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第五十七話 「ミレスと魔王 消えた記憶」

「殲滅しろ!」


 魔王ゾルグの号令が轟いた瞬間、カミーラをはじめとする主だった魔人達が戦場へと躍り出ていく。


 久々にシオダから身体の主導権を奪った。


 シオダの意識を強引に押し込め、記憶を書き換える。これで三度目の強制覚醒だ。


 最初は、魔邪三人衆との戦闘後。ルクに(ティレア)を壊されかけた時のこと。器が砕ければ、余の魂も道連れに消滅する。


 やむをえなかった。


 二度目は、デカラピアとかいう組織に(ティレア)の内情を探られそうになった時。あの頃の余にはヒヨウを埋め込む余力がなかった。魂が安定せず、カミーラ達の制御で手一杯だったからな。


 これもやむをえなかった。


 そして今回――またしても緊急事態が発生した。


 ルクに、死が迫っている。


 何者かの手によって、ルクの生命力が刻一刻と削られていく。ルクは余の復活に不可欠な材料だ。失うわけにはいかぬ。


 ルクを殺せる者――いったい何者だ?


 魔力の波動は確認した。少なくとも魔族ではない。


 油断した。


 六魔将のルクを倒せる者が、魔人以外に存在するとは。

 いっそ魔族が相手であれば問題なかった。殺されても、空を彷徨う魂を後で回収すればよい。


 だが、相手は魔族以外の者だ。


 魔族以外に殺されれば、ルクの魂は天に召される。余の手の届かぬ場所へ。


 余の復活には、六魔将の魂が必要不可欠だ。余が回収するまで、死んでもらっては困る。


 できれば、このような強引な目覚めは避けたかった。魂への負荷が大きすぎる。ただでさえ天使共に魂を粉々にされ、狂うほどの痛みに苛まれているというのに。


 全身をバラバラに引き裂いて繋ぎ直しても、まだ足りぬほどの激痛。


 身体の主導権をシオダに任せ、魂の回復に専念したい。しかし、そうも言ってられぬ。


 急がねば!


 飛行魔法(フライ)


 (やぐら)の上から跳躍し、夜空へと舞い上がる。


「ティレア様、いずこに?」


 戦闘の最中、一人の魔人が余に気づき、怪訝な表情を向けてきた。


「ん、野暮用だ。お前には関係ない。いけ。一匹残らず殺せ!」

「御意」


 魔人は余を疑うことなく、戦闘へと戻っていく。


 これでよい。


 カミーラの部隊は全員、人間共の殺戮に夢中だ。


 この隙にルクのもとへ急ぐ。




 そして――西通り裏手広場に到着した。


 広場は戦場と化していた。


 石畳は砕け、建物の壁には無数の亀裂が走っている。そこかしこに転がる死体、散乱する瓦礫。


 その中心で、六魔将ルクが地に伏していた。


 大量の血を吐き、身体はズタボロに引き裂かれている。時折ピクピクと痙攣するその姿は、もはや戦闘続行が不可能であることを物語っていた。


 そして、その傍らに立つ一人の少女。


 右手を大きく振り上げ、とどめを刺そうとしている。


 六魔将を――余の配下の中でも最強格の一角を、あれほど一方的に追い詰めたというのか?


 素直に驚いた。


 相手が魔人以外であることは察知していたが、まさか人間とはな。


 これだから人間は侮れん。


 人間の完成形は、高位人間(ハイヒューマン)である。それが定説だ。だが、あれは高位人間(ハイヒューマン)を軽く凌駕していた。


 面白い。


 余の記憶によれば、あの少女はミレスといったな。


 一介の学生が、いかなる経緯でここまでの進化を遂げたのか?


