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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
カルティカの涙〜フィデル国の異母姉編〜

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296.私たちはなにも考えるなってこと!?

 ティナたちがカジナルシティに戻ってきたのは、それからさらに一日を過ぎた昼前だった。

 広場を抜け、庁舎の重たい扉を押し開けると、空気が一気に張り詰める。彼らが向かった先は、五聖執務官クロエの部屋だった。


「ミカヴェル……っ」


 書類を広げていたクロエは、部屋に入ってきた人影に気づいた瞬間、椅子を鳴らして立ち上がった。

 その声はわずかに震え、瞳には抑えきれない光が宿っている。


「久しぶりですねぇクロエ。五聖執務官とは、私の手の届かないところに行ってしまった」


 友を誇らしく思いながらも、距離を感じる切なさを滲ませて紡ぐミカヴェル。その声に、クロエは唇を震わせて答えた。


「なに言ってるんだい……あなたがあたしに、五聖になれって言ったんじゃないか……」

「はは、そうだったねぇ」


 ミカヴェルはへらりと笑いながらも、その目だけは静かに細められていた。

 長い年月を経てもなお変わらぬ信頼と情を宿すように、その眼差しはクロエに注がれる。


「クロエなら、なれると信じていたよ」

「……あたしは、いつもミカヴェルに踊らされてばかりだ」


 クロエは睫毛を伏せて吐き出したが、その声音には本気の怒りはない。むしろ懐かしい諦めにも似た響きが混じっていた。


「クロエの存在なくして、私の策は成り得ない。感謝しているよ……クロエ」


 優しい声音の裏に、底知れぬ暗さを含むその眼差し。ティナはぞくりと背筋を震わせ、思わず息を止めた。

 隣に立つブラジェイもまた、その一瞬を見逃さず、無意識に眉をひそめる。


「その策とやらは、一体なんなんだ? あの最高傑作と言っていた赤毛のガキにも関係しているんだろう?」


 ユーリアスの低い問いかけに、ミカヴェルは彼を一瞥して、唇の端を持ち上げる。


「言う必要はありませんねぇ……あなた方は、ただ私に従っていればいい」

「……てめぇ」


 その傲慢な言い草に、ブラジェイの奥歯がきしむ。

 ティナは耐えきれず、思わず声を荒げた。


「そんな言い方ないでしょ! 私たちはフィデル国民だよ!? 仲間に言えないっておかしくない!?」

「別に、おかしくはありませんよ」


 ミカヴェルはいつもへらりとしている顔を真顔にし、眼鏡を指先で押し上げる。レンズが反射し、瞳を隠した。


「知らない方が動けるということもある」


 理屈だけを並べた声に、ティナの胸の奥に苛立ちが募る。


「なにもわからないまま従えってこと? そんなの……」

「心配しなくて結構だ。私は正真正銘のグランディオル……フィデル国を救済するための参謀軍師だよ。信用してもらおう」


 眼鏡の奥の鋭い瞳に気圧されて、ティナはぐっと言葉を詰まらせた。

 その横でブラジェイは睨みを向け、ユーリアスもまた不服の表情を隠さない。


「ならばまず、信頼が大切だと思うがな。どうやら参謀軍師殿は、それを軽んじているように見えるが?」


 静かな声色に潜む苛立ち。ユーリアスの問いかけに、ミカヴェルは冷笑を浮かべる。


「信頼──そんなものは不要です」


 ティナは息を呑んだ。空気が一瞬にして張り詰める。


「……どういう意味?」

「信頼は、時に人を縛り、視野を狭める。私は国を救うために策を巡らせている。そこに必要なのは、信頼ではなく従順です」

「従順……」


 呟くティナに、ミカヴェルの声がさらに冷たく降りかかる。


「そう。信頼などと言う曖昧な感情に頼れば、必ず揺らぎが生まれる。だが従うだけなら、迷いも疑念もいらない。ただ私の示す道を歩けばいい」

「私たちはなにも考えるなってこと!?」


 ティナは思わず声を張り上げた。怒りと恐怖とが入り混じり、胸が締めつけられる。


「そうは言いませんよ。人の思考を止めることなど不可能。考えることは尊いものだ。だが勝利に導く策は、私にしか見えない」


 その断言に、ブラジェイは苛立ちを隠さず吐き捨てた。


「要は俺たちを駒扱いってことだろうが」


 挑発的な言葉にも、ミカヴェルは笑みを深める。


「ブラジェイ……あなたは自分が駒ではないとでも?」

「……っ」


 鋭い言葉が突き刺さり、ブラジェイは返す言葉が出てこない。


「わかっているでしょう。兵は結局、一つの駒でしかないのだと。そして私もまた、参謀軍師というただの駒だ。盤上の駒を動かす神とは思っていない」


 ティナは眉をひそめ、言い返せないままその横顔を見つめる。彼の言葉には確かに理がある。それでも胸の奥がざわめいて仕方がなかった。

 だが次の瞬間、ミカヴェルはへらりと笑みを戻す。


「まぁまぁ、敵を欺くには、まずは味方からと言うでしょう? 参謀軍師という立場上、なにもかもを話せる立場にはないんですよ。信頼が必要と言うなら、結果で示せばいい話ですしねぇ」


