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第六十話 「ミレスと嫉妬の包囲網(前編)」

 この前は、酷い目にあった。


 寿命が縮まるかと思った。


 あの日——。


 ドア越しに必死の抵抗を試みた。魔力で強化した扉、結界、果ては転移魔法まで駆使して逃げ回った。


 けれど健闘むなしく、ティムちゃんに捕まった。


 観念してしばらく実験に付き合ってあげたけど——。


 常人なら千回は死んでる。


 思い出すだけで背筋に冷たいものが走る。あの実験室の無機質な光、ティムちゃんの爛々と輝く瞳、次々と繰り出される容赦のない検査項目。


 精神的にタフになってなかったら廃人だよ。


 軍隊の人体実験が可愛く思えるくらいに苛烈なメニューだった。


 こんな無茶を平気でやれる。


 ティムちゃんって、本当に唯我独尊でマイウェイな人だ。私でなければ、絶対にティムちゃんと友人付き合いできないと思う。


 とまぁ、色々ティムちゃんに言いたいことがあるけど、メリットもあった。


 ティムちゃんと前より仲良くなれたことだ。


 実験を通して、ずいぶん私を気に入ってくれたからね。


 それに本当は、わかっている。


 実験は超ハードだったけど、内容はすべて有意義なものだった。常軌を逸した項目にもちゃんと理由がある。おかげで自分の特性をだいぶ理解できた。


 それにしても、ティムちゃんってまじで天才。


 この身体になって改めて実感する。


 ティムちゃんの見識の高さだ。


 東方王国のレベルが高いのか、ティムちゃん自身が凄いのか。その両方かもしれない。目を見張るものがある。


 あの実験をアルクダス王国で実践しようとしても絶対にできない。


 施設も識者も次元違いもいいところだ。王国の筆頭魔導師ですらほとんど理解できないと思う。それだけ上の次元の話だった。


 しかもあの強さだ。


 逃げる私を拘束したあの手際の良さ。間違いなく私と同じ領域にいる。


 私と同じ高位人間(ハイヒューマン)だ。


 高位人間(ハイヒューマン)——。


 伝説のスーパー人類である。


 文献や伝承に出てくる英雄がそれにあたる。眉唾な伝説と思っていた。現実、高位人間(ハイヒューマン)の存在が確認されたことはない。


 でも、この身体の異常さ、魔力量の多さ、どう考えてもこれは人間が進化した姿だ。


 実際、今の私の感覚は以前とまるで違う。


 例えば、視界。


 遠くの木の葉の葉脈まで見える。空を飛ぶ鳥の羽毛の一本一本が数えられる。夜でも昼間のように視界が開け、霧の向こうすら透視できる。


 聴覚も同様だ。


 百メートル先で囁かれる会話が、まるで隣で話しているように聞こえる。虫の羽音、草を踏む足音、心臓の鼓動——世界はこんなにも音で満ちていたのかと驚かされる。


 時間の流れ方すら変わった。


 普通の人が一秒と感じる間に、私は百の思考ができる。戦闘中ならもっとだ。相手の動きがゆっくりに見える。まるで水の中を泳ぐように。


 歴史上の英雄ヘラクレスやアキレスが高位人間(ハイヒューマン)だったとされる。


 私がそれと同じ存在になったのだ。


 ふっふっふっ。


 なんか気持ちが変に高揚する。


 脇役と思ってた自分が、そんな主役も主役の位置に上がれるなんて夢みたいだ。


 いけない。


 増長するのは危険だ。


 前例がないということは、何があるかわからないのだ。


 同じ高位人間(ハイヒューマン)同士、ティムちゃんとも協力して色々調査していこう。


 実験はもう勘弁だけどね。


 ティムちゃんと出会って数ヶ月——。


 まさかこんな関係になるとは夢にも思わなかった。


 色々、悩みもある。


 でも、当初の目的であったティムちゃんと対等の友達になること、だいぶ前進したかもしれない。


 そして、仲良くなったといえばもう一つ。


「ミレスちゃ~ぁああん!」


 陽光を浴びて輝く金髪が、風に舞いながら近づいてくる。今日もティレアさんが元気よく走ってきた。


 相変わらず美人だ。見ているだけで心が温かくなる。太陽のような人。


「ティレアさん、こんにちは」


 軽く手を上げて挨拶をした。


「こんにちは、元気だった? この前はありがとうね。チュチュ、ブチュ!」


 そう、もう一つの変化がこれだ。


 私と会うたびに、ティレアさんが抱擁してくるようになったのだ。


 柔らかな体温が伝わってくる。花のような甘い香りが鼻をくすぐる。


 それもホッペにキスまでされる。


 しかも熱烈に——。


「あ、あの、本当にもう十分ですよ。そんなにお礼を言わなくても」

「何を言ってるの! ミレスちゃんがゲンさん達を守ってくれたのよ。私の大切な隣人を守ってくれた。それに、裏手側が敵に突破されてたら私もティムも皆が死んでた。西通りを救ってくれた命の恩人にお礼を言うのは当然よ。まだまだ言い足りないぐらいなんだから」

「いえ、本当にこれ以上は……彼らにも十分にお礼されましたから」


 西通りの住人達には、過剰な接待を受けている。


 通りを歩くたびに果物、焼き菓子、手編みの手袋等何かを貰い——断っても断っても押し付けられる。しまいには「我らが救世主!」と呼ばれ、拝んでくる人が後を絶たないのだ。


 たかが魔法弾を一発放っただけだ。何も苦労はしていないのに。


「それだけじゃないよ。私も記憶が飛んでて、あやふやなんだけどね。ミレスちゃん、私を必死に守ってくれたでしょ? 自分の何よりも犠牲にして」

「それは……」


 確かに自覚はある。


 記憶を失っても、おぼろげに覚えている。


 あの日、ティレアさんを守ろうと必死に頑張った。命懸けで、持てるすべての力を使って、巨悪に立ち向かった。


 あれ? 巨悪?


 エリザベス?

 それともバッチョ?