 ミレスの一挙一動から目が離せない。


 呼吸の間隔、重心の移動、筋肉の収縮――すべてが計算し尽くされている。


 一切の無駄がない。


 振り上げた拳には、ルクを確実に仕留めるだけの威力が込められている。それでいて、力みがない。まるで水が流れるように自然な動作だ。


 数多の芸術品を収集してきた余だからこそ、わかる。


 あれは完璧(パーフェクト)だ。


 魔都ベンズの宝物庫には、世界中から集めた至宝が眠っていた。


 神の手で鍛えられた剣。

 精霊の涙で描かれた絵画。

 竜の骨で編まれた王冠。


 そのどれもが、一国の財宝に匹敵する逸品だった。


 あれはそれ以上であり、生きている芸術だ。


 人類が積み上げてきた戦いの歴史、その全てを一つの身体に凝縮したかのような究極の完成形。


 千年に一人、いや、万年に一人現れるかどうかの最高品質の素材。


 余の収集欲が激しく疼く。


 すぐにでも手に取り、愛でたい衝動に襲われた。


 待て、抑えろ。


 それは今ではない。


 ルクは死ぬ寸前だ。


 ミレスが今にもとどめをさそうとしている。


 優先すべきは、(ルク)の回収だ。


 今から止めるには……。


 しかたがあるまい。


 魂が切り裂かれるような激痛を堪えながら、大技を発動させた。


 キングクレムソン。


 世界が――凍りついた。


 風が止まる。鳥が空中で静止する。ミレスの振りかぶった拳が、寸分たりとも動かなくなる。


 完全なる静寂。


 時の支配者たる余だけが、この凍結した世界を自由に動ける。


 ミレスの傍を通り過ぎる。


 彼女の瞳は、ルクをまっすぐ見据えたまま固まっていた。殺意と決意に満ちた、美しい瞳だ。


 惜しいな。


 この瞬間を永遠に閉じ込めておきたいほどだ。


 今は時間がない。


 ルクのもとへ移動し、抱きかかえる。


 そして躊躇なく、ルクを殺し、その魂を回収した。


 青白い光が、余の掌に吸い込まれていく。


 これで六魔将三人分の魂を確保したことになる。


 くっくっくっ、あっははははははは!


 久しぶりに痛みから解放された。


 常人であれば百回は死ぬほどの激痛がまだ残っているが、問題ない。余であれば、我慢できぬほどではない。


 今までは人格を保つだけで精一杯だった。戦略も思想もない、ただの生存本能。これでようやく余裕を持って思考できる。


 改めてミレスを観察する。


 欲しい。


 どこまでも完成された芸術品だ。


 魔都ベンズで古今東西のあらゆる美術品を収蔵してきた。神器から国を滅ぼすほどの呪器まで。無生物から生物まで、その種類は千では利かぬ。


 ミレスは、そのどれよりも価値がある。


 余の傍に侍らすにふさわしい逸品ではないか!


 思わず舌なめずりしてしまう。


 くっく、いかんな。


 回収したキラーとルクの魂が影響しているようだ。どうにも欲望を抑えきれぬ。


 奪え!


 思考よりも先に身体が動いてしまう。


 戦略も何もなく、ストレートにミレスを口説いた。


 結果は……完全なる拒絶。


 ふむ、予想通りではある。


 簡単になびくようでは、それはそれでつまらん。


 ……ただな。


 ミレスは、断るだけでなく余を侮辱した。


 古今稀に見ない逸品とはいえ、所詮は余の財物だ。たかが財物の分際で、天下を統べる余を侮辱するとは――はなはだ許しがたし。


 激流のような怒りが全身を駆け巡る。


 ふっ、これは短気な性格だった六魔将ガルムの魂のせいだろう。


 どうするか?


 理性は「殺すな」と訴える。あれほどの逸品は、そう簡単に手に入らない。

 感情は「殺せ」と叫ぶ。余に逆らう者を、生かしておくわけにはいかない。


 壊すか……。


 結局、怒りが理性を上回った。


 惜しい逸品だが、余を怒らせた。それは、万死に値する大罪である。



 キ ン グ ク レ ム ソ ン。



 大技を発動し、時を止めた。


 完全に停止した世界。


 息づく者はいない。静と動の狭間で、動が完全に消え失せた。


 人も鳥も自然も、万物すべての命が余の手に握られている。


 余の意志で全てが壊れ、全てが決まる。


 the world(世界)は我が手にある!