 ケラケラと笑うその様は、先ほどまでの冷徹さをまるで幻のように消し去っていた。ティナは翻弄され、思考を掴めないまま立ち尽くす。

 だがブラジェイの視線は一切緩まない。


「ミカヴェルさんよぉ……俺たち兵士は、命を張ってんだ。結果が出ねぇ時の怒りは、信頼のないあんたに向かうだろうさ。それも覚悟の上か?」

「当然です」


 ブラジェイの問いに、ミカヴェルはわずかな迷いすらなく言い放った。


「この世には、星の数ほど正義がある。だが私の正義はただ一つ。あらゆる手段を用いてでもストレイア王国に打ち勝ち、フィデル国に平和をもたらすことだ。結果が伴わなければ、他の正義に消されることも覚悟の上」


 ぎらりと光る眼差し。そこに虚偽はなく、ブラジェイはその覚悟を受け止める。


「……っへ、なるほど。フィデル国の参謀軍師を名乗るだけはある」

「少しは信用していただけましたか」

「まぁ、ほんのちょっとだがな。おめぇが真剣だってことくらいは、伝わってくるぜ」

「それはよかった」


 張り詰めた空気がようやくほどけ、クロエは息をつめていた胸を撫で下ろす。だが安堵の直後、ミカヴェルは声を低めた。


「私はすでに、いくつもの種を蒔いている。芽吹の時を待ちながら、今しばらく身を隠すつもりだ」

「どんだけ隠れるのが好きなんだ、おめぇはよ」


 呆れ声のブラジェイをよそに、ミカヴェルは喉を鳴らして笑う。


「好きというわけではありませんがね……ここから先は、重要な話です。私とクロエの二人きりにさせていただきましょうか」


 ミカヴェルの言葉に、ブラジェイは眉を厳しく顰め、胸の奥でざわめく不安を押さえ込むようにクロエを見た。


「クロエ」


 案じる声に呼びかけられ、クロエは微かに目を細め、静かに頷く。


「大丈夫だよ、ブラジェイ。二人にしておくれ」

「……わかった」


 ブラジェイはその胸中のもやもやを振り切るように扉へ向かい、ティナとユーリアスもそっと部屋を後にする。


 外に出ると、昼時の光が廊下を満たしていた。三人はそのまま庁舎の食堂へ足を向ける。


「クロエとミカヴェル、なに話すんだろね……」


 歩きながらも、ティナは後ろ髪を引かれるように扉を振り返る。


「心なしか、クロエは嬉しそうに見えたな」


 ユーリアスの言葉に、ティナの顔に柔らかな笑みが広がる。


「うん。立場上、顔にできないだけで、再会できて嬉しかったと思うんだ。なんたって、幼馴染みだもんね、あの二人」


 ティナの言葉に、ブラジェイが一瞬驚いたように目を剥いた。それに気づいたティナが、彼を見上げる。


「あれ。ブラジェイ、知らなかった?」

「いや……そういや、そんなこと言ってたな」


 低く呟くと、ブラジェイもまた扉を振り返る。その顔には、なんとも言えぬ複雑な表情を宿していた。


「……ブラジェイ?」

「ああ、邪魔はしねぇよ。今頃、昔話に花を咲かせてんだろうからな」


 ブラジェイは大きな手で頭をがしがしと掻き、前を向いて歩き出す。


(別に、ブラジェイが邪魔するなんて思ってないけど……)


 ティナは胸の奥がきゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。


「クロエが……心配?」


 問いかけると、ブラジェイは目だけでちらりとティナを見下ろす。


「あいつぁ、カジナルの五聖だぜ。心配しねぇ方がおかしいだろ」


 その言葉に、ティナの胸にひやりとした痛みが走った。

 心配するのは当然のこと。だというのに、その言葉は、ただの心配以上の〝特別〟を意味しているようで。

 胸の奥に、ちくりと棘が突き刺さる。


「……そうだよね、あはっ」


 無理に笑い声を作るティナ。唇の端だけをぎこちなく上げたその横顔を、ユーリアスは隣で黙って見つめていた。

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