第三十六話 「ミレスと最大の危機(前編)」
流星の如き、エディムの拳が迫ってくる。
し、死んじゃう――
「あ~こんなところにいた、エディ~ム」
死を覚悟した私の耳によく見知った声が聞こえた。
ティレアさんだ!
ティレアさんの声に、エディムの拳が鼻先で止まる。
た、助かった~へなへなとその場に座り込む。
本当に死ぬかと思った。
まるで拳闘士のチャンピオンが繰り出したかのような拳撃だった。
歴戦の勇士と錯覚するぐらいにエディムの拳が大きく見えたよ。
あのままエディムが拳を止めず、当ててたら……自分の顔がひしゃげるビジョンが見えた。
エディム、いつのまにあんな迫力を?
以前のエディムでは考えられない力だ。
どこでそんな力を身につけたの?
可能性として考えられるのは、東方王国に仕えたことだ。
完璧執事のニールゼンさんから戦闘指導を受けたとか?
それなら納得である。
バカだけど、オルティッシオには格の違いを見せつけられた。そのオルティッシオが頭が上がらないのがニールゼンさんだ。
ニールゼンさんなら、エディムのポテンシャルを造作もなく上げられるだろう。
エディムとは親友だ。それに魔法学園で切磋琢磨するいいライバルでもあった。
そんな彼女の覚醒。
あぁ、なんか置いてかれた感じだ。
少し嫉妬しちゃうな。
エディムは、そんな私の気持ちを知ってか知らないでか、殺気を帯びた目つきで私を睨み続けている。
腰を落とし、再び拳を振るう体勢に移っていた。
えっ!? 殴るのやめたんじゃなかったの?
エディムの二撃目が迫ってくる。
「ち、ちょっと待っ――」
「お~い、エディムってば!」
エディムの殺人拳で走馬灯がよぎった時、ティレアさんがエディムに再度声をかけた。
「ティレア様、お待ちを。今、裏切者を処分しているところです」
「エディム、それどころじゃないんだってば!」
「し、しかし、裏切者を放置するわけにはいきません」
「いいから、ミレスちゃんと喧嘩している場合じゃないの!」
ティレアさんは、エディムの襟首を掴む。
のけずる形になったエディムがバランスを崩し転倒しそうになるが、なんとか体勢を整えティレアさんに向き直る。
エディムは、私を殺すといって譲らない。ティレアさんはそんなエディムの胸倉を掴み、喧嘩はやめなさいと言ってゆさゆさと揺らしている。
……凄い。
エディムの首が高速に揺れていた。
「わ、わ、わ、わわわわ、かりました。ティレア様、お、お、お許しを」
「わかればよし。手加減はしてると思うけど、うっかり事故だっておきるんだよ。たまには友達と喧嘩もしたいでしょ。でもね、力加減には十分に注意して。殴るなんてもってのほかだよ」
「ぎ、御意」
ティレアさんはエディムの返答を聞くと、胸倉から手を放す。
エディムはティレアさんから解放されて、息を整えていた。
「はぁ、はぁ、はぁ。そ、それでティレア様、いったい何をそんなに慌てておられるのですか?」
「それなんだけどさ。くぅ~思い出しても腹が立つ」
ティレアさんは、地団駄を踏んで悔しがっていた。
顔を真っ赤にして、よほど腹にすえかねたのだろう。
エディムは、そんな様子のティレアさんをなだめ、事情を聞く。
エディムのおかげで若干落ち着いたティレアさんが、エリザベスお抱えのシェフとのやりとりを説明してくれた。
なんでもティレアさんは厨房に乗り込み、保護鳥の使用や料理工程の杜撰さを、本人曰く、極めて冷静に注意したんだとか。
