299.そんな理由で断るなんて、もったいな過ぎない!?
「ぷ、プロポーズされたぁああ!?」
「シーー! 声が大きいです、ティナさん!」
庁舎ラウンジの端。柔らかな光が差し込む木製テーブルの前で、ティナが思わず声を上げてしまったのは、五年も前のこと。
ティナの目の前には勉強用具を広げた、事務担当のコーデリアが座っていた。
四歳年下で、十六歳から庁舎で働き続けている彼女は、この時まだ二十歳。落ち着いた佇まいと真面目な眼差しが、周囲の空気に静かな安心感を与えていた。
「ちょ、相手は誰なの?」
「………………レイフ、です」
ティナの脳裏に浮かんだのは、すれ違うたびに胸を覗き込み、「おお、でけぇ」と口笛を吹きながら去っていく、節操のない青年の姿だった。
驚きのあまり、ティナの目は自然と見開いていく。あんな軽薄な男が、本気で結婚を考えるとは──にわかには信じられない。
レイフは誰にでも気さくに話しかける、軍の中でもかなり陽気なタイプだ。軽薄な態度ではあるが、悪意はまったくないため、不快に思う人はほとんどいない。
やらかしたとしても、「あいつなら仕方ない」と許されてしまうような人柄。会う人ごとに冗談を飛ばし、ふわりとした空気を漂わせ、周囲に笑いを生む青年なのだ。
そんな彼だが、コーデリアに対しては、とりわけ親しげに接していた。
しつこくされるたびにコーデリアは頬を膨らませるが、本気で怒っていないことはティナにもわかる。レイフが立ち去ったあと、わずかに染まった頬と、その後を追うような視線が、それを雄弁に語っていたからだ。
「結婚かぁ〜」
フィデル国では、十六歳になれば本人の意思で結婚できる。十代で式を挙げる者も少なくない。
二十歳のコーデリアは、まさに適齢期の女性だろう。一方、ティナはというと──二十四歳、行き遅れに片足を突っ込みかけている状態だった。
「いいなぁ~。いつ式挙げるの?」
「挙げません! 結婚なんてしないもの」
「……え?」
ティナはぱちぱちと目を瞬かせる。それはまさに、理解不能の返答だった。
コーデリアは眉間に薄く皺を寄せ、顔を真剣に固めながら、低く落ち着いた声で言葉を紡いだ。
「プロポーズはお断りしたんです」
「なんで? 好きじゃなかったの?」
「す……っ」
ティナの素朴な疑問に、コーデリアは言葉をそこで一度切り。
彼女は諦めたように吐き出す。
「好き、ですけど……っ」
コーデリアは声を落とすと、胸の奥に浮かんだ言葉をいったん飲み込み、そっと息をついた。
感情に押されるままに言うのではなく、自分の気持ちをきちんと整えてから口にしようとしているのだ。
「今は、私もレイフもそういうことを考える時期じゃないっていうか……もっとお互いに自分自身を磨かなきゃいけないと思うんです」
ティナは理由を聞いて唖然とした。
(そんな理由で断るなんて、もったいな過ぎない!?)
思わず喉の奥まで出かかったその言葉を、ぐっと飲み込む。口にすれば、真剣に考えているコーデリアの気持ちを軽んじることになるだろう。
けれども納得できず、ティナはむうっと口を尖らせる。
「もし両想いだったら、私ならすぐ結婚したいけどなぁ~」
ため息交じりにぽつりと漏れたその言葉に、ティナ自身も少しだけ恥ずかしさを覚えた。
ブラジェイとは相変わらず、幼馴染みのまま関係が進展していない。
項垂れるティナに、コーデリアがにっこりと笑みを向けた。
「ティナさんにもそういう人、いるんですね」
「え!? いや、そういう意味じゃなくってね……」
しまった、と顔を上げた時。
背後に馴染みのある気配が通り過ぎる。
「ムキ専、ゴリ専」
ティナの全身の血液が一気に逆流する。顔が溶岩のように熱く染まり、頬が痛いほど赤くなる。
「ユーリアスッッッ!!!」
ティナはテーブルに手をついてガタンと立ち上がった。
キッと後ろを睨みつけると、ニヤニヤとした端正な横顔が目に入る。
「ムキ……ああ、なるほど」
納得の呟きを漏らすコーデリアに、ティナは頭を抱える。
(コーデリアにバレちゃったじゃないのーーーー!! アスのバカバカッ! うわーーーーーーーーーーーーーーん!!!!)
顔を赤く染めたまま、ティナはずいっとコーデリアに詰め寄った。
「えーと、コーデリア?」
「はい、私はなにも聞いてません」
頼むまでもなく、彼女は微笑みを浮かべ、静かに頷いた。
良い子でよかったと安心する一方で、許せない相手が一人いる。
ティナはコーデリアが机の上に置いていた消しゴムを手に取った。そして振り向きざま、全力でユーリアスに投げつける。
しかし彼は頭を振るようにして、さっと簡単に避けてしまった。
(後ろに目でもついてんの!?)
ユーリアスが振り返り、ニヤリと笑みを浮かべる。
怒りの頂点に達したティナは、勢いよく腰のカルティカを抜き──
「青二才が、なめんなよ」
その声を皮切りに、庁舎の空気が一変した。
長い廊下を、二つの影が疾風のように駆け抜ける。
追う足取りも、かわす身のこなしも、遊びではなく本気のそれ。
捕まえたと思ったら、風魔法で逃げられる。
しかしそれは、じゃれ合うような愉快さを帯びた気配が漂っていた。
「ユーリアス殿?」
庁舎を駆け回る二人を見て、まだ軍に来て数日のファビアンが驚いたように目を見張った。
かつて憧れていた姿とはかけ離れた、奔放に笑いながら走るユーリアスの姿が目の前にあったからだ。
隣では、共にカジナル軍に入ったラシュハルトも、その光景を目の当たりにしている。彼はティナを見つめ、そして──
「どうした? ラシュ」
ファビアンが隣のラシュハルトに問いかけると、ラシュハルトは視線を逸らすどころか──ティナを見つめたまま、顔を赤く染めていた。