 停止した世界を縦横無尽に移動する。


 ミレスは微動だにせず、固まっていた。


 まさに人形。思考も息遣いもない、ただの物体だ。


「はっははははは! 死ぬがよい!」


 拳を打ち込もうとするが……ミレスの胸元一センチ手前で止めた。


 違和感。


 直感のようなものだ。


 千年を超える戦いの中で培った、死線を嗅ぎ分ける本能。それが今、激しく警鐘を鳴らしている。


 魂がひくつく。


 この感覚は、久しく忘れていた。


 かつて神々と相対した時にも似た、あの底知れぬ不安。


 何かがおかしい。


 ミレスは無防備に見える。隙だらけに見える。だが、それが罠なのではないか。


 念のため、ミレスを調査(ググル)する。


 視界が切り替わる。通常の視覚から、魔力を視る目へ。


 世界が青白い光の粒子で満たされ、あらゆる存在の魔力構造が浮かび上がる。


 余の目に飛び込んできたもの――。


 ミレスの全身をエネルギー波が覆っていた。


 薄く、淡く、まるで朝露のような繊細な膜。


 通常の視覚では決して見えない。魔力感知に長けた者でも、注意深く観察しなければ見逃すほどの微細な波動。


 くっく、全身に纏っているのか?


 余をはめようとは、なかなかに小賢しい。


 あれは魂喰らいの毒だ。


 触れた者の魂を侵食し、蝕み、最終的には消滅させる禁呪中の禁呪。


 今の余の魂は、三つの魂で辛うじて形を保っている状態。あれに触れれば、継ぎ接ぎの部分から崩壊が始まるだろう。


 直接攻撃はできん。


 ならば……。


 遠距離から攻撃すればよい。直接触れられぬなら、触れずに殺せばいい。単純な話だ。


 距離をとり、両手を広げる。


 魔力が指先から溢れ出し、虚空に紅い光点が生まれる。


 一つ、二つ、十、五十、百――。


 ミレスの四方八方に、魔弾が次々と生成されていく。


 上下左右、前後斜め。あらゆる角度から、逃げ場を塞ぐように配置する。


 最終的に、その数は三百を超えた。


 時を止めているため、魔弾は空中で静止したままだ。


 紅い光の球体が、凍りついた世界の中で不気味に輝いている。まるでミレスを取り囲む死の星座のように。


 逃げ道はない。


 上に跳べば頭上から。横に転がれば側面から。後退すれば背後から。


 どの方向に動いても、必ず数十発の魔弾が直撃する。


 しかも一発一発に、ミレスを確実に仕留める威力を込めている。


 城壁を粉砕し、竜の鱗を貫く一撃。それが三百発。


 過剰か? 否、これでいい。


 あの女には、これくらいの敬意を払ってやるべきだ。


 終わりだ。


 時よ、動け!


 キングクレムソンを解除した。


「さぁ、死――」

「ふっ、どうやら賭けに勝ったようね」

「何?」


 数百発の魔弾に囲まれながらも、ミレスは動じない。


 防御すらしない。


 不敵な笑みを浮かべ、一心に余を見つめている。


 何を企んでいる?

 相打ち狙いか?


 無駄だ。


 余に生半可な攻撃は通じぬぞ。


「あんたが暮らすに相応しい牢獄を用意してあげたわ」


 ミレスが電子ジャーを出現させた。


 こ、これは……。


 背筋が凍りつく。


 魔王たる余が、恐怖している。


 余は知っている。これを、この存在を!


 邪神が創りし封印の器。


 あらゆる魂を強制的に吸い込み、永劫の時を閉じ込める禁忌の道具。


 かつて邪神は、これを用いて神々すら封じたという。


 魔王の魂であろうと例外ではない。いや、魂だけの存在である今の余にとっては、最悪の天敵だ。


 一度吸い込まれれば、二度と出られん。永遠に意識を保ったまま、虚無の中を彷徨い続けることになる。


 死よりも恐ろしい。


 なぜミレスがこれを知っている?


 ……シオダだ。


 余計な知識をつけた弊害が祟った。あの愚か者が邪神の知識に触れ、それがミレスにも流れ込んでいるのだ。


 まずい。


 これだけは……これだけは発動させてはならん!


 早くミレスを殺さねば!


 魔弾は急速にミレスへ向かっているが、間に合わない。


 一瞬で殺さず、苦悶の表情を見ようとした嗜虐心が災いした。


 魔弾の速度は、ミレスの技発動より遅い。


 クソ、これも回収した魂の影響だ。


 ならば、最速の魔弾で殺すのみ!


 指に魔力を込め、ミレスを撃ち抜く。


「死ね!」


 今のミレスには到底避けられぬ威力の魔弾を放った。


 光と同等の速さ、いや、光よりも速い。


 高速の魔弾がミレスに着弾する――。


「なに!?」


 ミレスは右にぶれたかと思うと、あっさりと必殺の魔弾を躱した。


 ありえん!?