 いや、そんな小物じゃない。


 何かもっと巨大で醜悪なもの——。


 記憶の底に沈んだ何かが、浮かび上がろうとして消えていく。


 ——覚えていない。わからない。


 ただ、何がなんでも守る。その気持ちでいっぱいだった。それは今も続いている。胸の奥で静かに、しかし確かに燃え続けている。


 恥ずかしいからティレアさんには言わないけどね。


「べ、別に……私は魔法学生です。市民を守るのは義務なんですよ。だからそんなに恩に思わなくてもいいんです」

「ううん、何度だって言う。ミレスちゃんは、私のために命を懸けてくれた。すごくすごく頑張ってくれた。本当にありがとう」


 ティレアさんがぎゅっと抱きしめてくれる。


 温もりが全身を包む。心臓の鼓動が伝わってくる。


 ティレアさん——。


 そんなお礼を言うのはこっちです。


 こんなにも暖かくて優しい。


 そんなティレアさんを守れたことを誇りに思います。


 ティレアさんが笑顔でいてくれる。


 それがとても嬉しくて飛び上がるぐらいに——。


「いい気になりやがって」

「っ!?」


 ものすごく陰気で地を這うような憎しみの声が聞こえてきた。


 驚いて足を止める。


 まるで、憎悪と羨望と嫉妬を全部丸ごとひっくるめた負の感情だ。どろりとした粘性を持って、こちらに絡みついてくる。


 チラリと横目でその声の発生源を探す。


 いた。


 木の陰から恨めしそうにこちらを睨んでいる。両目が異様な光を放っている。


 オルティッシオさんだ。


 東方王国のお姫様から格別のご寵愛を受けているのだ。


 そうなれば、嫉妬にあうのは必然である。東方王国に仕える軍人達の視線が、自然と厳しいものに変わった。


 刺すような視線——。


 嫉妬、驚愕、少しばかりの賞賛に殺気も多く含まれていた。背中に突き刺さる無数の視線。まるで針の筵だ。


 その中でも、特に顕著に殺気を放っていた人物がいる。


 ティレアさんに特別に可愛がられている軍人。部隊長も務める戦闘のプロフェッショナル、オルティッシオ・ボ・バッハその人だ。


 この数日で何度襲われたか——。


 すべて返り討ちにしたけど、諦めてくれない。


 あまりにしつこいので、暴力も辞さず「やめてくれないと腕を折る」と脅しても「腕が折れようとも、心までは折る事はできん」と反論してきた。


 七回捕縛して、七回解き放った。脅しても説得しても無駄だった。


「オルティッシオ死すとも、邪神軍は死せず」——そう叫びながら何度でも向かってくるのだ。


 邪神軍って何? と思ったけど、どうやら東方王国軍のカモフラージュ名らしい。


 結局、ティレアさんに相談して、誓詞を書かせることで事態を収拾した。


 主君の名をかけた誓いは、さすがに破れないらしい。


 その後は襲い掛かってくることはなくなった。


 その代わりこうやって四六時中、怨嗟の目で睨んでくるのだ。


「はぁ~」

「ミレスちゃん、溜息なんかついてどうしたの?」

「……いえ、別に。それよりティレアさん、そろそろ仕込みの時間じゃないですか?」