すると、そのシェフは、ティレアさんの物言いに烈火のごとく怒ったそうだ。
ティレアさんも反省もせず、逆切れしたシェフに物申したそうだ。
お互いにひかない。
ヤンヤヤンヤの口喧嘩の応酬。
最後は、堪忍袋の緒が切れたシェフが包丁を振り上げてティレアさんを切り殺そうとする。ティレアさんはティレアさんで、包丁の刃から逃げ回りながらも口撃の手を緩めなかったとか。
その状況を、パーティ客の一人アジオンさんが見ていた。アジオンさんは、知る人ぞ知る料理界の大御所である。彼が仲裁に入り、その場は治まったみたい。
ただ、ティレアさんとシェフは双方納得せず。
結局ティレアさんは、店の看板をかけてエリザベスお抱えのシェフと料理対決するはめになったとか。
審判は、料理界の重鎮アジオンさん。
負ければ不当にシェフの名誉を傷つけたとして牢屋行き。店も失うという。
うん、やっぱりティレアさん、トラブリましたね。
ティレアさんは「あんな最低の料理人には負けない。父さんの名にかけて勝つ」と息巻いている。
エディムは、ティレアさんから事情を聞いてふんふんと頷いていた。
「事情はわかりました。ティレア様に対しなんたる無礼。その料理人、許せませんね」
「でしょ、でしょ。エディムもわかるよね。そいつ、さんざんに私の料理を、ベルムの店をバカにしたのよ。ランク外の屑料理人って罵られた。父さんの悪口まで言われた。自分は禁鳥を使ったり、面倒だからって手抜きの料理を作ったり、料理人の風上にも置けない。どっちが最低の料理人よ!」
「ティレア様のお怒りはごもっともです。どうします? 私が殺しましょうか? それとも御身みずからお殺しになりますか?」
こ、殺すって……。
どんな理不尽な目にあっても、簡単に人を殺すなんて言わなかったのに。
エディム、やっぱり変わった。
……まぁ、でもエディムはもう国に仕える騎士だ。主君が侮辱を受けたのだ。皇国の姫様に仕える騎士として、その思考は正しいのかもしれない。
少し寂しいけどね。
「エディムゥ~やめてよね」
ティレアさんは、そんなエディムの主張をばっさり否定する。
「お言葉ですが、そんな屑は許せません。殺すべきです」
「ふぅ~前からエディムに言いたかったんだよね。なにか事があるたびに『殺す、殺す』って下町のぼうやじゃないのよ。あなたが誰の影響を受けたかは知っている。でもね、いい加減にガキみたいなセリフはやめなさい」
「も、申し訳ございませんでした。そうですね『殺す、殺す』なんて下町のぼうやそのものでした。お恥ずかしいかぎりです」
「わかってくれた?」
「はい、次からは声も発せず殺します」
「いや、違うでしょ! ちゃんと考えなさいよ」
「そ、そうでした。殺しました、ならよろしいですね?」
「エディ~ム、次にふざけたら胸を揉む。全力で胸を揉むから」
ティレアさんは、手をわきわきと動かしてエディムを脅す。
エディムはひぃと悲鳴をあげ、手を交差させて胸を庇っている。
ティレアさん、セクハラですよ。エディムが怯えているじゃないですか。
でも、ティレアさんらしい。
ふざけながらも、エディムのためを思って注意している。
そのシェフは皇族のティレアさんに無礼を働いた大罪人だ。エディムの立場なら、そいつを不敬罪で処断しなければならない。最悪、首を取らなければいけなかっただろう。
ティレアさんは、エディムにそんな仕事はさせたくなかった。エディムの手を汚させたくないのだ。
私にはわかる。
エディム、ティレアさんの真意を理解できたかな?
