52 二つに一つ
ケンの呼吸は荒かった。膨らんだ肺が、フライトスーツに当たるような感触。酸素マスクに跳ね返る自分の吐息。汗で濡れそぼった全身。思うように機体を操れない手先の動き。胸の奥の悔しさ。歯がゆい気持ち。
耳元で聞こえる、無線越しの声。
「ケン。大丈夫か?」
「……勝者の余裕か、イコライ」
飛行中の戦闘機のコクピットで、ケンはつい、そんな嫌みを言った。
ケンはいましがた、イコライと模擬格闘戦をして、破れたばかりのところだった。
「そう暗くなるなよ」だが、イコライは気にせず言っていた。「本調子じゃなかったんだろ? わかるよ。何日もベッドで寝たきりだったんだもんな」
「……」
「特に心肺機能は、一日でも使わないとすぐに衰えるらしい。まず、明日からは毎日走り込みだな」
「いや……」
皮肉めいたところを一切感じさせない、イコライの明るさに、ケンは素直に感化されていた。
「今日からだ。走り込みは、今日から始める」
「あは! 良いねえ、その調子だ!」
言いながら、ケンの横の位置に飛んできたイコライが、翼を振るのが見えた。
着陸し、機体を滑走路脇の指定されたスペースに停めると、ケンはキャノピーを開放してヘルメットを脱ぎ、全身の力を抜いてシートに身体を預け、物思いにふけった。滑走路を吹き抜ける風が頬に当たって、熱くなった身体を冷やしてくれる。
空の上で、イコライは強かった。病み上がりの自分でも、並のパイロット以上の操縦はしたつもりだったのだが、勝てなかった。
イコライは口先だけの男ではなかった、ということだ。それは別にいい。喜ぶべきことだ。
だが……。
「どうした、ケン?」
機体に歩み寄りながらそう言ってきたのは、普段着姿のカイトだった。今日はカイトは飛ばず、地上で二人の帰りを待っていた。
「その様子じゃ負けたみたいだが、だからって黄昏れるなんて、男らしくないぜ」
「お前の言う『男らしさ』ってやつは、どうも偏ってる気がするな」ケンは一言文句を挟みつつ、カイトに聞いた。「なあカイト……イコライは……あいつは一体、何者なんだ?」
奇妙な質問をされた後でも、カイトは不適な笑みを浮かべるだけで、驚いたりはしなかった。まるで、予想された質問、いや、いまさらの質問だとでも言うかのように。
そして、カイトは聞き返してきた。
「そいつはどういう意味かな、ケン・ブライトニーくん?」
「イコライは……あいつは死ぬほど金持ちの家に生まれたのに、戦闘機乗りなんて危険な仕事をやっていて、しかも強くて……それだけじゃない。ロボットの奥さんがいて、猫型ロボットを直せる叔父さんがいて、本人だって意外と頭が良いみたいだし、それに、この戦闘機を用意できるコネだってあって」
ケンが乗っている戦闘機は、島に本社を置く軍事企業が所有するもので、イコライが以前その会社に務めていたコネを使って、有料でレンタルしているものだった。
「何より、いまイコライは、俺みたいな厄介者を助けようとしている。そんなやつ、普通いるか? 何者なんだ、あいつは?」
「良い質問だな」カイトは言った。「だが、質問として優れている、っていう意味じゃない。イコライ・ブラドという複雑な男の特別さを、端的に説明することができていて、俺は感心した、っていう意味だ」
「回りくどいことを言うな。質問に対する感想なんか聞いてない」
「お前の言う通り、イコライは特別な男さ」カイトは真剣な顔になって言った。「しかも、昨日今日でそうなったわけじゃない。学生時代からすでに、あいつは特別だった。話を聞く限り、もっと小さい頃から、ずっと特別だったらしい」
カイトは続ける。
「俺が思うに、あいつの特別さはどちらにでも転び得る種類のものだ……歴史に名を残す英雄になるのか、さもなければ、一人のつまらない犯罪者として終わるのか……そのどちらかじゃないか、って俺は思ってる」
「歴史に名を残す英雄? 俺は何も、そこまでは言ってないぞ」
「お前が俺の意見を聞いたから、俺は答えただけだよ。俺はイコライの特別さをそう解釈している、っていう話さ……あいつのそばにいれば、俺はもしかしたら、歴史の目撃者になれるかもしれない……歴史ファンとして、これ以上の楽しみはない。それが、俺があいつのそばを離れない理由さ」
「……」
ケンが押し黙ったその時、管制の指示でしばらく上空を旋回していたイコライが、ようやく着陸態勢に入ってきた。
轟音を響かせながら滑走路へと降り立つ戦闘機を、ケンもカイトも、神妙な面持ちで、沈黙を保ったまま見つめ続けていた。