「そうだった。時間が過ぎちゃってたよ。それじゃあね、ミレスちゃん。また今度お店に遊びにきてよ。新作料理をご馳走してあげる。特別よ」


 ティレアさんがウインクをしてお店に戻っていく。


「愛してる、ミレスちゃん!」と捨てゼリフを吐きながら。


 瞬間、また空気が変わった。


 怒りのオーラが濃厚に深まっていく。温度が数度下がったような錯覚を覚える。


 オルティッシオさんの怒りの表情が想像できる。


 ぐぬぬという言葉が聞こえてきそうだ。


「ぐぬぬぅぅう!」


 実際、聞こえてきた。


 あぁもうどうしようか?

 またティレアさんに相談する?


 こういうのって確か【すとーかー】っていうんだよね?


 ティレアさんとの雑談で仕入れた知識だ。


 うん、これ以上つきまとわれたらティレアさんに接近禁止令を出してもらおう。


 そう決意して歩いていると、


「おぉ、ミレスではないか!」


 聞き慣れた声が背後から響いた。


 銀髪の美少女ティムちゃんが現れた。


「データ取りは勘弁してください」


 すぐさま頭を下げた。


 コメツキバッタばりに頭を下げる。反射的に身体が動いていた。


 仲良くなれるのは嬉しい。だけど、しょっちゅうあんなことをされたらたまらない。


 寿命が縮む。


 いや、気を抜いたら命そのものが消えるのだ。


「安心しろ。今はデータの精査中だ。しばらくはない」

「そっか、よかった」


 全身から力が抜ける。ほっと一安心する。


 ティムちゃんの気が変わらないうちに退散しよう。


 その場で踵を返す。


「む、ミレス」

「な、何?」


 背中に冷や汗が滲む。


「貴様また能力が上がってないか? 実験を通して学習したのか? いや、それだけではないな。自分の特性を理解したことで飛躍的に細胞が活性化しておる」


 ティムちゃんがまた研究者のような目つきで私を観察してきた。


 獲物を見つけた猛禽類のような鋭い眼光。こうなった時のティムちゃんは、蛇よりもオルティッシオさんよりもしつこい。


 疑問を解消するまで、とことん追及する。


「それじゃあ、カミーラ様。私は用事があるから帰るね」


 手を振り帰ろうとするが、


「待て、ミレス」


 ティムちゃんに肩を掴まれた。


 がっちりと掴まれている。振り払おうとしたら、私も本気を出さないといけない。そうなったら最後、また魔法戦争の始まりだ。


「あ、あの、本当に急いでいるから」

「だめだ。前言撤回だ。前のデータは役に立たん。最新のデータを取得せねばな」


 ニヤリと笑ったティムちゃんの——なんて邪悪な顔なんだろう。


 口角が吊り上がり、目が三日月のように細められている。悪魔でもこんな笑顔はしない。


 やばい。


 このままではまた地獄の実験に付き合う羽目になっちゃうよ。


「あ! そういえば、ティレア様がお店の仕込みに行くって仰ってたよ。手伝いをしなくていいの?」

「料理はお姉様の楽しみの一つだ。我が行って邪魔するわけにはいかん」

「そうかな~この前、ティレア様、カミーラ様がお手伝いをしてくれたって喜んでたよ。邪魔なんて絶対に思ってない。それに、ティレア様、仕込みの時間に遅れて困ってたみたいよ」

