第十七話 「エディムの暗躍(後編)」
獣人の有力者たちを集めると言っても、私には獣人の伝手がない。秘密任務だから、部下の吸血部隊も大っぴらには使えない。何せ私は休暇中なのだ。
ある程度こちらの目的を知っておく必要がある。ダルフの調査で一人の男が浮かび上がった。
ガウ・ヴァスコ。
皆が皆、チビ獣人に不満を持っているが、こいつの殺意はとびきりだ。あのチビ獣人に恨みを持っていて、伝手もある。ミレスがチビ獣人へのいじめを理由に追放処分した男だった。
問題は、そのガウの居場所だ。軍を追放されてから行方をくらましている。
私は副長のダルフを呼んだ。
「ダルフ、ガウ・ヴァスコの現在の居場所を調べてくれ。至急だ」
「ガウ・ヴァスコ……先日ミレス大将に追放された獣人ですね。承知いたしました」
ダルフの表情に疑問が浮かんだが、私は詳細を説明するつもりはない。
「休暇中の私的な用事だ。詮索は無用」
「失礼いたしました」
ダルフは一礼して去っていく。ダルフは有能だ。余計な質問をせず、迅速に行動する。だからこそ副長に抜擢したのだ。
二時間後、ダルフが戻ってきた。
「エディム様、ガウ・ヴァスコの居場所が判明いたしました」
「どこだ?」
「下町の『赤き狼』亭という酒場におります。軍を追放されてから、毎晩のようにそこで酒を飲んでいるとのことです」
「詳しく聞かせろ」
「はい。情報源によりますと、昼間は日雇いの肉体労働で食いつなぎ、夜は酒場で憂さ晴らしをしているようです。金回りは相当悪く、安酒ばかり飲んでいるとか」
「他に何か?」
「酒が入ると愚痴が多くなり、特にミレス大将と、シロという獣人への恨み言を繰り返しているそうです。かなり荒れているとのことで、店の他の客も近寄りたがらないとか」
完璧だ。これ以上ない状況ではないか。
「よくやった、ダルフ。ご苦労だった」
「ありがとうございます。他に何かございましたら」
「いや、十分だ。下がってよい」
ダルフが去った後、私は『赤き狼』亭への道筋を考えた。下町の酒場なら、あまり目立たずに接触できるだろう。
日が暮れる頃、私は『赤き狼』亭に向かった。
薄暗い酒場に足を踏み入れると、片隅でガウが一人、酒瓶を抱えて座っているのが見えた。ダルフの情報通りだ。
テーブルの上には既に空になった酒瓶が三本転がっている。安酒のようだ。以前なら高級酒を飲んでいただろうに、今ではジャシン軍を追放された身、金もないのだろう。この安酒すら、借金をして手に入れたものかもしれない。
ガウは四本目の瓶の栓を乱暴に抜く。コルクが床に転がり落ちる音が、静寂な酒場に響いた。
「クソが……」
瓶口を直接口につけ、一気に半分ほど飲み干している。よほど苦痛なのだろう。
追放された時のことを思い出しているのかもしれない。
ガウの拳がわなわなと震えている。酒瓶を握る手に力が入りすぎ、ガラスが軋む音を立てた。
「人族の女風情が……」
また一口、酒を煽る。今度は口の端から酒が垂れ、顎を伝って滴り落ちた。もはや味なども分からないのだろう。ただ、酔いたいだけのようだ。
テーブルをドンと拳で叩く。空の瓶がガチャンと音を立てて転がった。
「俺が何をしたっていうんだ!」
酒場の他の客が振り返るが、ガウの殺気立った表情を見て、慌てて目を逸らす。
あのチビ獣人、シロのことを思い出しているのだろう。弱々しい体つき、おどおどした態度。あんな奴が上官で族長など、こいつには許せないのだ。
「あいつさえいなければ……」
歯ぎしりしながら呟いている。チビ獣人への憎悪が、酒と混じって腹の底で煮えたぎっているようだ。
ガウは酒瓶を傾け、残りを一気に飲み干す。空になった瓶をテーブルに叩きつけるように置いた。ガラスが欠け、小さな破片がテーブルに散らばる。
「店主! もう一本だ!」
大声で怒鳴っている。その声は酒で掠れ、獣人特有の低い唸り声が混じっていた。
