291.そういうわけにもいかねぇだろうが
浄化の部屋を出たティナは、次の目的地へと歩みを進めた。
正真正銘、初めて踏み入る遺跡だ。胸の奥に緊張を宿しつつ、その足取りは弾むように軽やかだった。
それでいて視線は鋭く、絶えず周囲へと注意を向けている。警戒と高揚、その相反する感情を抱えたまま、迷いなく通路を進んでいった。
「うん、多分ここ」
ティナが立ち止まり、壁の隅に手を伸ばした。まるで長年そこに通い慣れた者のような自然さで、隠しスイッチを押す。すぐさま石壁が低いうなりを立てて動き、奥に新たな小部屋が姿を現した。
ミカヴェルがその暗がりを覗き込み、感嘆の息を漏らす。
「ここは……」
「ここはね、古代コムリコッツ人のベッドルームって呼ばれてる場所なんだ」
ティナは胸を張るように説明すると、真っ先に足を踏み入れた。
部屋は三メートル四方ほどの小さな空間。その床は、柔らかく盛り上がった膜に覆われている。
足を下ろすとぶにょりと沈み込み、波紋のように揺れた。光苔の塗料は薄く、壁や天井を淡い青白さがぼんやり照らし出している。眠るための空間にふさわしい薄明かりだ。
ティナは躊躇することなく、その中へと勢いよく飛び込んだ。
「わーい! きっもちいーい!」
その衝撃で床は波のようにうねり、ぐにょんぐにょんと柔らかく揺れる。
「俺ぁ苦手なんだがなぁ……この感触はよ」
眉をひそめるブラジェイに、ティナはくるりと振り返って信じられないものを見るように目を見張る。
「えー! つるすべでぽにょぽにょしてて、気持ちいいのにー!?」
「文句があるなら、ジェイだけ外で寝てればいいさ」
ふっと笑みを浮かべたユーリアスの挑発に、ブラジェイはむっとしながらも足を踏み入れた。
「おめぇなぁ……そういうわけにもいかねぇだろうが」
ぼやきながら頭をガシガシとかき、沈む床をむにょりと踏みしめる。
すぐ横でユーリアスが小さく「心配性め」と呟き、即座に「うるせぇ」と返す声が響いた。そのやり取りに、ティナがきょとんと首を傾げる。
ミカヴェルはそんな三人をよそに静かに床に膝をつき、指先で感触を確かめていた。
「古代人ベッドルーム……これも本で読んだことはありましたが、確かに形容できない手触り……体験した者でないとわかりませんね」
撫でるとするすると滑り、押すと柔らかく沈み、離すとすぐに形を取り戻す。無機物とも生物ともつかぬ反応に、彼の知識欲は抑えきれず、瞳を輝かせていた。
「同じ場所に集中したら、めり込んじゃうから気をつけてね! なるべく均等に散らばって寝よ!」
ティナが楽しげに注意を促した瞬間、ブラジェイが真っ直ぐに彼女を見据える。
「おい、ティナ。お前は一番端っこに行け」
唐突な指示にティナは不満そうに眉を寄せる。
「なんで? まいっけど」
ティナはそのままゴロゴロと転がり、部屋の端へと移動していく。するとすぐ隣に、当然のようにブラジェイが腰を下ろした。ユーリアスはそんな様子を面白がるように笑みを浮かべ、その隣に寝転ぶ。
残された反対側にはミカヴェルが身を横たえ、四人が揃って横たわった。盛り上がった床は、全体が生き物のようにぐにょぐにょと揺れる。
「ああ、これは……母親の胎内にいるような、そんな安心感がありますね」
「わ、うまいこというなぁ! そうそう、そんな感じ!」
「そんな感じだぁ? 母親の腹ん中なんぞ覚えてなんてねぇくせによ」
「もう、うるさいなぁ。イメージだってば!」
青白い灯りが壁を淡く照らし、部屋全体に静かな呼吸のようなリズムが広がる。柔らかく沈む床は生き物のようで、心臓の鼓動をゆっくりと同調させ、思わず瞼が重くなる。
「でも今日は本当に疲れたね……もう寝ちゃいそう……」
「おう、寝ろ寝ろ。口やかましいのが静かになれば、こっちも助かる」
「なにそれー!」
ティナは不満の声を上げたが、居心地の良さに負け、ぐにゃりと沈む床に身を預けた。
「よだれ垂らすなよ、ティナ」
「……もし垂らしたら、ブラジェイの服で拭いてやるんだから……」
「おまーな」
呆れたように振り返れば、ティナはすでに目を閉じていた。
すーすーと穏やかな寝息が漏れて、ティナの大きな胸が上下に揺れている。
「……ったく、いつまで経っても子どもだぜ」
ブラジェイが呆れたように笑いながら、小さく呟く。
「ジェイ、お前の方がよっぽど親に見えるが?」
ユーリアスがくくっと笑って言葉を重ねた。
「わざわざ端に追いやって隣を陣取るとは、大した過保護だ」
「そんなじゃねぇよ。俺が真ん中を広々使いたかっただけだ。チビは端っこで十分だろ」
「ふん」
鼻で笑ったユーリアスは、それ以上追及せずに天井へと視線を移した。やがて隣のミカヴェルからも、静かな寝息が響いてくる。
(幼馴染み、か……)
ユーリアスは心の中で小さく呟き、吐息を漏らした。
幼馴染みという間柄には、誰にも踏み込めない領域のようなものがある。
ブラジェイは決して過去を語ろうとはしないが、滅びたグリレル村の出身である以上、彼の背負ってきたものは容易に想像がついた。
残酷な過去を背負いながらも一言も漏らさず、軍を率い続ける姿。ユーリアスは内心で、そんなブラジェイを深く尊敬している。口に出すつもりは毛頭なかったが。
瞼を薄く閉じながら、ユーリアスは横目で隣の男を盗み見る。ブラジェイもまた、ぐうっと規則的な寝息を刻んでいる。
いつだって口先では突き放すくせに、行動は正反対。ティナを端にやったのも、結局は守りやすい位置を考えただけ。
本人がどこまで自覚しているかは怪しいが、無意識に彼女を庇い続けているのは明らかだった。
(……結局、放っておけないんだろうな。それが幼馴染みというものか)
ブラジェイがティナに抱いている感情が、単なる幼馴染みとしてのものか、兄のようなものか、あるいはもっと深い想いなのか……ユーリアスにはわからない。
ふと気づけば、ブラジェイがクロエと親しげに振る舞う姿を目にすることもあり、そちらには別の感情が潜んでいるようにも見える。
(掴めない男だな……ジェイは)
異性からも同性からも慕われている男だ。頼りがいがあり、どんな悩みもあっという間に吹き飛ばしてしまう力がある。デリカシーは皆無だが、それすらも彼の豪放さの一部として許されてしまう。
それこそが、ブラジェイという男の持つ、誰も抗えない不思議な魅力だった。
やがてユーリアスの思考も、柔らかく包み込む床のぬくもりに溶かされていく。
微睡みの中で、部屋には四人分の穏やかな寝息が、静かな調べのように重なり響いていた。




