297.願いって、なんだったの?
その後、クロエとミカヴェルがなにを話したのかは、誰にもわからない。
ミカヴェルは本人が言っていた通り、再び身を潜めることを選んだ。
しかし潜むと言っても完全に姿を消すわけではなく、場所はカジナルシティ郊外の一軒家の地下で、なにかあればすぐに駆けつけられる距離だ。
ミカヴェルは徹底的に自分の存在を消し去った。そして誰にも気づかれぬように、手を回していくつもりなのだ。
しかし彼の策の詳細を、誰も知らなかった。クロエにさえも、すべてを明かさない徹底ぶりだ。
それでもクロエは迷わず彼を信じていた。幼い頃から共に過ごした時間が、理屈では測れない安心感を生み出していた。
ティナたちにはその感覚を理解することはできなかったが、信頼の深さは、まるで揺るがぬ大樹のように感じられるほどだった。
そんな事情もあり、ミカヴェルがフィデル国に戻ったからといって、今のところ目立った変化はない。
隣国との緊張はあるものの、日々はいつものように過ぎ去っていく。
そして、ミカヴェルを取り戻した冬は静かに過ぎ去り、やわらかな陽光に満ちた春が訪れた。
その軍部の廊下。朝日を浴びて髪が黄金色に輝く美形が、金策担当の名を呼んだ。
「ティナ」
振り返ると、ユーリアスがちょいちょいと手招きしている。
その仕草は無邪気で、どこか子どものようでもありながら、立ち姿からは力強さと落ち着きが漂っていた。
「どうしたの? アス」
ユーリアスは五月で二十一歳、ティナは九月で二十三歳になる年だ。
彼はこのところ、以前のような青臭さが抜け始め、落ち着いた大人の男になりつつある。
頼もしさを覚える一方で、なんだかお姉さんはカナシイッ、とティナは密かに唇を尖らせている。
「ちょっとさ、俺の部屋に来てくれないか」
「うん? 別にいいけど……」
ティナは踵を返したユーリアスの背を追いかける。
視線の先に映るのは、背中から伝わる体の厚みと、歩みに滲む頼もしさ。差し込む光を受けて、金の糸のようにさらりと揺れる髪の輝き。
カジナル軍に籍を置いて二年になるというのに、すれ違うたびに人々の視線を奪うその姿は、いまだ変わらない。それも男女を問わずに。
(ブラジェイは誰からも気軽に声をかけられるけれど、それとはまた違う魅力なんだよね)
そんなことを考えていると、ユーリアスは軽く振り向き、柔らかく口元を緩め、にっこりと微笑んだ。
自然体なのに、計算されたかのような美しさ。その一瞬に光る整った顔立ちと瞳の輝きに、ティナは思わず息を呑む。
男も女も振り返らずにはいられない──そんな、理想的すぎる完璧さがそこにあった。
(うーん、いつの間にこんな笑顔ができるようになったんだ、この子は!)
口を開けば、お互いにくだらない言い合いをする関係だったはずだ。
いや、今でもその習慣はさほど変わってはいない。
ただ、最初に出会った頃のような、ユーリアスの棘のある態度は、もうほとんど感じられなくなっていた。
「どうぞ」
迎え入れられたのは、彼らしい清潔感のある部屋だ。
ほのかに流れてくるユーリアスの香りが、敏感なティナの鼻腔をそっとくすぐる。
窓から差し込む光は優しく、木製のテーブルを淡く照らしていた。
「で、どうしたの?」
ユーリアスの手がガラスのピッチャーを握り、ハーブ入りの水は静かにコップに注がれていく。
ティナは促されるまま、そっと椅子に腰を下ろした。
差し出されたコップを受け取り、テーブルを挟んで目の前に座る彼を見上げる。
ユーリアスの表情は穏やかだ。静かなまなざしのまま、彼はそっと左手首を見せるように差し出した。
感じるのは、そこにあるはずのものがない違和感。なんだろうと首を傾げた瞬間。
「あ!!」
ハッと気づく。
そこには、なにもなかったのだ。
彼がリザリアとおそろいでつける予定だった、あのフィタが。
「切れたよ、とうとう」
ユーリアスはそう言って、胸のポケットからふにゃふにゃに細くなって切れたフィタを取り出した。
ティナは自然と息をつく。
少しだけ寂しさの混ざった感慨深さが、胸の奥をかすめた。