 魔力十万そこらのミレスでは、躱すどころか反応すらできぬ速さだぞ。


 どういう――ま、まさか!


 ミレスを見る。


 ミレスは、ニコリと笑みを浮かべた。


 余裕さえ滲ませて。


「0.1秒ほど時を止めた。ありがとう。あんたの時刻魔法、参考になったわ」


 ……何? 学習した、だと?


 ありえん。


 時刻魔法は、時空を司る最高位の奥義だ。


 それを、たった二度見ただけで?


 見せたのは、ルクを回収した時と魔弾を配置した時の二回だけだ。


 発動の瞬間を目撃しただけで、魔法の構造を、術式の核心を見抜いたというのか!


 馬鹿な。


 だが、現にミレスは余の魔弾を躱した。光速を超える一撃を、0.1秒の時間停止で。


 完璧なタイミングで。


 ……認めざるをえん。


 これは、才能などという言葉では片付けられぬ。人類の可能性、その極限を見せつけられている。


 お、おのれ!


 まずい。ミレスより先に電子ジャーを壊すべきだった。


 今の余では、連続で時間停止はできない。


 もう発動は止められぬ。


「ミ、ミレスいいのか? それをやると死ぬぞ」


 いくら完全ではないとはいえ、魔王の魂を封じるには莫大な魔力を消費する。高位人間(ハイヒューマン)を超えたミレスであっても、全生命力を注ぎ込まねばならぬだろう。


「死んで本望。あんたを封じ込めるためなら、なんだってする!」


 ミレスの目には決死の覚悟が宿っていた。


 こうなった時の人間は誰よりも強い。


 それは余が一番よく知っているはずだった。


 く、くそ。


 回収した魂の選択を誤った。


 キラー、ガルム、ルクセンブルク。


 よく言えば勇猛果敢。悪く言えば短慮で浅はかな連中だ。こいつらの影響をもろに受けてしまった。冷静沈着なカミーラかポーの魂を先に回収しておくべきだった。


 後悔も後の祭り。


 こうなれば……。


 大幅にエネルギーを消費してしまう。


 意識を保っていられなくなる。当分、休息を取らねばなるまい。


 これは本当にまずいのだ。


 あの電子ジャーは、強制的に魂だけを封じ込める。今の弱り切った余の魂では、封じ込められたら最後、二度と出ることはできん。


 奥義を発動する。


 時間停止よりもさらに高度な時刻魔法。


 時間を巻き戻す。


 世界のありとあらゆる事象を、元に戻す。


 時を止めるよりも莫大なエネルギーを要する。因果律そのものに干渉する、禁呪中の禁呪だ。


 今の余では数分前が限界。


 だが、それで十分。


「うぉおおお、時よ戻れ! バイッファアアアアア・ダァアアアスド!」


 魂が軋む。


 世界が歪んだ。


 色彩が逆流していく。赤が青に、光が闇に、生が死に――すべての概念が反転する。


 風が逆向きに吹き、砕けた瓦礫が元の形に戻り、散った血飛沫が傷口へと吸い込まれていく。


 音が逆再生される。悲鳴が、爆発音が、すべてが巻き戻っていく。


 時計の針が逆向きに回転するのだ。


 世界が、過去へと遡る。


 そして――。


 電子ジャーが出現する前、余が時を止め、動かす直前まで巻き戻った。


「ふっ、どうやら賭けに勝ったようね」


 先ほどとまったく同じセリフ。


 同じ表情、同じ声色、同じ自信に満ちた得意顔。


 ミレスは何も覚えていない。巻き戻された時間の中では、余だけが記憶を保持している。


 この優位を活かす。


「それはどうかな?」


 出現した電子ジャーを瞬時に撃ち抜いた。


「ど、どうして?」


 ミレスが驚愕に目を見開いた。


 さもあろう。事前に知っていなければ、わかるはずのないタイミングだ。


「残念だったな。余に小細工は通用せぬ」

「ならば、もう一度!」


 ミレスが再び電子ジャーを出現させようとする。


 当然、阻止。


 もはやミレスを収集する余裕はない。


 即座に殺す!