店主が恐る恐る近づいてくる。中年の人間で、こういう荒くれ者の客には慣れているはずだが、今夜のガウは特に危険な雰囲気を醸し出している。
「あの、お客さん……代金の方は……」
店主が遠慮がちに言うと、ガウの目が血走った。
「うるせぇ! 後で払うって言ってるだろうが!」
テーブルを蹴り上げる。空の瓶が床に落ちて割れ、ガシャンという音が店内に響いた。
店主は慌てて新しい酒瓶を持ってくる。ガウはそれをひったくるように受け取り、またコルクを抜いた。
完璧な状態だ。これなら話に乗ってくるだろう。
「イラついているわね」
私は声をかけた。
「なんだ、てめぇ、殺されてぇか!」
振り返りざまに怒鳴るガウ。酒で回らない頭で、私を見上げる。
くっ、獣人如きが生意気な……殺してやろうか。
いやいや、耐えろ。ドリュアス様からの忖度だ。
私は懐から邪神軍大佐の証である金のバッジを取り出し、ガウの目の前にかざした。バッジには邪神軍の紋章が刻まれ、階級を示す三つの星が輝いている。
「私は邪神軍大佐のエディムだ」
威厳を込めて名乗る。声に自然と権威が滲み出るように。
ガウの目がバッジに向けられ、少し表情が変わった。警戒心が増したようだ。しかし、恐縮するというより、むしろ皮肉な笑いを浮かべる。
「ほう、大佐様ですか」
「そうだ」
「はっ、その大佐様がこんな負け犬に何のご用で? 俺はもうクビになった身ですぜ。軍の階級なんて関係ありません。次は命でもご所望ですか?」
開き直ったような態度だが、それでも言葉遣いは少し丁寧になった。完全に無視するほど愚かではないということか。クビになった身だからこその強がりと自嘲が入り混じっている。
「慌てなさんな。お前にもメリットのある話さ」
私は椅子を引いて座る。ガウの向かいに陣取り、声を落とした。
「単刀直入に言おう。チビ獣人を始末したい」
「チビ獣人って……まさか、あのミソッカスのことですか?」
ガウの目に一瞬、鋭い光が宿った。
「そうだ。そのミソッカスのシロとかいう奴だ」
「面白れぇ。どうして大佐様が直々にあんな弱虫のミソッカスを?」
ガウが身を乗り出してくる。酒の臭いが鼻につくが、こいつの関心を引いたのは確かだ。
「詳細は言えんが、上の意向だ。あいつは邪魔な存在になった」
「へっ、上から睨まれたのか。分不相応に出世するからだ。ざまあみろ!」
ガウはひとしきり笑った後、
「いいですぜ。あの生意気なミソッカスは八つ裂きにしても飽き足りない。ただね、条件があります」
「条件? 欲張りすぎると身を滅ぼすぞ」
「別に報酬を要求してるわけじゃありません。あのミレスとかいう大将様をどうにかしてください。ミソッカスに手を出すと、あの女が出てくる。悔しいが、あいつにはかなわない」
「問題なし。あいつは贔屓されているだけで、実際はたいしたことはない」
「贔屓? いやいや、あの女の腕は確かですぜ。実際に戦った俺が知っている。なんとかしてくれないんじゃ断りますぜ。命あっての物種なんで」
「臆病者め。ミレスなら私に任せておけ」
「大佐様が、あの女の相手を?」
「あの女はおべっかで出世しただけだ。私の方が強い。戦績も私が上回っている」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ」
上回っていたのは、吸血鬼化前の魔法学園中等部時代の武道の成績だが、こいつにそこまで話す義理はない。
最近の戦績は……まあ、私も忙しい身だからな。実力を十分に発揮できず、ミレスに花を持たせている感じだ。
「嘘くせぇ。そんな荷物を背負い込んだ人族の小娘が、あの化け物女を相手にできるものか」
ガウが私の後ろを指差す。
確かに、私は相当な荷物を抱えていた。
両手には大きな紙袋が三つずつ、計六袋。