こんな情の深い主君はいないよ。
エディムは、あごに手をあてて何かを考えている様子だ。そして、ゆっくりと顔をあげる。
「では、そのシェフをお許しになるのですか?」
「ノン、それはない。許さないよ。ただ殺しはだめ。料理で受けた侮辱は、料理で返す。そのクズは、私が料理で殺して見せるわよ。ベルムの看板の名にかけて、私がやっつけてやるんだから」
「料理で殺すですか……」
「そうよ。なに、もしかして私の腕を信じてないの?」
「め、めっそうもございません。そうでした。よく考えれば当然でした。ただ殺していれば、ティレア様の料理が上だとそいつに認識させられなかった」
「そうそう、それよ。命の尊さもわかって欲しかったけど、まぁ、いいや。とにかく、奴との料理勝負であなたの力が必要なの」
「御意。なんなりとご命令ください」
「じゃあ、悪いけどベルムの店から寸胴鍋もってきてくれる?」
「寸胴鍋ですか?」
「そうよ。料理対決で必要なの。厨房入って右端に置いてあるから。中ぐらいの大きさのやつね。一晩寝かせて濃厚になった出汁が入っている。これで本物のオーク煮込みを見せてやるんだから」
「承知しました。すぐに取りに行きます」
「お願い。あと、ペキンバードとレモレモネードの雫も使うの。だから、材料の買出しもして欲しい。だれか手が空いている人はいる?」
「では、ダルフとミリオを向かわせます」
「ありがとう。それじゃあ、厨房で待ってるよ。私は仕込みをしてくるから」
ティレアさんは怒濤のように現れたかと思えば、また厨房に戻っていった。
エディムは、ティレアさんが指示した材料を取りにエリザベス館をあとにする。
料理対決か。
本当にティレアさんは、嵐のような人だ。
あ! 怒涛の展開で口を挟めなかった。
まずい。
ティレアさんにはエリザベス館から早く立ち去って欲しかったのに……。
ティレアさんを追いかけて注意しようか?
「ふぅ~下品でうるさい連中でしたわね」
ロンドが少しイラついてる。
ティレアさん達とのやりとりに時間をかけてしまった。
「そ、そうですね」
「あのティレアとかいう娘。どこかの大商人の娘かと思いましたが、話から察するにただの料理人でしたね。しかも銀髪の小娘の身内! 敵ですわ」
「はい、ただの料理人でエリザベス様の敵です。ロンド様のお役に立つ人物ではないかと」
「はぁ~儲け話でもあるかと黙って聞いてましたが、時間の無駄でしたわ」
そうか。エリザベスのパーティに参加できるような商人の娘なら、利用できると考えて黙って聞いていたようだ。
ロンドは、あいかわらずだ。どこまでも金の匂いを嗅ぎ取ろうと必死である。
「私にはエリザベス様のお考えが理解できません。どうしてたかが料理人風情に、しかも銀髪の小娘の身内に招待状を送ってますの? たかが庶民をエリザベス様の派閥に入れる? ありえませんわ! この地位に登るため、私がどれほどの金をつぎ込んできたと思ってますの! 絶対に認めません!」
「……そうですよね」
「こればかりはエリザベス様の方針に反対です」
「わかります」
「はぁ~愚痴を言っても始まりませんわね。庶民のせいで、少々時間を使いすぎました。これ以上、エリザベス様をお待たせするわけにはいきません。ミレス、急ぎますわよ」
「は、はい」
ロンドが急かす。
厨房へ寄り道できそうにない。
ティレアさんへの注意は、エリザベスとの顔合わせが終わってからにしよう。
それから、ロンドに連れられてエリザベスがいるテーブルに到着した。
テーブルには……。
ひととおり挨拶を終えたエリザベスがそこにいた。ワイングラスを片手に優雅に佇んでいる。真紅の豪華なドレスに身を包み、顔に笑みを浮かべていた。
笑顔ではある。
ただ、目が違う。獲物を狙う鷹のような鋭い目つきをしていた。
相手は捕食者のそれだ。正直、近づきたくない。
気持ちを落ち着かせたいが、時間は待ってくれない。
周囲を睥睨していたエリザベスが、こちらに気づいた。
「エリザベス様、ご機嫌うるわしゅうございます」
すかさずロンドがエリザベスに挨拶をした。
「えぇ、機嫌はいいですわ。あなたが来るまでは」
「お、お戯れを」
エリザベスはロンドの挨拶に冷淡に返す。
まるでロンドを虫でもみるかのような態度だ。
どういうこと?