 だが……苦しい。


 先ほどの大呪文、予想以上に魂への負荷が大きかった。


 気を抜けば、魂がバラバラに崩壊する。早くシオダに身体の主導権を渡し、魂の回復に努めねば消滅する。


 文字通りの意味で。


 ミレスの戦意は衰えない。


 電子ジャーの破壊は、想定外の事態だったはずだ。それなのに、ミレスはうろたえることなく、闘志を新たに前へ前へと突き進んでくる。


 危険だ。


 ただちに殺しておくべきと理性は訴える。


 ただ、もう意識を保つのが限界だ。当分、身体の主導権はシオダに委ねることになる。


 こんな状態で、時刻魔法を操るミレスを殺せるか?


 殺せはするだろうが、確実ではない。


 ……ここで賭けに出る必要はない。


 今まで復活のため、慎重に慎重を重ねてきた。


 従来の方針に則るべきだ。


 ならば……。


「ミレス、貴様の相手はこれだ」


 パチンと指を鳴らし、ミレスを囲むように数百、数千のヒヨウの群れを出現させた。


 ミレスの最大魔力では、時刻魔法が使えたとしても0.1秒停止させるのがせいぜいだろう。


 仮に数百の魔弾をかいくぐったとしても、このヒヨウの群れは躱せまい。


「き、貴様ぁああ!」

「くっく、あははははは! ミレス、勝負はお預けだ。せいぜいつかの間の平和を楽しんでおけ」

「魔王ぉおおおお!」


 ミレスの絶叫を背に、転移する。


 そうだ、楽しんでおけ。


 軽挙妄動は慎むべきだ。


 まずは魂の安定が先。楽しみよりも先に、やるべきことをやる。こいつらの魂を制御し、振り回されないようにせねばならん。


 まずは眠ろう。


 その時が来るまで。




 ■ ◇ ■ ◇




 ここまできて! ここまできて!


 ミレスは、悔しさに歯を食いしばる。


 魔王が放った数百の魔弾は、高速思考と時刻魔法を併用して躱しきった。


 だが、前後左右、周囲を囲むように出現したヒヨウについては……。


 戦う?


 否。ヒヨウには物理攻撃も魔法攻撃も効かなかった。今の私なら倒す方法もいくつか見出せるが、時間がない。


 では、逃げる?


 否。ヒヨウは真実を知った者をどこまでも執拗に追ってくる。逃げ切れるわけがない。


 戦うのもだめ。

 逃げるのもだめ。


 今、私までヒヨウにとりつかれたら終わる。


 魔王の復活を止められなくなる。


 ティレアさんやティムちゃん、大事な人を守るためにはどうすればいい?


 高速で思考を回転させる。



 ……

 …………

 ………………



 ……やるしかない。


 自分の記憶を消す。


 記憶を消すということは、ここ数日のすべてを失うということだ。


 ティレアさんの正体を知った衝撃。

 魔王との死闘で得た経験。

 そして――この身体に刻まれた、人類の限界を超えた力の記憶。


 すべてが消える。


 ……怖い。


 だけど。


 ヒヨウは、真実を知った者に優先的にとりつく。


 ここには、魔王の正体を知る者が私以外にもいる。


 小毒に苦しみながらも、しぶとく生き延びているエリザベスの諜報員(クズ)達だ。


 屑共は諜報員だ。その性質上、苦しみながらも私と魔王の会話を聞いていたはず。どこまでも貪欲に情報を得るために。


 よかった。長く苦しめるために生かしておいたのが幸いした。


 私の中の魔王に関する記憶を消せば、より多くの情報を持つ者にヒヨウは殺到するだろう。


 これが、今の私にできる最善の策だ。


 やる!!


 記憶消去(メモリーデリート)


 脳内に炎が走る。


 自発的にオーバーヒートを引き起こし、記憶という名の薪を焼き尽くしていく。


 熱い。頭蓋の内側が焼けるように熱い。


 術式発動後、すさまじい勢いで記憶がデリートされていく。


 魔王の記憶が消えていく。

 人間女王(ヒューマンロード)として覚醒した記憶が薄れていく。


 様々な戦い、その生死……。


 ティレアさん、安心して。今は何も覚えていなくても、必ず、必ず助けるから。


 それだけは、魂に刻んでおく。


 意識が、遠のいていく――。



 ……

 …………

 ………………



 パチリと目が覚めた。


 知らない青空が広がっている。


 気づけば、大通りのど真ん中で寝ていた。


 私、あれ? 何してたんだろ?