肩からは布製のバッグが二つ下がり、さらに背中には大きなリュックサックを背負っている。その上、腰の両側にも小さな袋がぶら下がっていた。
紙袋の中身は多岐にわたる。最新の化粧品セットが入った袋からは、高級香水の甘い香りが漂っている。別の袋には絹のドレスが三着、それぞれ異なる色合いで美しく折りたたまれている。
肩のバッグの一つには宝石店で購入したアクセサリーが詰まっている。ダイヤモンドのネックレス、ルビーのイヤリング、エメラルドのブレスレット。どれも月給の数倍はする代物だ。
もう一つのバッグには書籍が入っている。最新の洋服雑誌から、詩集、さらには恋愛小説まで。知的好奇心と娯楽の両方を満たすラインナップだ。
背中のリュックサックが一番重い。中には高級ワインが六本、それぞれ異なる産地の名品ばかり。さらに珍しいチーズやハム、高級チョコレートなどの食材が詰め込まれている。
腰の袋には細々とした雑貨が入っている。美しい羽ペンのセット、上質な便箋、可愛らしい小物入れなど。日常を彩る品々だ。
総重量は優に三十キロを超えているだろう。普通の人間なら動くのも困難だが、吸血鬼の私には然程の負担ではない。とはいえ、見た目は確かに異様だったな。
「別に少しぐらい買い物したっていいだろ」
「少しって……その量」
ガウが呆れたような顔をする。確かに「少し」という表現は適切ではなかったが、
「うるせぇわ。こちとら二十四時間三百六十五日フルで働いて、やっと休暇が取れたんだ。任務の前に少しぐらい羽目を外してもいいだろうが!」
本当にそうなのだ。
私の一日は午前四時に始まる。まだ薄暗い参謀室で、山積みの書類と向き合う。各地からの報告書、作戦計画の立案、人事異動の検討、予算の配分。一つ一つが軍団の命運を左右する重要な案件だ。
午前六時からは部下たちへの指示出し。吸血部隊の隊長として、五十名の部下を統括している。訓練計画の策定、装備の点検、個人面談。部下一人一人の能力を把握し、最適な配置を決めなければならない。
午前八時、ドリュアス様への定時報告。前日の成果と当日の予定を簡潔に報告する。この時間が一番緊張する。ドリュアス様の鋭い質問に的確に答えられなければ、厳しい叱責が待っている。
午前九時から午後一時まで、現地視察と作戦会議。各地の前線基地を巡回し、現場の状況を把握する。地図を広げ、戦術を練り、指揮官たちと意見を交わす。昼食を取る暇などない。
しかし、この時間帯で最も頭を悩ませるのがバカティッシオの尻拭いだ。
第二師団師団長でありながら、あの男の軽率な行動は数え切れない。獣人への無差別攻撃で住民が蜂起したり、補給路を間違えて部隊が孤立したり、外交上重要な人物を勝手に処刑したり。その度に私が現地に飛んで収拾に回らなければならない。
午後一時から午後五時まで、再び書類仕事。
午前中に集まった情報を整理し、報告書を作成する。ドリュアス様への詳細報告、カミーラ様への月次報告、他部隊との連絡調整。ペンを握る手が痺れるほど書き続ける。
だが、ここでもバカティッシオ関連の業務が重くのしかかる。
あの馬鹿が起こした問題の善後策を練り、被害報告を作成し、責任の所在を曖昧にするための文書を大量に作らなければならない。「戦術的判断によるやむを得ない措置」「現地情勢の急変による緊急対応」といった美辞麗句で、虐殺や略奪を正当化する文章を書くのは本当に疲れる。
午後五時から午後八時まで、部下の訓練指導。実戦を想定した厳しい訓練を課す。吸血鬼としての特殊能力の向上、武器術の習得、戦術理解の深化。手を抜けば即座に命に関わる。
しかし、この時間もバカティッシオの無茶な要求で中断されることが多い。
「エディム、すぐに来い! 大変なことになった!」という緊急召集で、またしてもバカの失態の後始末に駆り出される。
勝手に約束した物資を調達しろ、間違った情報で作戦を立てたから修正しろ。