ロンドは、エリザベスお気に入りの取り巻きの一人のはず……。
ロンドは必死にエリザベスにおべっかを使っている。
それなのに、エリザベスは冷えた態度のままだ。
「――それでエリザベス様の偉大な功績を称えたいと思いますの」
「もういいですわ。あなたの使い古された美辞麗句は、不愉快です」
「も、申し訳ございません」
ロンドもエリザベスの機嫌の悪さを認識しているようだ。地べたに這い蹲るほどに腰を曲げて、詫びを入れている。
「で? 用件はなんですの?」
「は、はい。以前話しましたようにエリザベス様の派閥に入りたいと、彼女が」
ロンドに紹介されて、一歩前にでる。
スカートの裾をつかみ一礼した。
「ヴィンセント家が一子、ミレス・ヴィンセントです。エリザベス様の生誕十八周年のお祝いに参上仕りました」
「あらあらあらあら。小憎らしい銀髪小娘の腰ぎんちゃくがどういう風の吹き回しかしら」
くっ、なんて言い草だ。
すんなり挨拶できるとは思わなかったけど……。
ふぅ~落ち着け。
気押されちゃだめ。ここが正念場よ。
「腰ぎんちゃくじゃないです」
「おや、今日は威勢がいいわね。いつも銀髪小娘の陰に隠れて怯えてたくせに」
ティムちゃんの背中に隠れて怯えていた。
その通りだ。
真実である。言い訳しない。
そんな弱い自分を払拭する。ティムちゃんに認められたい。対等の友人として並び立つ。そのために少しでも役に立ち、ティムちゃんを助けるんだ。
ふっと息をすい、腹の中心に力を入れる。
「いえ、今日はエリザベス様の誤解を解きに参りました」
エリザベスの眼を見てはっきりとそう述べた。
「誤解?」
「はい、私はエリザベス様の味方です」
「それは、わたくしの側につくと?」
「はい。今までが不幸の連続でした。あの子とは、成り行きで一緒になっただけです。振り回されて苦労しているんです」
努めて冷静に言った……。
エリザベスは目を細めて、爬虫類の如く観察している。
なんて冷たい視線だ。
どこまでもどこまでも……。
人の心の奥底を見るような、人を人と思わない情の通っていない眼だ。
心臓がばくばく鼓動する。
動揺するな。嘘だとばれたら殺される。
「ふぅ~ん、あの子を裏切るねぇ~」
「エリザベス様、ミレスはようやくエリザベス様のご威光を理解したようです。銀髪小娘への尖兵となるでしょう」
ロンドが横から援護射撃をした。
鼻薬を利かせた成果である。賄賂として、少なくないお金を使ったのだ。これくらいの援護はして欲しい。
「あなたは黙ってなさい」
「で、ですが、私が愚かなミレスを改心させました」
「うるさいですわね。セバスチャ!」
「はっ」
「こいつを例のところに」
「お任せを」
セバスチャと呼ばれた執事風の男は、うろたえるロンドを別室に無理やり連れて行った。
やっぱりだ。
ロンドは、取り巻きとしての権力を失っている。
まずい。
嫌な予感がする。
「あ、あのロンド様は?」
「別にあなたには関係ないでしょ。それより質問の続きといきましょう」
それからエリザベスは、いくつか質問をしてきた。
エリザベスの一言、一言が鋭い刃のようである。罠をしかけ矛盾点をつく意地悪な問いばかりだ。
神経がすり減る。
大丈夫。
ギルさんと色々シュミレートしてきたのが活きている。
今のところ、大きな間違いをせずに回答できたと思う。
「ふぅ~ん、よく練習してきてますわね。褒めてあげます」
「れ、練習なんて……本心ですよ!」
「ふっ、まぁいいですわ。合格です。私の派閥に入れてあげますわ」
「本当ですか!」
