殿は改装されたばかりで美しい。
一回目と同じならば神官も同じ人にしようと、ヒューバートが最初の式を見守ってくれた神官を探し出してくれた。
会場の彩りは一回目と違う。
『親代わり』と言ってティルズ公爵夫妻が花を手配してくれて、神殿の中におさまらなかった花で神殿の外も華やからしい。
宴の会場は前回と同じレイナード家のタウンハウス。
ボッシュとマリサが気合を入れて整え、「老体を労われ」と言ったヒューバートがその勢いのまま叱られていた。
ウォルトン伯爵家からは小麦が、コルボー子爵家からは東方の珍しい調味料が贈られ、レイナード家の料理人たちとリュシカが『真剣な話し合い』を何度もして完璧なコースを作り上げたとライラが呆れながら教えてくれた。
(ブルーになる要素はないわよね……疲れかしら)
昨日の夜まで準備に追われて忙しかった。
そのためにアリシアは今日一日は休み、そして明後日の本番に挑む計画にしていた。
最近は疲れの所為でアリシアは食が細くなり、最後のドレス調整で「アリシアが痩せてしまった」とプリムから報告されたヒューバートは今日は朝から社員寮の隣にある食堂で食べようと言ってくれた。
アリシアは料理が苦手なので、一人の朝は食堂で朝食を食べていた。
料理に関しては「そのために料理人がいる」というプリムの意見に全面的に大賛成だった。
ヒューバートがいる朝はヒューバートが作ってくれる。
これを誰かに言うと「侯爵様が!?」と驚かれるが、手先が器用な上にアリシアとパーシヴァルの世話を焼きたがるヒューバートはレイナード邸の料理人に料理を教わっているらしい。
夜も寝る前にアリシアのためにマシュマロ入りのココアをいれてくれたりする。
料理についてはパーシヴァルに「母さんは教わらないの?」と言われたが、アリシアは「向き不向きがある」と答えている。
(ヒューバート様もお疲れよね)
昨夜のヒューバートからは疲れなんて感じられないが、ヒューバートと一緒にベッドに入ったのは久しぶりだった。
ここ最近はアリシアが寝てからアパルトマンに来ていたし、アリシアが起きる前にアパルトマンを出ていって【おはよう】という短いメッセージをベッドで見つけていた。
「私、ワガママになってしまったみたい」
一人で眠りにつく夜が寂しかった。
甘く、熱く愛を交わし合う夜が恋しかった。
(はしたない……)
「あら?」
アリシアは『あること』に気づく。
いや、正確には『ないこと』だろうか。
「あらあら」
アリシアは月を見上げて、花開くように美しく微笑んだ。
***
「ん?」
腕を伸ばした先にアリシアがいないことに気づいたヒューバートは一瞬で目が覚めた。
「アリシア!?」
ヒューバートは急いでベッドから下り、アリシアを探すために走り出そうとした足が止まる。
開けっ放しの扉の向こうからパタパタと廊下を走る足音がしたからだ。
「ヒューバート様、どうなさったの?」
戸口に現れたアリシアの姿にホッとするものの、ドクドクと轟く心臓を完全に落ち着かせるために近づいてきたアリシアをぎゅっと抱きしめる。
「どうしたんだ?」
「喉が渇いて、水を飲んでいました」
それを証明するようにアリシアの唇がヒューバートの唇に触れる。
アリシアの唇は冷たく、『ほらね』とでも言うようなアリシアの目に騒いだことを申しわけなくなる。
「騒いだりしてすまない」
所在を確かめもせずに騒いだことを恥ずかしいと思いつつも、なぜか不安な気持ちが消えない。
(マリッジブルーか?)
待ち望んだ結婚式だというのに何を不安に思うことがあるのか。
そんな風に自分を鼓舞させながらも、ヒューバートはアリシアの首筋に顔を埋めて気持ちを落ち着かせずにはいられなかった。
「まだ夜も明けていない、もう少し寝よう」
「そうですわね」
そのまま抱き上げて、ベッドの上にアリシアを座らせる。
ヒューバートの目に入ったのは色のついた足の爪。
興味を惹かれてヒューバートは親指の爪を指で撫でる。
「赤いな」
「リザがやってくれたんです……あの、あまり見ないでください」
普段見られないところをジッと見られることに恥ずかしさを感じたようで、恥ずかしがるアリシアが可愛い。
帝国では緑に髪を染めていたと笑っていたリザを思い出し、アリシアのどこか婀娜っぽい装いにヒューバートは彼女に感謝の品を贈ることを決める。
そそられるまま、ヒューバートはアリシアの爪先に口付ける。
一気に空気が甘いものになり、ヒューバートが顔をあげると頬を染めて自分を見下ろしていたアリシアの視線と絡まる。
「アリシア」
「ヒューバート様」
アリシアの両脇に手をついて閉じ込め、唇を合わせる。
角度を変えて深くすれば閉じられていた唇が開き、ヒューバートはそろりと舌を忍び込ませる。
アリシアの体が震え、力が抜ける兆候にヒューバートは口元を緩めてアリシアの体を後ろに傾ける。
ここまでも、ここから先もいつもと同じだったが、アリシアが突然慌てだし、ヒューバートは襟を思い切り後ろに引かれてしまった。
「ぐえっ」
(な、なんだ!?)
「あ、やだ……大丈夫、ですか?」
「……アリシア?」
甘い空気はすっかり失せていて、痛む喉を押さえながらヒューバートはアリシアを見る。
慌てる様子から悪気はなかったのは分かるが、何でアリシアが首を絞めたのかヒューバートには分からなかった。
「ヒューバート様、あの……」
しかもアリシアはズリズリと後ろに下がってヒューバートと距離をとる。
「アリシア?」
「あの……そ、そう! やらなきゃいけないことができてしまったんです!」
(……首を絞めて制止したのはその罪悪感か? やらなきゃいけないこと、ドレスの手直しだろうか)
最近痩せたようだとプリムが言っていたことをヒューバートは思い出す。
「直ぐ、いえ、もしかしたらお昼まで掛かるかも……いえ、夕方?」
慌てるアリシアの頭をヒューバートは優しく撫でる。
(結婚式のあとはしばらく俺が独り占めをするのだから、明日くらいは……)
「ゆっくりで大丈夫だ。明日は俺も夕方からステファンたちと過ごすことになっているからな。お互いに独身最後を友と楽しむのもいいだろう」