「むむ、そうか。お姉様がお困りに。それは我の研究よりも手伝いが優先だな」

「うんうん、その通りだよ」

「では実験は明日にしよう」

「はぁ?」

「何を呆けておる。二度は言わんぞ。明日、我のもとに来い」


 ——とりあえず明日一日は、気配を完全に消して隠れておこう。


「ちなみに気配を消しても無駄だぞ」

「え!?」

「貴様がどこに隠れようが、見つける。縄で縛ってでも連れてくるからな」


 私の隠行はティムちゃんが太鼓判を押したほどだ。


 それなのにティムちゃんのこの不敵な自信。揺るぎない確信に満ちた声。


 はっ!? まさか!


「調査魔法、ググル!」


 トレース魔法を自身にかけて体内をスキャンする。


 意識を内側に向け、魔力の流れを可視化する。青白い光の筋が全身を巡っている。


 魔力循環に問題ないか?


 頭の天辺から足の爪先まで念入りに調べる。


 すると——。


 見つけた。


 極々微細な魔力のほころびだ。


 心臓の裏側、魔力の流れが最も激しい場所に、針の先ほどの異物が潜んでいる。周囲の魔力に紛れて、ほとんど存在感を消している。


 これは、魔力を感知する発信機に違いない。


 やっぱりティムちゃんは天才だ。


 いつの間にこんな超精密な魔力結晶を埋め込んだのだろう。今の私に気づかせずに、こんなことができるなんて。


 高い魔法技術と超一流のセンスが必要だ。


 とにかく気づいてよかった。


 解析は完了済——いや、待って。


 発信機の周囲に、幾重にも張り巡らされた魔力の糸が見える。蜘蛛の巣のように複雑に絡み合い、触れた瞬間に反応するよう設計されている。


 これは——罠だ。


 下手に触れれば、逆に位置情報を強制発信される仕組みになっている。


 さすがティムちゃん。私が見つけることまで想定済みってわけね。


 でも、甘いよ。


 私は糸の一本一本を丁寧に解きほぐしていく。


 焦ってはいけない。一つでも間違えれば、発信機が暴走する。


 集中——集中——。


 額に汗が滲む。指先に全神経を集中させる。


 最後の糸を解いた瞬間、発信機の核が露出した。


 ググル魔法弐式発動!


 プロテクト解除開始——第一層、突破。第二層、突破。第三層……ここが本命か。


 ティムちゃんの魔力パターンが複雑に絡み合っている。幾何学的な紋様が回転し、侵入者を拒絶しようとする。


 だけど、実験を通じて何度もティムちゃんの魔力に触れてきた。


 この癖、この流れ、全部覚えている。

 身体が覚えている。


 ——解除完了。


「なっ!? 貴様、あれを外したのか?」


 ティムちゃんが目を見開いて驚愕している。


 最近、よくティムちゃんのこんな表情を見てしまう。


 あれだけ学園でポーカーフェイスしていたティムちゃんなのに。


 それだけ今の私の能力が凄いのだろう。


「いや、解除するよ。四六時中監視されるなんて勘弁してください」

「くっくっ、ミレス、簡単に言ってくれるな。我は半永久的に機能するように埋め込んだ。解除なんて絶対にできないようにな」

「……カミーラ様、もう今更だけど、言うね。まじでそれ犯罪だから」

「ふっふっ、犯罪? だからどうした? それより、よくぞ見つけた、よくぞ解除した! 本来、痕跡すら見つけられぬのだぞ。貴様はどこまで我の心を高ぶらせたら気が済む。少し頭の中を見せてみろ」