「えぇ、本来あなたのような爵位の低い者は門前払いするのですが、特別ですよ」
「あ、ありがとうございます」
やった。
嫌味な物言いは腹が立つが、どうにかエリザベス陣営への潜り込みに成功した。
あとは……。
余裕があれば金庫の位置を探りたい。
いや、無理ね。
エリザベスとの信頼構築は始まったばかりだ。それは次の機会にしよう。
優先事項がある。
ティレアさんを早急にお店に帰したい。
「エリザベス様」
「なに?」
「実は、この後所用がありまして。少し早いですが、お暇をしてよろしいでしょうか?」
「まぁ、待ちなさい。あなたに見せたいものがあります」
「そ、そうですか。すごく拝見したいのですが、あいにく時間がなくて……」
「あなたわたくしの陣営に入っておきながら、わたくしより優先するものがありますの? ずいぶん生意気な態度を取ってくれるわね」
エリザベスの目がつりあがる。
エリザベスの心象が悪くなれば元も子もない。
ここは、話を合わせるほかないだろう。
「申し訳ございません。エリザベス様より優先するものなどありませんでした」
「当然です。では、ついてきなさい」
エリザベスの後に従い、歩く。
パーティ会場を出て、本宅に入る。
きしくも本宅の中に潜り込めた。
これは……。
今日、金庫の位置を探るには絶好の機会かもしれない。
臨機応変に計画を変えよう。
部屋の中の見取りをチェックしていく。
うん、予想通り。
さすがはエリザベス邸だ。
本宅には、ところ狭しと絵画や彫刻が飾ってあった。
全て一級品なのだろう。
これだけのもの、普通の貴族では絶対に手に入らない。アルクダス王宮の調度品と遜色ないレベルである。
「あら、熱心に観察してますわね。まぁ、我が邸宅の絢爛さに驚くのも無理ありませんわ」
「はは……」
エリザベスの勘違いに乾いた笑いが出た。
世界最高峰の財宝を見たことがあるのだ。ここにある財貨程度では、しょぼく見えてしまう。
「……気に入りませんね。その眼はなんですの!」
「申し訳ございません」
いけない。またエリザベスの不興を買うところだった。
こんな些事で、スパイ活動が阻害されてはたまらない。
気を引き締めよう。
それにしてもいつまで歩くのか?
本宅のはしっこ……かなり奥まで来てしまった。
そして、少し薄暗い部屋に到達する。
殺風景な部屋だ。
この部屋、地下へと続く階段がある。
地下室?
さらに階段を降りていく。
「ねぇ、どこに行くんですか?」
「いいところよ」
エリザベスが、妖艶に笑う。
恐ろしい。
笑っているのに激怒しているようにも見える。
こんなに恐ろしい笑顔を見たことがない。
心臓が跳ね上がる。
エリザベスは、学園を恐怖で支配してきた。
まともな人では、目も合わせられない。政敵は、ことごとく殺してきた。
もしかして無謀だったのかも?
エリザベスはやっぱり私を信用していない?
第六感が告げる。
殺される。
こんな状態で宝物庫の位置なんて絶対に調査なんてできない。
信頼を得るどころか、身の危険すら感じる。
今日のところは出直そう。
少しずつ少しずつ、違和感なく取り入って信用させるところから始める。
仕切りなおしだ。
「あ、あの、エリザベス様、気分が悪くなったのでお暇をさせていただきます」
「あらそう。ならここで休んでいきなさい」
「ここって……地下ですよ」
「そうですね、いいから止まらず進みなさい」
ち、ちょっと……。
肩を掴まれ、ぐいぐいと押された。
逆らえない。そのままエリザベスに引っ張られて進まされる。
そして……最下層に到着した。
なに、ここ?
