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あなたを忘れる方法を、私は知らない  作者: 長岡更紗
カルティカの涙〜フィデル国の異母姉編〜

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293.……ばかぁ……誰のせいよ……

 ティナの胸がどくん、と大きく鳴った。

 ユーリアスは、声を詰まらせたまま動かない。青い瞳は、まっすぐにティナを縫い止めていた。

 喉元までこみ上げている言葉を押しとどめるように、唇がわずかに開いては閉じ──けれど結局、声にはならない。


(え、なにこの状況!?)


 心の中で叫んだはずの声すら、自分にはどこか上ずって聞こえる。呼吸が荒くなる。なのに体は石のように固まって、瞬きすらためらわれた。


 〝もっと俺のこと──〟


 彼の口からは、確かにそう漏れていた。けれどその続きを紡がぬまま、沈黙が二人の間に張りついている。

 ティナは待つ。ほんの数秒のはずなのに、永遠に思えるほどの時間。


(どうしよう……今さら目を離せないし……っ)


 心臓の鼓動ばかりが胸の奥で反響する。ユーリアスの瞳がもどかしげに揺れているのが見え、息が詰まった。


(っていうか……今さらだけど、ほんっとアスって美形だな!?)


 至近距離で改めて意識してしまい、余計に頬が熱を帯びる。

 触れられた頬にはユーリアスの掌の温もりが確かにあって、その感触がじわじわと火を広げていく。

 吸い込まれるような青の瞳、精悍な顔立ち。ほんの少し翳りを帯びたその表情が、ティナの喉をきゅっと締めつけた。

 息をするのも苦しくなりかけた、その時。


 不意に、扉が音を立てて開き始めた。


「!?」


 喉がひゅっと鳴り、肩がびくりと跳ねる。目を見開いたティナの視線の先に立っていたのは──


「わり、邪魔したか」


 ブラジェイだった。

 ティナは反射的にユーリアスから身を引き、ユーリアスもまた静かに頬から手を離す。


(え、ちょ、今の見られた!?)


