第二十一話 「ミレスと諱(いみな)の謎」
ティムちゃんから絶対完食の命令を受けてしまった。
お姉さん絡みのことでは、絶対に譲らないティムちゃんだ。このままでは無理やりフォアグラ用のガチョウのように食べさせられかねない。
無理だ。絶対に無理!
これ以上食べたら本当に破裂してしまう。すべて吐き出してしまうかもしれない。
勘弁してほしい……。
涙目でティムちゃんを見上げる。
だめだ。ティムちゃんは顔こそ微笑んでいるけれど、その瞳は——残したら承知しないと、静かな殺気を放っているよ。
ど、どうしよう?
あれほど天国に見えたご馳走が、今や地獄の強制フルコースに変わり果てていた。
「ティームゥ! まったくあなたは悪い子ね。ミレスちゃんを困らせないの!」
絶望に打ちひしがれていた時、ティレアさんがティムちゃんのほっぺをぐにぐにした。
助かったのかな?
「全部食べなくてもいいんですか?」
「残りは従業員の皆で食べるから。無理はしないでね」
「よ、よかった。さすがにお腹一杯です」
「そっか。でも、この後、デザートとお茶があるんだよ。どうする? おなか一杯なら――」
「いただきます!」
デザートは別腹である。甘いものは大好きだ。
やがてデザートが運ばれてきた。
抹茶アイスクリーム——若草色の美しい色合いと、上品な甘さが口いっぱいに広がる。
至福の時間が過ぎ、デザートを完食した。
しばらくして、口髭を生やした品の良い男性が、お茶を運んできた。
従業員のニールゼンさんだ。
「お茶をお持ちしました」
低く落ち着いた声音。威圧感はないのに、自然と背筋が伸びる。
ニールゼンさんは舞台俳優のような優雅な足取りでテーブルに近づいた。トレイを置く所作ひとつとっても無駄がない。音も立てず、それでいて確実に。
やがて小さな木製の箱——ティーキャディを開く。中には上質な茶葉が詰められており、芳醇な香りが部屋にふわりと漂った。
キャディ・スプーンを手に取る。銀製の小さなスプーンだ。持ち方、指の添え方に至るまで完璧。まるで楽器を演奏するかのような、繊細で美しい手つきだった。
スプーンで茶葉をすくい、ティーポットに移していく。一杯、二杯、三杯——その動作に一切の迷いがない。計量器を使ったわけでもないのに、寸分の狂いもないかのような正確さだ。
次にニールゼンさんは湯を注ぐためのケトルを手に取った。持ち上げる角度、傾ける速度、すべてが計算し尽くされている。
熱湯がポットへと注がれる。
その瞬間、思わず息を呑んだ。
湯の流れが、まるで一本の絹糸のように滑らかなのだ。
途切れることなく、跳ねることもなく、ただ静かに、優雅に。
そして注ぎ終わる直前——手首をほんの少し返して、最後の一滴まで美しく切る。テーブルクロスに一滴たりとも零れていない。
ポットの蓋を閉めると、ニールゼンさんは懐中時計を取り出した。
「三分間、お待ちください」
その間、彼は微動だにしない。
立ち姿すら絵になる。背筋が一本の線のように真っ直ぐで、両手は自然に前で組まれている。呼吸すらも静かで、まるで絵画から抜け出した人物のようだった。
三分が経過する。
ニールゼンさんは時計を仕舞い、ティーカップを手に取った。これまた上質な磁器製だ。
ポットを傾け、カップに紅茶を注いでいく。
琥珀色の液体がカップを満たしていく様は、まるで宝石が流れ込むかのようだ。泡立つこともなく、ただ静かに、しかし確実に。
注ぎ終えると、ニールゼンさんは優雅にカップをティムちゃんの前に置いた。次に私の前にも。
「どうぞ、ごゆっくり」
一礼する。その角度も、背中の曲げ方も、完璧だった。
私も貴族の家に生まれ育った身だからわかる。仕草ひとつとっても一流だ。これは単なる従業員ではない。執事——それも完璧執事と呼ぶべき存在だ。高位貴族の執事長と言われても、まったく違和感がない。
「なんかできる人って感じだね」
対面でお茶を飲んでいるティムちゃんに、思わず口をついて出た。
「当然だ。ニールゼンは、我の右腕だからな」
ティムちゃんはどこか誇らしげだ。
驚きが胸に広がる。
ティムちゃんがお姉さん以外を褒めている。あの辛口のティムちゃんがここまで言うのだ。ニールゼンさんは、相当な実力者なのだろう。
見た目もダンディーで、教養も深そうだ。ニールゼンさんも貴族に違いない。
もはやティレアさんたちを庶民だとは、欠片も思っていない。
これほどの晩餐を気軽に開催できる庶民など、絶対にいない。料理も調度品も超一級品だ。今日の食事会だけで、いったいどれほどの費用がかかったことか。
こんな晩餐会は、並の貴族では開催できない。高位貴族ですら、ごく一部の者だけだ。
もう確信している。ティレアさんたちは、東方から落ち延びてきたやんごとなき身分の方々なのだと。