薄暗くて、不気味だ。
地面はぴちゃぴちゃと湿っている。
それに臭い。
腐った生ごみのような匂いもする。前面には、汚水も流れていた。
エリザベスの邸宅とは思えない。
「エリザベス様、本当に気分が悪いんです。帰らせてください」
「だめよ」
「帰ります!」
「いいから、見なさい!」
エリザベスに顔を掴まれ、強引に汚水に顔を向けさせられた。
「な、なんなんですか? 暗くてよく見えません」
「なら、もっと近くで見てみなさい」
身体を汚水に近づけさせられる。
鼻がひん曲がるほどの匂いだ。
汚水は、どす黒く濁っている。深さは足下五十センチほどあって、ぷかぷかと得体の知れない物体も浮かんでいた。
「うぅ、臭い……ここはどこ? 白っぽい変な物まで浮かんでいる?」
「わかりませんの?」
「は、はい」
「ほらよく見てみなぁあ!!」
「きゃああ!」
エリザベスに汚水へ突き落とされた。
うぅ、気持ち悪い。
汚い。
水はひどく濁っている。何より匂いが酷い。
まとわりつくゴミを振り払う。
ん!? これ……衣服についた白っぽい何かを手に取ってみる。
これ、ゴミじゃない。
もしかして骨?
しかも人の骨じゃ……そう認識した瞬間、周りをよく見てみた。
骨、骨、骨の残骸だ。
中には最近のものなのか、人の原型を保っているものもあった。
「あ、あ、あ、な、なんてこと……」
「ふふ、ようやく理解しました。そう、ここにあるものは全部死体です」
エリザベスは、天気でも話しているかのように、たんたんと話す。
うぅ、死体……死体がいっぱいだ。
「う、うげぇ!」
思わず吐しゃした。
吐しゃ物が汚水に浮かぶ。さっき食べたパスタから何まで、胃がからになるほど吐いた。
はぁ、はぁ、はぁ。
うぅ、うぇえ、なんてこと。
ここは、エリザベス家の処刑場だ。
「な、なぜ?」
「なぜですって……ふふ、あなた、わたくしをバカと思ってますの?」
「えっ!?」
「間抜けのロンドは騙せたでしょう。ですが、わたくしはそうはいきません。領地から鉱山が出た? 金持ちになったからわたくしの派閥に入りたい? 全部でたらめ。ロンドから話を聞いて、全て裏を取ってます」
あ、甘かった。
エリザベスはこちらの作戦を見破っていた。
「ち、違います。私は本当に――」
「だまれぇええ! このクソがぁああ!! 私をなめんなよぉおお。てめぇが、間諜しようとしてるぐらいお見通しだ。なめやがって、ただでは殺さねええ! じっくりじっくりいたぶって殺してやるからなぁああ!」
エリザベスは髪を振りかざして怒りを露にする。
幽鬼のような顔だ。
やばい、やばい。
エリザベスは本気で切れている。どんなに言い繕っても、もはや聞く耳を持ってくれまい。
脱出だ。
出口へダッシュしようとするが、
「アホか、逃げられると思ってるのかぁあ!!」
「いたぁ!」
エリザベスの咆哮と同時に護衛の一人に何かをぶつけられた。
丸っこくて固いものが額に当たって、転倒しそうになる。
な、なにが!?
額を抑えながら、目を凝らす。
こ、これっ!
「ロンド!」
「ふふ、そう間抜けのロンドです。金に眼がくらみ、まんまと敵の策略にひっかかった。愚か者よ」
……それは生首だった。
ロンドの顔は恐怖に歪んでいた。目の焦点は合わず、舌がだらーんと垂れている。
一体どんな最期を迎えたのか?
むごい。
動機はどうあれ、あれだけエリザベスに尽くした部下じゃないか。嫌なやつだったが、こうなると哀れでしかたがない。
「仲間をこうも簡単に切り捨てるなんて、ひどい」
「ふふ、何を言っているのやら。一応長らく仕えてくれましたからね。これでも温情を与えてますのよ。拷問もせずに殺してあげました」
「ほ、本気で言ってるの?」
「えぇ、味方のチョンボだからこの程度で済ませたのです。わたくし刃向った者には苛烈ですわよ。ほら、よく周囲を見なさい」
エリザベスの指した方向を見る。
死体がある。
それはわかっていた。
でも、ただの死体じゃない。
こ、これって……。
理解できない。理解したくない。
この世にこれほどおぞましい事があるのか?