毎度毎度、私の貴重な時間が削られていく。
午後八時から午後十時まで、夕食と情報収集。食事をしながらも、諜報員からの報告に耳を傾ける。
敵の動向、内部の不穏分子、各地の情勢。常に最新の情報を把握していなければならない。
午後十時から深夜二時まで、秘密任務の遂行。
表向きには存在しない作戦の立案と実行。政治的な暗殺、重要人物の監視、機密情報の収集。これらは全て極秘事項だ。
ただし、この時間帯にもオルティッシオ絡みの緊急事態が発生する。
深夜に「どうしても今すぐ相談したいことがある」と呼び出され、行ってみれば「明日の作戦、どうすればいいかわからない」などという、事前に準備しておけば済む内容だったりする。そんなバカのために、深夜でも作戦の詳細を説明し、想定される問題点を洗い出し、対策を教え込まなければならない。
深夜二時から午前四時まで、翌日の準備。
吸血鬼である私に睡眠は必要ないが、この時間を使って明日の段取りを確認し、資料を整理する。
バカティッシオが新たな問題を起こす前に、可能な限り予防策を講じておかなければならない。
これを三百六十五日、一日も休まず続けている。
病気になっても、怪我をしても、私的な用事があっても関係ない。軍団の歯車として、完璧に機能し続けなければならない。
そして、その業務の三分の一以上がバカティッシオの無能さに由来する尻拭いなのだ。
唯一の楽しみは、ごくまれにある有休取得日だ。その時だけは、自分のために少しの贅沢を許す。今回の買い物も、三か月分の給料を一気に使ったのだ。
荷物を一度地面に置く。ずらりと並んだ袋の山を見て、自分でも少々やり過ぎたかもしれないと思う。だが、これだけ働いているのだから、これくらいの贅沢は許されるはずだ。
「念のため聞いておきますが、本当にあの女と戦えるんですね?」
ガウがしつこく確認してくる。よほどミレスの強さが印象に残っているようだ。
この獣人め、私を疑っているのか。
「戦える」
「本当ですか?」
「しつこいぞ。少しばかり強い女に何をびびっている」
「少し? 冗談じゃねぇ。あの女はな、俺の攻撃をを指一本で止めたんだ。それも、あのミソッカスを庇いながらだぞ」
「それくらいなんだ。獣人の雑魚相手なら自慢にもならん話だ」
「……雑魚だと?」
「あぁ、雑魚なら雑魚らしく実力者には疑いなく従え」
「そうか、そうですか、大佐様はそんなに強ぇえのか。ならばその実力試してもいいですか?」
「いいだろう、かかってこい。そうだ、私も指一本で相手してやるぞ」
そういって、酒場の広いスペースに移動して指を一本立てた。
ガウも移動するが、こちらを値踏みするように慎重な動きである。
「さっさと来い。なんだ、怖いのか? 安心しろ、命は取らん。反撃もしない。それとも牙を抜かれて腑抜けたか」
「まったく、人族の女ってやつはどいつもこいつも……」
ガウは腰につけた小袋から何かを取り出して口に含む。それは親指ほどの大きさの、乾燥した黒い木の実のようなものだった。表面には細かいひび割れがあり、かすかに苦い香りが漂っている。
ガウがそれを噛み砕くと、プチプチという小さな音がして、口の端から黒っぽい汁が滲み出た。
その瞬間、ガウの瞳孔が急激に収縮し、血管が浮き上がって見える。呼吸が荒くなり、全身の筋肉が小刻みに震え始めた。
「これは副作用があるが、とっておきのシンセイジュの薬だ。痛みを感じなくなり、力が倍増する。従来のシンセイジュの薬の比ではないぜ」
ガウの声が掠れ、興奮で震えている。薬の効果で体温が上がったのか、額に汗が浮かんでいる。
「副作用で寿命が縮む。一粒で一年は縮むと言われているが、今はそんなことどうでもいい。これ以上、人族の女如きに舐められてたまるか! 食い殺す気でいくぜぇ!」
薬物の力で理性が麻痺し、闘争本能だけが前面に出てきているようだ。ガウの体は薬の効果で一回り大きく見え、筋肉が膨張しているのがわかる。