以前、ティムちゃんにアルクダス王家縁の人かと尋ねた時、ひどく怒られたことがある。まるで、そんなちっぽけな王族と一緒にするなと言わんばかりに。
つまり、アルクダス王家とは比較にならないほど巨大な国家の姫君だったのだろう。ティムちゃんが普通に学園へ通っているのも、この地で体勢を立て直すためとか、そういった理由に違いない。
そう考えれば、すべての辻褄が合う。
政争に敗れて落ち延びてきたから、身分を明かせない。だから、ティレアさんは庶民出身だと偽っているのだ。
とはいえ、それもかなり無理のある言い訳だ。ティムちゃんのカリスマ性が圧倒的すぎるから。
さらに理由は積み重なる。
①ニールゼンさんのような完璧な執事がいる。一応爵位を持つ我が家は高位貴族の家にお呼ばれされたことがある。そんな高位貴族でさえ、あそこまで上品な使用人はいなかった。
②ティムちゃんは社交界のパーティーに慣れている。とんでもなく豪華なパーティーに出たこともあると本人が言ってたし。
③ティムちゃんは学園で、伯爵家のアナスィー先輩すら気軽にあごで使う。東方の巨大国家の姫君ならば当然のことだ。
④ティムちゃんは自身の名を他人に呼ばせるのを嫌う。
これこそが、最も重要な手がかりだと思う。
私がまだ幼かった頃、家庭教師のクラレンス先生から東方の文化について教わったことがある。
「ミレス様、世界は広うございます。我々の常識が通用しない国や地域も数多く存在するのです」
先生はそう前置きして、東方にある巨大帝国の話をしてくれた。
「特に興味深いのは『諱』という風習でございます」
諱——
初めて耳にする言葉だった。
「これは本名を神聖なものとして扱い、むやみに他人へ呼ばせない風習です。特に身分の高い方々の間では厳格に守られております」
「どうして名前を呼んじゃいけないの?」
子供だった私には不思議で仕方なかった。名前は呼ぶためにあるのではないのか。
「名には、その人の魂が宿ると考えられているからです。むやみに名を呼ばれることは、魂を穢されることに等しい。だからこそ、本当に親しい者、心から信頼できる者にしか本名を明かさないのです」
クラレンス先生は続けた。
「そして、この風習は身分が高くなればなるほど顕著になります。皇族ともなれば、本名を知る者は片手で数えるほどしかおりません」
「じゃあ、普段はどうやって呼ぶの?」
「字や通称を用います。あるいは、官職名や尊称で呼ばれることもございます」
それから先生は、恐ろしい話もしてくれた。
「もし、許可なく皇族の諱を呼んだ者がいれば——」
先生は喉元に手を当てる仕草をした。
「首を刎ねられても文句は言えません。それほどまでに神聖で、重い意味を持つのです」
当時の私は、遠い国の奇妙な風習として聞き流していた。けれど、今ならわかる。
ティムちゃんが「カミーラ」としか名乗らず、本名を明かさないのは——
この諱の風習を守っているからだ。
そして、ティレアさんだけが「ティム」と呼ぶことを許されている。
ということは、ティムちゃんにとってティレアさんは、魂を委ねられるほど信頼している唯一無二の存在なのだ。
これで辻褄が合う。
ティムちゃんが学園で「カミーラ様」と呼ばせているのは、諱を守るため。
政争に敗れて、この地に落ち延びてきた皇女。
それがティムちゃんの正体なのだ。
ティレアさん……。
【ちゅうにびょう】とか言ってごまかしていたけれど、違う。あれは東方の風習そのものだ。
ただ、ティレアさんは普通に自分の名を他人に呼ばせている。諱の風習を守っていない。ではティレアは本名ではない? いや、違う気がする。それに、ティレアさんにはカリスマや威厳というものがない。王族というより、庶民に近い雰囲気を纏っている……
はっ!?
そうか!
ティレアさんは庶子なのだ。だから諱にこだわらず、庶民的な親しみやすさがある。母親が庶民出身で、ティレアさんは母親似なのだろう。
ティレアさんとティムちゃんは異母姉妹。それでも仲睦まじかった。ある日、正統継承者のティムちゃんが政争に敗れて、故郷を追われることになった。再起を図るため、身分を隠し、姉のティレアさんと腹心の部下を連れてこの地までやってきたのだ。
ティレアさんは庶子だから、ある程度世慣れしていたのだろう。けれど、ティムちゃんは違う。きっと古武術と帝王学しか学んでこなかったに違いない。
今思い返せば、学園でのティムちゃんは常に退屈そうだった。まるで、ここは自分の居場所ではない——下々のいる場所に、なぜ自分のような天上の者がいなければならないのか、そんな表情で授業を受けていた。
無理もない。
皇室の姫君が、貴族も混じってはいるものの、市井の人々と学び舎をともにするのだから。
……きっとこの推測は当たっている。
聞いてみようかな?