「あら、やっと気がつきましたか。そうよ。そいつは手足を切り落とし、目玉をくりぬき、鼻をそぎ落とし、喉と耳を毒で焼きましたの」
「あ、あ、あ、あ、あ……」
「ふふ、人豚よ」
「い、いやぁああああ!!」
絶叫した。
絶叫せずにはいられなかった。
「ひどいひどい、ひどすぎる! 人間のすることじゃない。あなたは悪魔よ。この子が何をしたっていうのよ!」
「私に逆らいました。十分でしょ」
「ふざけないで! 許さない。あなたは絶対に天罰が下る! 神様が許しておかないわ」
「ふふ、天罰ねぇ。今までわたくしを止めるものなどいませんでした。今までも、そしてこれからもです。神の意思ですわ」
エリザベスは、傲慢に当然のように話す。
悪人と思っていた。だから、この強盗計画にも手を貸した。
周囲に浮かぶ死体を見る。
どれも損傷が酷い。
どれだけ拷問されたのか?
どれだけ苦痛だったか?
辛かったろう。
苦しかったろう。
自然と涙がポタポタとこぼれる。
見誤ってた。こいつは悪人なんてくくりではおさまらない。
こいつは、こいつは生きてちゃいけない巨悪の根源だ。
許せない。許しておけない。
エリザベスを憎悪のこもった目で睨む。
「あらあら、やっと本性を表しましたね。その目、素敵ですわよ」
「殺してやる。あなた絶対に殺してやるから」
「ふふ、そうやって正直にしてなさい。まぁ、金髪の小娘のように馬鹿正直でも嘲笑ものですが」
金髪の小娘!?
ティレアさんのことか!
「ティレアさんをどうする気?」
「ふふ、もちろん銀髪の小娘との仲を引き裂きます」
「無駄よ。あんたのような屑にあの姉妹の絆を壊せない」
「ふふ、それはどうかしら。たしかに以前、買収で事を成そうとした時は失敗しました。ワタクシらしくありませんでしたわ。やはり拷問でないと」
「ムチ? 何をする気よ!」
「えぇ、拷問します。あの能天気な姉を拷問し尽くします。金に転ばなくても痛みには耐えられません。『どうか、妹を殺させてください』と言わせてやりますわ」
こいつは何を言っているんだ!
あんなに心優しくて暖かな人に、そんな酷い目に遭わせようとしているのか!
怒りで頭が沸騰しそうだ。
「そんな事絶対にさせない! 私が許さない。あの二人に手を出したらただじゃおかないわ!」
「ふふ、勇ましいわね。でも、あなた、人の心配をしている場合じゃないですわよ。今からあなたも同じ目にあいますのに」
「えっ!?」
「ふふ、今日がパーティでなければ、わたくし自ら拷問してあげましたのに。残念です。まぁ、主役が不在ではいきません。エビーンズ!」
「はっ。こちらに」
エリザベスに応えて、一人の男が前に進み出てきた。
「エビーンズ、いつものように」
「お任せください。で、お嬢様、今回のレベルはいかがいたしましょう?」
「そうね~最大がいいんですけど、だめね~それは今の私の感情に合っていませんわ」
「それでは……」
「えぇ、最強にして最高のレベルでお願い。記録更新を期待しているわ。簡単に壊さないでよ。じっくり絶望を味あわせてちょうだい。そして、最後に心を壊すのはわ・た・く・し」
エリザベスは醜悪な笑みを浮かべ、護衛と一緒におぞましいこの部屋から出て行った。
残るは、エビーンズと呼ばれた拷問官らしき男のみ。
はぁ、はぁ、はぁ、なんとかしないと!
エリザベスは絶対にやる。
ティレアさんが、ティレアさんが危ない。
緊急事態発生だ。
オルティッシオの助けがいる。
取り決め通り急激に魔力を高め、救難信号を送ろうとするが……。
「あ、あれ? なんか魔力がうまく働か、ない」
「はっはは、魔力練れないだろ? ここはお前のような魔法使いも拷問するんだぞ。魔力封じしてないわけないだろうが!」
エビーンズは高らかに笑いながらそう告げたのだ。