「そっか……ちょうど二年になる?」
「ああ。それで今日は、ティナにこれをもらってほしいんだ」
ユーリアスは小さな箱を取り出し、そっと蓋を開けた。
中から慎重に取り出したのは、かつて彼がリザリアに贈ろうとしていたフィタだった。
指先で大事そうに扱うその様子に、ティナは思わず視線を留めた。
「……アス? もらえないよ、こんな……! これはリザのためのものじゃない!」
「いいから、腕出してみ」
穏やかな笑顔と真剣な瞳のユーリアスに押され、言われるまま左手を差し出す。
彼はそっと手を取り、丁寧にフィタを通し、ぎゅっと結ぶ。
あまりにも自然にフィタを巻かれてしまったティナは、言葉を失い心の中で小さく動揺した。
「えーと……」
「この地方では、プロミスリングって言うんだったか? 願い事かけておけよ。きっとリザも喜ぶ」
ティナはフィタを見つめた。柔らかな色合いと、愛らしい幾何学模様が描かれたその姿は、ただのプロミスリングではない。
リザリアとユーリアスが、お揃いでつけるはずだった大切なフィタだ。
そんな大事なものが自分の左手にあっていいわけがない。
「アスの願いって、なんだったの?」
それは、何度もからかい半分で聞いてきた質問。
しかしその度にユーリアスは口喧嘩めいた調子で誤魔化し、答えてくれたことなど一度としてなかった。
なのに彼は今、ゆっくりと息を吸い── そしてついに答えを口にした。
「俺の願いは……リザと一緒に、未来を歩むことだった」
その言葉が、ティナの胸にひゅっと突き刺さった。
思わず手元のコップを握り直す。視線は揺れることなく、ただユーリアスを見上げていたが、心の中は一瞬、静かに固まったようだった。
リザリアと一緒に未来を歩む──もう叶わぬ願いに、胸の奥がしくりと痛む。
「このフィタが切れる頃には、俺もリザも仕事が慣れてきてるだろうし、プロポーズしようと思ってた」
叶うことのないその願いに、ティナは胸の内からなにかがこみ上げてくるようだった。
「えと、やっぱりもらえないよ」
「願いが叶った縁起のいいものなんだ。もらっといてくれよ」
意味を理解できず、ティナは眉をひそめる。
「でも……リザは、もう……」
言葉を詰まらせるティナに、ユーリアスは真剣な面持ちで答えた。
「俺の心はリザのものだ。リザの心も常に俺と共にいる。それって一緒に未来を歩んでいるのと同じだろ?」
ユーリアスの優しい表情には、リザリアへの変わらぬ愛が映っていた。
「……うん、そうだね」
ティナの胸に、熱く締め付けるような感覚が走る。
この男の心は生涯変わらないだろう。
リザリアは永遠の愛を手に入れ、ユーリアスも同じものを得たのだ。
「だからもうそれはいらないんだ。ブラジェイとのことでも願っとけよ」
突然の言葉に、ティナは思わず口に含んだ水を ブーーッ と吹き出す。
「な、なに言って……違うから!!」
慌てるティナに、ユーリアスは呆れたように笑った。
「まったく、どこがいいんだか俺にはわかりかねるけどなー、あんな筋肉狂い」
「き、筋肉狂いって……筋肉つけるの、大変なんだよ!?」
「つけ過ぎなんだよ、ジェイは」
ユーリアスはくっくと笑い、目元まで笑みが届いている。ティナは口を尖らせ、小声で抗議の声を漏らした。
「うっ。そうかもしれないけど、それはそれで……」
「ティナ、やっぱムキ専だろ」
「ち、違うから!」
「じゃあなんだ? ゴリ専?」
「ちがーーう!!」
そんなティナを見たユーリアスは満足そうに頬杖をつき、最高の笑顔で問いかける。
「で、それ、なんて願い事するんだ?」
ユーリアスの問いかけで、ティナの頭にふわりと浮かんだある想い。
その願いは、言葉にするにはあまりにも恥ずかしくて──
「う、ひ、ひみつ!」
顔を赤くして言葉を濁すティナに、ユーリアスはたまらずニヤニヤしている。
「へぇー、そうか、ティナはゴリ専だったかぁー」
「いや、だからそれ、違うから!!」
立ち上がり、思わず背中をポカポカ叩くティナ。
その行動に、ユーリアスはまったく痛がるそぶりも見せず、むしろ楽しそうに破顔していた。