 何か大切なものを見失ったような……。


 夢?


 ここ数日の記憶がない。


 なんだか最近、こんな目にばかりあっている気がする。


 どこまで覚えてる?


 最近の記憶は……あ、そうだ!


 エリザベス邸に潜入したんだった。


 オルティッシオさんと結託して、無謀な泥棒まがいのことを。


 エリザベス邸に侵入して、それから……。


 そこから記憶がない。


 う~ん、何かとても恐ろしい目にあった気がする。


 なぜかそう思う。


 直感だ。


 いや、実際に記憶を失っている。相当ひどい目にあったのは間違いない。


 ひどい目……着ている衣服を調べてみる。


 うん、なにもされてな――くないよぉおお!


 何かされてる!


 うわっ! なに、これ!


 すさまじい戦闘を経験した跡みたいだ。


 制服はぼろぼろ。斜めに大きく切れていて、糸はほつれて散々な有様。


 わ、私、襲われちゃったのかな?

 慰み者にされて、広場に捨てられちゃったとか?


 最悪の想像に悪寒が走った。


 腕を抱き、震える。


 あ、でも、服の破損のわりには、身体はそこまで傷ついていないみたい。


 ……ほっ、襲われたわけじゃないみたいね。


 あれ? 見間違いかな?


 目をごしごしとこする。


 さっき擦り傷ができていたところが、今見てみると治っている。


 回復魔法もかけていないのに……。


 う~ん、私の身体どうなっちゃったの?


 それから色々と自分の身体を確かめてみて、わかった。


 これ、私の身体じゃない。


 絶対違う!


 ところどころ覚えていた古傷が、全部治っている。


 六歳の時に木登りから落ちてできた傷、

 十一歳の時に魔法演習で火傷した痕、


 思い出に残る傷が、ぜ~んぶ消えている。


 染み一つない綺麗な身体だ。


 ありえない。


 怖くなったので、自分の顔を確認することにした。


 手近にあったお店に入り、鏡を見る。


 そこには、眉を下げた不安げな表情ではあるが、ちゃんと自分が映っていた。


 ほっ。


 自分の顔だ。安心する――ってちょっと待てぇええ!


 よくよく鏡に近づいて、じっくりと顔を見てみる。


 あれ、あれれ?


 確かに自分の顔だ。

 毎朝、顔を洗って髪を整えるときに見る自分だ。


 だけど、肌が違う。


 全然ちがぁあう!


 な、なんて美肌なのぉお!


 す、すごい。


 うわっ! うわっ!


 綺麗、凄く綺麗!


 化粧もしていないのに美肌だ。


 潤いのあるキメ細やかな肌。プルンプルンでもちもちしている。少し気になっていたニキビ跡も全部消えていた。


 うん……。


 まるで細胞の一つ一つがリフレッシュしたかのように生き返っている。


 え、えへへ。


 思わずにやける。


 私、超美人になってるよ。


 あ、ちょっとナル入ってたかな?


 ……ま、まぁいいか。


 明らかに非常識なことが起きている。まぁ、美容はあって困るものでもない。


 別に体調も悪くない。むしろ絶好調だ。


 このまま空を飛べと言われれば、飛べそうなぐらい身体が軽い。


 自分の身体はよし。


 改めて周囲を見渡す。


 ひどい。


 戦争でも起きたみたいに荒廃している。


 何があったんだろう?

 治安部隊とエリザベスの護衛部隊が戦ったのかな?


 ん!?


 人が倒れている。


 苦しみながら、うごめいている。


「あ、あの? 大丈夫ですか?」


 すぐに駆け寄って声をかけた。


「ひぃいいい、違う、違うんです! すべてエリザベスの命令、あいつが、あいつが殺した、うぐっ、いていてててて!! ち、ちぎれるぅうう! はひぃ、そうです。私が、楽しむためにぶっ殺しました。逃げる女子供を、ウヒヒヒヒ」


 ひどく憔悴していた。


 ただ、こいつはエリザベスの家来らしい。


 しかも、相当あくどい真似をしでかした外道だ。


 救助するつもりだったけど、急速にやる気がなくなった。


 でも、情報は必要だよね。


 情報をくれるなら、介錯してやってもいいかな。


「ねぇ?」


 肩を揺すると、糸が切れた人形のようにがくりと倒れ込んだ。


 死んでる……。


 ひどく怯えて錯乱して、結局死んでしまった。

 他の倒れている人達も、だいたい同じ反応だった。


 わかったことは、こいつら全員がとてつもない強者に脅され、殺されたということぐらいだ。


 何があったのかな?


