第2話 宵闇に蕩ける
高台にあるレイナード家の屋敷は華美ではなく、年季の入った石壁はこの家の歴史を感じさせると同時に、生活感のない一階と二階にアリシアは首を傾げる。
「生活エリアは三階以上なんだ。一階と二階は広いホールがいくつかあって、夜会などで使われることもあるが水害時に避難民を収容するため常に伽藍洞だ」
「障害物がないから靴下滑りに最適だよ」
何度かここに来ているパーシヴァルの言葉に、領都から帰ってくるたびに靴下が新品になっている理由をアリシアは理解した。
「母上は問題が起きて街の外にでているらしい。挨拶はあとにして……」
「父さん、それなら僕がロイドを案内してきてもいい?」
パーシヴァルのお願いを、ヒューバートはミロを付ける条件で了承する。
「アリシア、疲れていなければ一緒に来てほしいところがあるんだ」
ヒューバートの誘いにアリシアが首を縦に振ると、侍女が萌黄色のケープを持ってきた。
「外に?」
「最上階の見張り台だ。山からの吹く風と水路のせいで冷えるから」
「すごい……」
見張り台に立ったアリシアは目の前の風景に目を見開いた。
「建物が、屋根も壁も真っ白」
「日没が早くて暗い時間が長いから、白で反射させて少ない灯りでも十分な明るさを得られるようにしている。この土地で採れるあの白い石材は湿気にも強い」
温泉の湧くレイナードに適した建材だと、ヒューバートの説明を聞いているうちに日没が近づき山の影になった家からどんどん灯りがついていく。
「とても、幻想的です」
「この時間、ここから見えるこの景色が俺は一番好きで、君に見てほしかった」
灯りのついた家の煙突から煙が出始め、温泉の湯気と混じって空に昇っていく。
「冬は冷え込むからどの家にもペチカがある。温泉もこのペチカの熱を使って適温にしているからいつでも気持ちいいぞ。邸内にも温泉を引いた大浴場があるから好きなだけ、そういえば母上が湯上りのエステがどうとか張り切って……」
アリシアに目を向けたヒューバートが驚いた顔をして、説明していた言葉が途絶える。
「どうして……泣いて……」
「……とても、美しいから」
眼下に広がるのは生命の存在と力強さを感じさせる風景。
これがヒューバートの作ったものだと思うと、アリシアは涙が出るほどこの風景が愛おしいと思った。
「私も、この風景を一緒に守りたいです」
身分、資格、才能。この雄大な景色を前に、自分に言い聞かせていた『ヒューバートの隣に立てない理由』がとてもちっぽけなものに感じられた。
この景色を守る。
(この感じって……)
自分の胎の中にヒューバートの子どもがいる、そう言われたときに迷わず『母になる』と湧いた気持ちと同じだった。
「ヒューバー……」
今度はアリシアの言葉が止まる。
(泣いて……)
宵の始まり、目の前の彼が誰なのか分からなくなるから、『誰そ彼』と言われるこの時間。
山に沈む太陽を背にしているヒューバートの顔は暗く翳っていたけれど、街から届く淡い光が音もなく涙を流すヒューバートの顔を照らす。
「君を、愛している」
愛しい男が泣く姿はアリシアに衝動を引き起こす。
ヒューバートに向かって腕が伸び、許可もとらずにヒューバートの左頬を流れる涙に触れる。アリシアは一歩前に足を踏み出して、ヒールを浮かせて背伸びをした。
「アリシア?」と戸惑ったヒューバートの声が聞こえた気がしたが、アリシアは気に留めず濡れてルビーのように輝く紅い目を見ながら目尻に残る涙に口付ける。
視界の端でヒューバートの左腕が動いたが、不自然な形で止まった。
「愛してる、触れたい……アリシア、君に触れる許可をくれ」
掠れた声、震える腕、そして目の前の赤く燃える瞳がアリシアに許可を求めていた。
「私も、あなたを愛しています」
最後まで言えたか分からないタイミングで唇が塞がれる。
ヒューバートの両手に顔が包まれて、それに倣ってアリシアも両手でヒューバートの顔を包み込む。
「ヒューバート様は私の騎士様です」
唇が離れた合間を縫ってそう囁く。
「剣は学院で習った程度だぞ?」
ヒューバートの不思議そうな声がアリシアの耳を擽る。
(『負けない』と歯を食いしばり、煌めく瞳で前を見ていた初恋の騎士様のことはいつか話そう)
* **
(『どんな顔をすればいいか分からない』という顔だな)
ヒューバートの腕の中できょろきょろ目線を泳がせ、動揺を絵に描いたようなアリシアに愛しさが吹き上がって思わず目が細くなるが、どんな顔をしたらいいか分からないのはヒューバートも同じだった。
(まさか……泣くなんて)
顔の赤さを隠してくれる暗さに感謝しながら、山のほうから吹いてくる風で顔を冷ます。そうすると頭も冷静になって、自分の腕にかかる重みからアリシアの足から力が抜けてることを察した。
(これで急な階段を下りるのは危険だな)
「触れても?」
抱き上げようと許可をとったつもりだったが、アリシアがびくりと震えたためヒューバートは自分が言葉選びを間違えたことに気づいた。
「いや……」
「あの、もう……ヒューバート様のお好きにしてください」
今度はヒューバートが動揺する番だった。
(分かっている。アリシアにそんな意図はない、分かっているけれど……どうしようかな)
その言葉の攻撃力がいかほどか。アリシアにそんな意図はないことも。
(どうしようかな)
自分に惚れている男に抱きしめられながら『好きに』なんて言葉を不用意に言ってはいけない、そうアリシアに言い聞かせないといけない。そう思うのに、背筋をゾクゾクと情が駆け上がるのだから男とはどうしようもない生きものだとヒューバートは項垂れたくなった。
(ああ、もう。このまま俺の部屋に連れていってしまおうかな……できないけれど)
不意に『順番を守れ』と剣を構えたカトレアがヒューバートの頭に浮かんで、
(完全に頭が冷えた)
ヒューバートはアリシアをぎゅっと抱きしめた。
「アリシア、結婚しよう」
アリシアらしからぬ「ふえ?」と気の抜けた声が聞こえたけれど、ヒューバートは気に留めずにバラ色の未来を想像していた。
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