8 決戦前夜の台所
「明日、みっこのところに行こうと思っているんだけど」
パジャマ姿の母が台所に現れたのは、私が祖母のレシピをもとに、三度目の試作に取りかかっている最中だった。
バレンタインは数日前に過ぎてしまったけれど、明日の土曜日、私の仕事が終わったあとで、アキさんと待ち合わせて二人で〈やまさち〉に行くことにしていた。合格発表が無事済んで、アキさんのお仕事が一山越えた、お疲れさま会だ。
「里ちゃん、夕ごはんは食べてくるって言ってたでしょ。みっことそんな話になって、そしたら、健さんもちょうど、今度の単身赴任の準備でタイに行ってるんですって。どうせだったら、泊まりにきてよって。ゆっくりごはん食べておしゃべりしましょうよって誘われたの」
みっこおばちゃんは、叔父の単身赴任に向けて、着々と生活面の準備をすすめているところだった。叔父自身は、会社の仕事を引き継いだり調整したりする方で手一杯なのだという。叔母も叔父も楽天的なタイプなので、なるようになるさ、という精神ではいるのだが、さしもの叔母も忙しさにやられ、母を相手にぼやく回数も少し増えていた。
「疲れちゃわない? 無理しなくても、みっこおばちゃんは体調のことはわかってくれると思うよ」
母自身、大分よくなったとは言え、仕事の疲れなどをきっかけに体調を崩し、もう二年ほど心療内科に継続通院中の身である。私が案じると、母は微笑んで首を横に振った。
「大丈夫よ。みっこには、私、夜は薬飲んで寝ちゃうわよってはっきり言っているし。お医者さんにも、最近一度相談したら、妹さんのところに一泊するくらい、大丈夫って」
この頃の母は、ちゃきちゃきしてテンポの速い叔母に対しても、以前よりはっきりと意思表示するようになっていた。そのことを叔母が喜んでいるのも知っていたので、私もうなずいた。
「あまり疲れちゃうようなら、おばちゃんのうちまで迎えにいくから」
「いらないわよ。健さん、明後日の午後の飛行機で帰ってくるんですって。みっこが空港まで車で迎えにいくから、帰りは途中で下ろしてもらえるの」
母は、最寄り駅まで来る私鉄の特急が止まる、大きな駅の名前をあげた。
「あとは一本だもの。貴重な日曜日でしょ。私のことは気にしなくて大丈夫」
さらっと挟まれた、貴重な、という一言に少し頬が上気してしまった。母とはいえ、家族にデートのことを話題にされるのにはいまだに馴れることができない。
「それ、まだ作るの?」
母が私の手元を覗きこんで、少しあきれた声をあげた。
「冷凍庫に、もう三本くらい入ってなかった?」
「日持ちはするからいいんだって。あれはあれで美味しいけど、まだ納得いってないの」
「ふうん。なら、みっこのところに一本、持っていっていい? 私、白あんと柚子のやつが好き」
「あれはおばあちゃんのレシピそのままだよ。どうぞ、食べてもらって」
「ありがとう。ね、吉見さんによろしくね」
「おばちゃんには、私からよろしくって伝えてね」
私は何の動揺も見せないように頑張って返事をしたけれど、母相手には無駄である。意味ありげににこっとすると、おやすみ、と言って母は引き上げていった。
アキさんは、一度きちんと挨拶に来てくれた。その後も何度か、送ってきてくれたときに玄関で立ち話をしているけれど、もう既に、すっかり母の信頼を獲得していた。母は、印象で人を見極める達人である。その母にここまで信頼される人も珍しい。
私は手元の作業に注意を向けなおした。
バターもおいしかったけれど、クリームチーズの方がいい。酸味と塩気が立つ。食感のなじみからいって、ドライクランベリーよりはやっぱり山査子だろう。柑橘の香りは、あると確実に味が締まるから加えたい。この前、差し入れを作ったときに、柚子風味の浅漬けを入れたら好評だったから、柚子の皮のピールがいい。アクセントにくるみ。
試食用の一口サイズを組み立てて、口に入れてみた。
うん。これでいこう。ここまでの試作結果から考えて、この組み合わせが変な相互作用を起こすことはないはずだ。
祖母のレシピノートから、私が今回作ることにしたのは、巻き柿という名前のお菓子、要するに干し柿のあんまきである。
祖母は、開いて種を取り除いた干し柿に、白あんと柚子の皮の砂糖煮を巻いて、ラップできつく締め、一晩なじませていた。薄く切って出せば、緑茶には最高のお茶請けだ。祖母は多分、お茶席で出す主菓子として覚えていたのだろう。
でも、私とアキさんが一緒にいるときはコーヒーを飲むことが多い。それで、中身をアレンジすることにしたのだ。ブランデーを少し使えば、おつまみにもできる大人のお菓子になりそうだ。でも、アキさんはお酒は一切飲まないので、今回は使わないことに決めていた。
朝、仕事に行くときに持って出て、職場の冷凍庫で退勤まで保管させてもらえば、夜、食べる頃には、自然解凍でもう食べどきになっているはずだ。
観音開きにした干し柿をラップに敷き詰め、その上に、具を彩りよく配置して、巻きずしの要領で巻き上げていく。均等に力が掛かるように締めて、ラップをぴっちり巻き直した。
ブラウンのワントーン、といえば言葉だけは無駄にファッショナブルな響きになるが、要するに茶色一色。地味。写真映えという言葉はどこかに置き忘れてきたような仕上がりだ。サラミソーセージかナマコみたい。
私は思わず口元をゆるめた。初めてのバレンタインデーのプレゼントが、これ。私がプレゼンテーションの仕方さえ間違えなければ、アキさんは絶対まず笑ってくれる。
でも、見た目よりも、味と中身をちゃんとわかってくれる。私が込めた気持ちも。
そういう人なのだ。
私は冷凍庫に巻き柿をしまうと、調理器具を片付けた。明日は仕事からそのまま、待ち合わせだ。バッグの中身もちゃんと準備しておかないといけない。爪や髪も、手入れしたい。私自身、見た目は実に地味だからといっても、できることはしなくちゃ。
それと、遅くなりすぎないうちに、アキさんに連絡。
『渡せていなかったバレンタインのプレゼントに、お菓子を作ったので、明日持っていきます。できれば一緒に食べたいんですけど、食事のあとで、お邪魔してもかまいませんか?』
すぐに返信が来た。
『もちろんです。このまえ誕生日だったのに、バレンタインも? 嬉しいけど、申し訳ないような』
『イベントの日付が近いのは、生まれの巡り合わせですから、あきらめてください。この後、クリスマスまで、大きいイベントはないんじゃないですか?』
『ホワイトデーと、夏にサトカさんの誕生日ですね。じゃあ、次からは僕の番ということで』
ピヨさんの写真が届いた。
『明日は、ピヨはお留守番してサトカさんが来るの待ってるにゃん』