 東方王国の精鋭部隊、ニールゼンさんやオルティッシオさんと戦って、その強さに驚愕して恐怖したとか?


 ありうる話だ。


 ニールゼンさんやオルティッシオさんは、鬼のように強いからね。


 あ~でも、だからって、こいつらを殺すでもなく捕虜にもせず、このまま放置しているわけないか。


 だめだ。全然わかんないよ。


 とにかく情報が欲しい。


 ひとまずティレアさんのお店に戻ってみよう。


 うん?


 ふと目についた。


 杖?


 二つにぽっきりと折れた杖が、地面に転がっている。


 何気なしに拾ってみる。


 すごい。


 手に取った瞬間、ずしりとした重みが伝わってくる。見た目よりもずっと重い。


 素材は……なんだろう? 木のようにも見えるし、金属のようにも見える。表面には繊細な魔法陣が刻まれており、折れてなお淡い光を放っている。


 高級感というか、威圧感が溢れている。


 うーん、役所に届けたほうがいいかな?


 普通の魔法詠唱者には過ぎた一品だ。大貴族か宮廷魔導師が持っていてもおかしくない。いや、それどころか国宝級かもしれない。


 こんな高価そうなものを落とすなんて、持ち主はさぞかし困っているだろう。


 名前や家紋が入っていれば、所有者がわかるんだけど……。


 杖の表面を丁寧に確認する。折れた断面も、握りの部分も、先端の装飾も。


 だが、どこにも刻印はない。


 名無しだ。


 不思議な杖。こんな高級品なのに、所有者を示すものが何一つない。


 ただ、杖にディスプレイみたいなものがついていて、何かが表示されている。


 杖の中央部分に、手のひらほどの大きさの光る板が埋め込まれている。薄青い光を放ち、文字が浮かんでいた。


 え~となになに?


『マスターメモリーダウンロード中……五十三パーセント完了……』


 マスターメモリー?

 ダウンロード?

 この杖、一体?


 興味が湧いて、杖を振ったり色々試してみた。


 振る。回す。念じる。魔力を込めてみる。


 杖はうんともスンとも反応しない。


 多分、メモリーをダウンロード中で次のコマンドを受け付けないんだろう。


 これ、やっぱりお役所に届けるべきよね?


 相当な高級品だ。持ち主も困っているだろう。


 ただ、ちょっと気になる。


 自分が持っていろと直感が働く。


 いやいや、何考えてるの!


 そんなの泥棒だよ、犯罪者だよ。


 手を振りながらだいそれた考えを反省していると、どこからともなく口笛が聞こえてきた。


 ひゅう、ひゅるる。ひゅう、ひゅるる。


 口笛……嫌な感じがする。


 妙に耳に残る旋律。陽気なようでいて、どこか不協和音が混じっている。


 周囲には死体が転がり、血の臭いが漂っている。そんな凄惨な光景の中で、口笛なんて。


 命を弄んでいるような、場違いな旋律だ。


 うん!?


 エリザベスの諜報部隊が潜入していたってことは……。


 バッチョ特戦隊が来ているのかも!


 そうだ。だから口笛だ。


 あの口笛のヒューマが西通りに乗り込んできている。


 バッチョ特戦隊の中でも残忍で有名な男だ。


 民間人の虐殺を嬉々として行う外道が、西通りに!?


 いけない。


 すぐに助けにいかなきゃ!


 歴戦のプロ集団が相手だ。


 一介の学生の私に何ができるかわからない。だけど、何かせずにはいられない。


 民間人が戦っているなら、私も戦う。


 それが魔法学生としての務め、戦う者としての誇りだから。それにもしかしたら、ティムちゃんやティレアさんがいるかもしれない。


 私の大事な友達の危機だ。


 いてもたってもいられない。


 慌てて持っていた杖を放り投げ、口笛の聞こえる方向へとひた走った。


 疾風が駆け抜ける。


 月光が瓦礫を照らし、夜風が血の匂いを攫っていく。あとには、しんと静まり返った広場の姿があった。


 →to be continued。

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