いや、直接尋ねても真実を話してくれないだろう。まだ、私とティムちゃんの間には、強固な信頼関係を築けていないのだから。
それなら、ティムちゃんに遠回しに尋ねてみよう。
「ねぇ、カミーラ様、ニールゼンさんってただの従業員じゃないよね?」
「ミレス、藪から棒になんだ?」
「いやね、ニールゼンさん、すごいできる人って感じだったから。もしかしたら執事長、それとも近衛隊長とかだったりしないかなぁって」
「む!? ミレス貴様……」
ティムちゃんが僅かに驚いた表情を見せる。
しまった、失敗したかもしれない。
近衛隊長などと言ってしまっては、もう自分は皇族だと言っているようなものだ。
「はは……ごめん。聞いちゃだめだよね」
「あぁ、貴様の推察どおりだ」
えっ!? 答えてくれるの?
「ふっ、そんな情報を私なんかに教えてもいいのか、そんな顔しているな」
「教えてもいいの?」
「ある程度の情報は、開示してもよいとお姉様に言われておる。ご学友には、正直であらんとな」
嬉しい……。
それ以上、ティムちゃんは何も語ってはくれなかった。
けれど、ある程度は推測できる。
やはり、ティムちゃんはやんごとなき身分の方だ。ニールゼンさんは、ティムちゃんのお付きの人に違いない。
役職は……見た目からすれば執事長。ただ、ニールゼンさんの体つきや動きを観察するに、武芸の心得も相当にあると見受けられた。
近衛隊長と言われても納得できる。
現段階でここまで話してくれるティムちゃんに、胸が温かくなる。少しは私を信頼してくれたのかもしれない。
今ならティレアさんが言った言葉の意味が理解できる。
「ティムの友達になってくれ」
私の中で、すべての情報が一本の糸で繋がっていく。
ティムちゃんは、王の中の王になるために育てられた。
幼い頃から帝王学を叩き込まれ、古武術を修練し、常に完璧であることを求められ続けた。周囲にいるのは、権力を求める者たち。本心を隠し、腹の探り合いをする貴族や大臣たち。
ティムちゃんの一挙手一投足が政治的な意味を帯び、ちょっとした言葉の選び方ひとつで派閥の力関係が変わる。
そんな息の詰まる環境。魑魅魍魎とした宮廷。周囲は敵ばかりの世界。
信じられるのは、ティレアさんだけだった。
庶子であるティレアさんは、宮廷の中心から離れた場所にいた。だからこそ権力闘争とは無縁で、純粋にティムちゃんを「妹」として愛してくれた。
ティムちゃんにとって、ティレアさんは唯一心を許せる姉だった。
けれど——それすらも自由には叶わなかっただろう。
身分の違い、派閥の思惑、宮廷の規則。
会いたくても会えない日々が続いたと予測できる。
そして、政争に敗れた。
本来なら悲劇だ。国を追われ、地位も権力も失った。
けれど——
ティレアさんは、これを好機と捉えているのではないだろうか?
ティムちゃんに、王としてではなく、ひとりの人間として生きてほしい。
友達を作り、笑い、時には泣き、普通の少女として青春を過ごしてほしい。
だから、学園に入れたのだ。
だから、「友達になってくれ」と頼んだのだ。
両手を強く握りしめる。
頑張ろう。
私には、ティムちゃんが背負ってきた重圧の重さなど、想像することしかできない。
王として生まれた悲しみも、政争の恐ろしさも、本当の意味では理解できないかもしれない。
けれど——
それでも、私はティムちゃんの友達になりたい。
心の支えになりたい。
ティムちゃんが、ほんの少しでも肩の力を抜いて、笑える時間を作りたい。
「ティムちゃん、私、あなたの本当の友達になります」
心の中で、強く誓った。
どんなに高い壁があっても、
どんなに身分の差があっても。
私は、諦めない。
ティムちゃんが、この学園で、この街で、少しでも幸せを感じられるように——
私にできることを、精一杯やる。
そう決意した瞬間、ティムちゃんがこちらを見た。
「ミレス、何をぼんやりしておる?」
「あ、ううん、何でもないよ!」
慌てて笑顔を作る。
ティムちゃんは少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。
いつか——
いつか、ティムちゃんが心から笑える日が来る。
その日まで、私は友として、そばにいる。
そう、心に深く刻んだ。