「ち、ちょ……やめてったら」

「ミレス、まだ我を焦らすか。この造物主孝行者め!」

「またそんなわけのわからないことを! 私は帰——」


 言い終わる前に、ティムちゃんが動いた。


 指を振るった瞬間、私の足元から氷柱が突き上がる。


 大地を割って現れた氷の槍。先端は鋭く研ぎ澄まされ、触れれば肉など容易く貫くだろう。

 咄嗟に跳躍して回避。だけど、それすら読まれていた。


 空中で待ち構えていた雷撃の檻。紫電が格子状に組まれ、逃げ場を完全に塞いでいる。


 逃げ場がない。いや、未来視を利用して活路を見出す。


 最善ルートを検索して雷撃をすり抜けた。雷撃が背後の木を焦がす。焼ける木の臭いが鼻を突いた。


「ほう、あれを避けるか」

「カミーラ様の実験のおかげだよ。自分の特性を理解したら、自然とできるようになった」

「くっくっ、我が育てた甲斐があったというものだ」


 着地と同時に反撃の魔法弾を放つ。


 蒼い光球が空気を裂いて飛翔する。


 ティムちゃんは片手で弾き返した。まるで羽虫を払うかのような動作で。


 その弾かれた魔力弾が軌道を変えて私に襲いかかる。


 ——っ! これは私の魔力だ。乗っ取られた!?


 自分の魔力を相殺するのに一瞬手間取る。魔力の波長を強制的に変調させ、消滅させる。


 その隙にティムちゃんが距離を詰めてきた。


 風を切る音すらない。気づいた時には目の前に。


 拳と拳がぶつかる。


 衝撃波が周囲に広がり、地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。空気が爆発的に膨張し、髪が激しく舞う。


「ミレス、貴様、本当に面白い。我と同等の領域で戦える者など、この世界に何人いることか」

「……っ、私だって、まさかカミーラ様とこんな風にやり合えるなんて思わなかったよ」


 互いに距離を取る。


 たった数分。されど、その密度は常人の一生分に匹敵するかもしれない。


 高位人間(ハイヒューマン)同士の戦いって、ここまで高次元なんだね。


 周囲を見渡すと、木々が何本か倒れ、地面はところどころ抉れていた。焦げ跡、凍結痕、魔力が残した虹色の残光——惨状としか言いようがない。


 これ、弁償とかしなくていいのかな……。


「くっくっ、今日はこのぐらいにしておこう。お姉様が待っておるからな」


 ティムちゃんは満足げな笑みを浮かべて、ティレアさんのお店へと歩いていった。


 つ、疲れた。


 命のやりとりをしたぐらいぐったりしたよ。


 でも、その甲斐もあって、ティムちゃんからもずいぶん気に入られた。大好きな二人とより親密になれた。


 それは何よりよかっ——。


「いい気になってんじゃないわよ」


 ものすごく陰気で呪詛を重ねたような声が聞こえた。


 背筋に虫が這うような悪寒。


 そう、これがなければね。


 チラリと右横の木の陰を見る。


 呪殺しそうな目でこちらを睨んでくるエディムの姿があった。赤い瞳が暗闇の中で妖しく光っている。


 エディムもね、オルティッシオさんと同様、あれからしつこく絡んでくるのだ。


 吸血鬼の執念は人間以上だった。夜中だろうが明け方だろうが、隙あらば襲ってくる。


「吸血鬼に睡眠は不要だ。今後お前に安息の日はない」


 ——そう宣言されたときは、さすがに頭を抱えた。せめて夜寝ている時ぐらいは勘弁して欲しい。


 それとなく注意したら、私がまいっていると勘違いしたようでますます過激になるし。


 いや、違うって!