「お、おい、待て」
「うるせぇ、吐いた唾は飲み込めねぇぞ」
くそ、何マジになってんだ。
この勢い……指一本だとせっかく今日ネイルした爪が傷つくかも……。
つい指の本数を増やそうとするが――
「おい、指一本って言ったろうが。何をこそっと二本にしようとしてやがる! びびったか!」
「はぁ? 獣人如きがなめんな。ちょっと指ぷらぷらしてただけだ。ミレスが指一本? どうせ人差し指だろ? 私は小指一本であしらってやるよ」
「上等だ!」
ガウが勢いよく突進してくる。足音が床を激しく叩く。拳には獣人特有の鋭い爪が光り襲ってくるが、
小指一本で受け止めてやった。
「いっ!」
思わず声が出た。
痛い。予想以上に痛かった。
タンスに小指をぶつけた時のような、あの嫌な痛みが走る。
くそ、たかが獣人如きが生意気な。
「はは、なんて強さだ。俺のとっておきが通じないとは」
ガウは突進を止められたことに驚いているが、私はそれどころではない。
今日有休を取ってネイルした爪が剝がれているのだ。お気に入りだったのに……。
「この野郎痛ぇじゃねぇか!」
「ぐはっ!? は、反撃しないんじゃ……」
「うるさい! 死ねぇ!」
思わず蹴ってしまった。怒りで頭に血が上る。
くそ、ネイルが剥がれた。獣人風情が私に痛みを、私の皮膚を傷つけるとは!
殺してやる。
何発かガウをタコ殴りした後で気づく。
いや冷静になれ、エディム。
ドリュアス様からの忖度を思い出す。チビ獣人を始末するための重要な任務だ。ガウは必要な駒なのだ。
深呼吸する。感情を抑える。
任務を優先しなければ。
「私の実力わかったか?」
何とか冷静を装う。
「はぁ、はぁ、ま、参りました。大佐様も確かに、あの女と同じ化物ですぜ」
「同じではない。私の方が上だ」
「そうですか、なら頼りにしてますぜ」
「よし。それでは具体的な計画を詰めよう」
「大佐様がバックについてくれるのなら安心だ。やっと、あのミソッカスに報復できる。任せてください。すぐにぶっ殺――痛っ!」
ガウの額を指で軽く弾いた。パチンという小さな音が響く。
「馬鹿か、軍団員同士の死闘はご法度だ。死にたいのか?」
「俺は軍団員じゃありません。クビになった。ジャシン法とは関係ないですぜ」
「そうだったな。それならば邪神軍の軍団員を殺めた罪で貴様を処刑しよう」
「ふ、ふざけんな。今回の件は大佐様の命令ですぜ。俺を捕まえに来たら絶対にチクりますから」
「私の命令? お前こそふざけんな! 私を巻き込んだら殺す」
「いやいや命令じゃないって、じゃあ俺はどうすればいいんですか!」
ガウが困惑している。眉間にしわを寄せ、手をわたわたと振りながら必死に弁解しようとする姿が滑稽だ。
ふっ、ドリュアス様の気持ちがわかるな。これは愉快だ。笑いを噛み殺しながら、ガウの狼狽ぶりを眺めていた。もっと続けたいところだが、時間にも限りがある。
「ところでお前、忖度。素晴らしい言葉だと思わないか」
突然の話題転換に、ガウは目をぱちくりとさせた。
「忖度? なんですか、それは?」
「ふっ、そうだった。無知な獣人に高尚な言葉は理解できなかったな」
鼻で笑いながら、酒杯を口に運ぶ。
「へっ、無学な俺でも、今、馬鹿にされているのはわかりますぜ」
ガウが不機嫌そうに唇を尖らせる。先ほどまでの困惑が怒りに変わったようだ。
「くっく、そう怒るな。説明してやる」
酒杯をテーブルに置くと、身を乗り出した。
「まずお前は適当な理由をつけて、近隣の獣人たちをチビ獣人の里に大勢集めろ」
「それで?」
ガウの表情が真剣になる。耳がぴんと立ち、私の言葉を聞き逃すまいと集中していた。
「そこにチビ獣人を連れて行く。後は……まあ、偶発的な事故が起きるかもしれん。なにせチビ獣人はずいぶん他の獣人どもに嫌われているからな」