 背筋に冷や汗が滲み、変な汗が額を伝った。そんなティナをよそに、ブラジェイは片眉を下げて歯を見せるように笑う。


「あー、気づくとおめぇがいなかったから驚いてな。戻らぁ」

「待って待って、私たちも戻るからっ」


 ティナは反射的に声を張り上げ、跳ねるように立ち上がった。縋るようにブラジェイの腕を掴み、必死に事態を収めようとする。


「おいティナ」

「ほら、早く寝ないと! アスも!」


 早口にまくしたて、ティナはブラジェイを引っ張り部屋へと急ぐ。振り返ったブラジェイは肩越しにユーリアスへ視線を投げた。


「悪かったな、アス」

「……まったくだ」


 ユーリアスはふっと笑い、皮肉とも取れる声音を返す。その表情を見て、ブラジェイはわずかに眉を寄せた。


 三人は再び部屋に戻り、柔らかな床に体を沈める。光苔の淡い明かりが天井に揺れ、夜気の冷たさと寝床の温もりがじわりと混じり合っていく。


「さて、いびきがうるさくなる前に寝ないとな」


 ユーリアスが肩をすくめてそう言い、仰向けに転がる。するとすぐに深い寝息を立て始めた。疲れが限界に達していたのか、あっさりと眠りに落ちていた。

 逆に、ブラジェイのいびきは一向に聞こえてこない。


 薄明るい天井をぼんやりと見つめながらも、ティナの意識は冴え続けていた。

 さっきの胸の高鳴り。ユーリアスと視線を絡ませた瞬間。触れられた頬。

 あの熱はまだ消えず、身体のどこかに残っている。


「……ティナ」


 不意に名前を呼ばれ、ティナの胸がびくりと震える。

 小さく首を傾けて隣を見やれば、暗がりの中でブラジェイの視線がこちらを捉えていた。


「なに?」


 問い返した瞬間、薄明かりに浮かんだブラジェイの顔が目に映る。大きな体を横たえたまま、彼は真剣とも冗談ともつかない眼差しでティナを見ていた。

 声は低く抑えられているのに、その奥にある熱がじわじわと伝わってくる。


「おめぇもよ。ちっとは誰かと付き合って、男慣れしとけや」


 その言葉が落ちた瞬間、ティナの呼吸が止まった。肺が凍りついたみたいに膨らまず、喉はなにかに詰まったように動かない。

 胸の奥をぎゅっと掴まれたような痛みに、目を瞬くことさえ忘れてしまう。


「──っ!!」


 思わず漏れた声は、耳に届くか届かないかの微音だった。

 ティナの体は一瞬、硬直する。胸の奥がぎゅうっと押し潰されるようで、呼吸が詰まる。言葉を紡ごうとしても喉になにかが引っかかり、出てくることはなかった。

 頭を殴られたかのような衝撃がティナを襲う中、ブラジェイはこともなげに言葉を続ける。


「こいつはよ。まぁお前の言う通り青二才だが……いい奴だぜ」


 その言葉に、ティナの胸はさらにきゅっと締め上げられる。唇を引き結んでも、感情の震えを完全に抑えきれない。

 吐き出したい思いが胸に渦巻くも、声にする勇気はなく、ただ小さな息の震えだけが残った。


「……知ってる」


 ぎこちなく返すと、ティナはそっと背を向け、壁際に身を沈める。胸の奥で渦巻く想いが息苦しくて、痛いほどに響く。


(ばかぁ……私が好きなのは、ブラジェイなのに……っ)


 悔しさが胸の中を巡っていき、体が震える。

 すると大きな手が伸びてきて、ぽんぽんとティナの頭を撫でた。

 指先の温もりが髪を通して伝わり、ティナの胸がきゅうんと痛む。


「なによぅ……」


 胸の奥が締め付けられる感覚に、ティナは唇を強く噛みしめる。なにかが溢れそうになるのを、必死に耐えた。

 喉の奥がひりつき、息を整えても、心臓の高鳴りは止まらない。


「……おめぇが強ぇのは知ってるけどよ。変に無理すんな」


 ブラジェイの声は、夜の静寂に溶けるように低く、でも確かにティナの胸に届いた。

 囁かれたその一言だけで、喉の奥がぎゅっと詰まる。


(……ばかぁ……誰のせいよ……)


 滲みそうになる涙を、喉を鳴らすようにして飲み込んだ。

 体を小さく丸め、少しでも自分を落ち着かせようとするけれど、焦燥と切なさが渦巻いて逃げ場がない。


 ぽん、と手が頭に触れるたびに、胸の奥がぎゅんと痛む。その優しさのせいで、切なさが、怒涛のように押し寄せる。


(なんでこんなに……ただ撫でられるだけで、心が揺さぶられるの……)


飲み込んだはずの涙が、じわりと滲んだ。


 それでも、息を整えようと小さく吐き、静かな寝息を装った。柔らかな床に身を預け、目は閉じたまま、なんとか平静を装う。


 ブラジェイはそれ以上なにも言わず、手をそっと引き、ゆっくりと仰向けに体を預ける。その存在感が近くにあるだけで、ティナの胸は熱を帯びたままだった。

 だが、ブラジェイ自身は特に感情を揺さぶられている様子もなく、いつも通りの落ち着きを保っている。

 こんな気持ちを抱いているのは自分だけなのだと思うと、ティナはただ、苦しくて仕方なかった。



 ──そのやり取りを、薄目を開けて見守っていた者がいた。


 一番向こうの寝床に横たわるミカヴェルだ。

 目を閉じたまま、口の端をわずかに歪める。


(なるほどねぇ……そういう関係ですか)


 だが、彼の興味はそこまで深くはなかった。

 気づかれぬよう息を整え、ただ心の中で小さく呟く。


(……ま、どうでもいいが)


 そして静かに、彼もまた眠りへと沈んでいった。


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