 寝ぼけてうっかり殺しちゃいそうだから注意したのだ。


 それなのに一向に聞いてくれやしない。


 私も睡眠不要とまではいかないけど、一年ぐらいは軽く起きていられるのだ。


 エディム、あなたのために言っているんだよ。


 結局、オルティッシオさん同様、ティレアさんの名のもとに誓詞を書かせて収拾した。


 それからは襲ってこなくなったけど、代わりに四六時中つきまとってくる。


 完全な【すとーかー】だ。


 しかたがない。


 くるりと身体の向きを変え、二人が隠れる木の傍まで移動した。


 私を見て、二人はしらじらしく口笛を吹く。目を逸らし、何でもない振りをしている。


「いや、無理があるよね」

「あら、奇遇ね。ビィンセント家のミレスさんじゃありませんか!」


 エディムがしらじらしく挨拶をしてきた。


 口元は笑っているが、目がまったく笑っていない。


「……エディム、オルティッシオさん、いい加減にしてくれない?」

「何が?」

「何がだ?」


 ストーカー行為をとぼける気らしい。


「二人とも少し話をしたいんだけど、いいかな?」

「カミーラ様、ティレア様、お二方のご寵愛を一身に集める。今をときめくミレス様から一体どんなお話を聞かされるのやら」


 すごい嫌味だ。


 言葉の一つ一つに棘がある。


 エディム、よっぽど腹に据えかねているのね。


「エディム、聞いて。私はティレア様、カミーラ様に取り入っているつもりはない。本当よ」

「取りいっているつもりはない? はっ! アンタ本気で言ってんの!」

「うん。まぁ、仲良くなりたいとは思っているけどね」

「ほら、来たよ、これ。アンタは昔からそういういい性格してたよ。仲良くなりたい? それを取りいっているって言ってんのよ!」

「まったくだ。どこまで敬愛する主君を誑し込んだら気が済むのだ。お前は!」


 オルティッシオさんとエディムが怒声を放つ。


 二人の罵声は止まらない。まるで堰を切ったように溢れ出す。


 これはもう否定しても無駄だろう。


 しょうがない。


 こちらがある程度譲歩して話をする。


「わかった、認める。あなた達の言う通りだね。反省します。ただ、私はティレア様やカミーラ様だけじゃないよ。エディムはもちろん、オルティッシオさんとも仲良くしたいのよ」


 笑顔を二人に見せる。


 敵意はこれっぽっちもないことをアピールした。


「エディムよ、こやつは何を言っているのだ? なぜここで我々の話になるのだ」

「オルティッシオ様、これが八方美人ってやつですよ。ミレスさんは、昔からこんな感じで要領がよかったんです。何か問題が起きても、いつのまにか教師やクラスメートを味方にしてました。おとなしい顔をして、これがなかなかやり手なんですよ。今考えると、人に取りいる天才、騙しの大妖怪でしたね」

「うむ、女狐という奴だな」

「はい、ほかにも学園の先輩を誑かしたり、男性教諭から贔屓にされたり、男を手玉に取るのもずいぶん上手かったです。今、考えると駆け引き上手で小悪魔的な才能にも溢れてましたね」

「うむ、毒婦という奴だな」


 この二人、仲いいじゃない。


 犬猿の仲だって聞いてたけど、私の悪口で意気投合している。


「エディムよ、こんな傾国の女狐で毒婦な女を見つけた場合、臣下としてどうすればいい?」

「それは、駆除の一択しかありませんよ。駆除駆除駆除駆除駆除駆除駆除。それしかありませんね」


 さっきから聞いていれば、言いたい放題だ。


 親友だから我慢しているのに。


 いい加減、私が駆除しちゃうよ。


 すっと拳を握る自分がいる。


 いけない。短気は損気だ。根気よく話をするのだ。


「オルティッシオさん、エディムも聞いて。私に不満があるならなんでも言って。直すから」

「不満だなんて、そんな……またアンタにチクられたらたまらない」

「あぁ、我らは女狐で毒婦な女に讒言(ざんげん)されて、被害を被っている」


 讒言(ざんげん)って——。


 あなた達が襲撃を繰り返したのは事実でしょうが!


 もう私、怒っていいかな?


 いや、この二人の気持ちもわかるんだよ。


 ティレアさんやティムちゃんに贔屓にされているのは自覚している。


 この二人は、ティレアさんやティムちゃんがすごく大好きだものね。


 嫉妬に走るのも無理はない。


 大人だ。大人になるのよ、ミレス。


「わかった。二人ともどうしたい? なんでも……はできないけど、できることならやってあげるから」


 顔を見合わせる二人。


 何かを企むように視線を交わし——。


 そして、ニヤリと笑った。


 嫌な予感がする。


「では、軽く手合わせをせんか?」

「決闘はティレア様に禁止されてますよね?」

「決闘ではない。手合わせだ。軽く、そう軽い運動みたいなものだ」


 オルティッシオさんはあくまで手合わせであり決闘ではないと主張する。


 なんか企んでいるようだ。


 まぁ、それで二人の気が済むのならいいか。


「わかりました。いいですよ」


 それから三人で階段を降りる。


 冷たい石段を踏みしめながら、地下へと向かう。


 地下にある闘技場に移動するためだ。

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