意味深に微笑む。
「なるほど、つまり獣人同士の内輪揉めで死んだことにするってわけですか。で、俺たちは何も知らない、と」
「その通りだ。邪神軍の関与は一切ない。ただの不幸な事故だ。分不相応に出世した奴への嫉妬から、他の獣人たちが暴走しただけのことだ」
「作戦はわかりました。でも、その役目をなんで俺に任せるんですか? 他の獣人でもできますぜ」
ガウが疑い深い目で私を見る。
「お前があいつを一番憎んでいるからだ。それに、各里への人脈もある。一石二鳥だろう」
「ミソッカスを憎んでいるのは他の獣人でも一緒です。まぁ、俺が一番憎んでますが……それに外部の獣人を集めるまでもありませんぜ。ミソッカスぐらい里の獣人たちだけで殺せます」
「里の獣人だけではうち漏らすかもしれんだろう。外部の獣人も必要だ」
「あの弱虫のミソッカス相手にそこまでする必要はないと思いますがねぇ……まぁ、いいです。俺は腕だけでなく、立ち回りも得意なんですよ。俺の人脈をお見せします。任せてください」
「まったく腕はないだろうが……とにかく祭でも慰霊でも、名目は何でも構わん。そのプライドだけは高い獣人どもを軒並み集めておけ」
「大佐様はいちいち腹が立つ言い方しかできないんですか。そりゃ伝手はありますが、言葉だけでは奴ら動きませんぜ。ジャシン軍の命令といえども、わかりますよね?」
「使え」
腰に下げていた特別な革袋から、三つの小さな袋を取り出した。
それぞれ手のひらサイズの袋で、上質な黒い革で作られている。袋の口は金の紐で固く結ばれ、触れるとずっしりとした重みが伝わってくる。袋の表面には邪神軍の紋章が小さく刻印されており、これが軍の公式な支給品であることを示している。
一つ目の袋をガウの前のテーブルに置くと、中の硬貨がチャリンと金属音を立てた。続けて二つ目、三つ目と並べていく。
それぞれの袋から漏れる微かな光沢が、薄暗い酒場の中でも白金貨特有の輝きであることを物語っている。
袋の中身は、邪神軍の最高級通貨である白金貨だ。一枚で平民の一年分の生活費に相当する。一つの袋には約二十枚、三つで合計六十枚。つまり、平民なら六十年は働かなくても暮らせる金額だ。
これだけの金を一度に見ることなど、獣人には一生ないだろう。
「うほぉ! これは……白金貨じゃないですか! こんな大金、見たことねぇ!」
ガウの目が皿のようになる。酒で霞んでいた目が一瞬で覚め、貪欲な光を宿した。
「足りないか?」
「こ、これだけあれば十分ですぜ。外国へ遠征中の部隊でさえ慌てて帰ってきますよ。二つでも十分だが……いや、ありがたく三つとも頂戴いたします」
ガウは慌てて言い直したが、私は聞き逃さなかった。二つで十分だと?
唇の端がゆっくりと上がる。
私は無遠慮に手を出した。ガウの目の前で、三つの袋の中から一つを掴む。
「二つで足りるなら、一つ返せ」
「はあ? 全部くれるんじゃないんですか?」
「いいから、よこせ。予算は有限なんだぞ。恨みを晴らせればいいんだろう? 欲張るな」
「や、やろう」
「文句あるのか。別にお前でなくてもいいんだ。チビ獣人に不満を持っている獣人はいくらでもいる」
「い、いえ、文句はありません」
ガウの声は小さくなり、肩を落とす。私の脅しが効いているようだ。
ガウから一つ袋を取り上げる。ずっしりとした重みを確かめるように手の中で転がした。
「せこい、こいつ器ちっちぇぇ。死んじまえ」
ガウがぽそりと悪態をついた。声は小さかったが、私の耳は逃さなかった。
立ち上がると、ガウの首筋を軽く指で締めた。獣人の太い首も、私の指圧には抗えない。
「ぐっ……」
ガウが苦しそうに呻く。
「次からは心の声も気をつけることだな」
冷たく言い放つと、手を離した。ガウは咳き込みながら首をさすっている。
満足そうに微笑むと、荷物を置きに自分の部屋へと戻った。




