290.なんで私に同意求めんのー!!
やがてスープの鍋が空になり、香ばしい匂いだけが静かに残った。片付けを終えると、ティナは小さな体を精一杯伸ばし、腰に手を当てて胸を張る。
「よーし、そろそろ行くよ!」
その言葉に、ブラジェイとユーリアスは無言で頷き、当然のように馬を引く。夜の冷気が肌を刺すが、三人の表情には疲れよりも期待の色が混ざっていた。
「行く? 夜通し走るんですか?」
「あはっ、まさか! ここにいたのは、アスが来るの待ってただけ! この寒い中で野宿なんてしなくても、近くにいいところあるんだ」
ティナは焚き火の残り火から松明を作り、馬を引きながら先頭を軽やかに歩く。その後ろに、ブラジェイとユーリアス、そしてミカヴェルが自然と続いた。
凍るような夜の空気を踏みしめる足音が、静寂の中にリズムを生む。
少し歩くと、古びた石造りの遺跡が視界に入った。しかし、その佇まいは「遺跡」と呼ぶにはあまりにも控えめで、威厳は薄い。
「コムリコッツの遺跡ですか……」
「どこにでもあるからね。便利だよ、遺跡」
「しかし遺跡は、慣れた者がいないと危険な場所ですよ」
ミカヴェルの声に、ティナはにっと笑った。その笑顔には、どこか挑発的な自信と、好奇心が光っている。
「任せて! これでも私、金策担当って呼ばれてるくらいには、遺跡に入ってるから!」
馬を近くの木にしっかりと括り付け、ティナは軽やかな足取りで遺跡に踏み込んだ。入口に触れると石の冷たさが手に伝わり、ティナの胸はわくわくと熱くなっていく。
薄暗い階段を下ると、ひんやりした空気が肌を撫で、遺跡独特の匂いが鼻腔をくすぐった。三人も後に続く。足音が石壁に反響し、さらにティナの好奇心を煽った。
入り口は小さく、見た目は狭いが、地下へと続いた階段の先には、迷路のような通路が広がっている。
「あ、ラッキー。光苔タイプの遺跡だ。松明はいらないね」
壁一面に光苔の塗料が塗られ、昼間のような淡い明かりを放っている。
その幻想的な光に照らされ、四人の影がゆらゆらと壁に伸びた。ティナは一度戻って松明に土をかけ、火を消すと、再び胸を張って前に進む。
「よし、行こう! まずはやっぱり、浄化の部屋だよね。どこかな?」
ティナの声には楽しさと期待が混ざり、地下に広がる静寂に響いた。空間を手でなぞるように観察しながら、確信をもって進んでいく。
壁や床の細かな凹凸、微かな湿気の変化、冷たい石の感触——すべてを五感で把握していた。
「その辺、適当に触れないでね。あと、私から離れちゃだめだよ!」
「へーへー、耳タコだっつーの」
「言われなくてもわかってるさ」
ブラジェイとユーリアスはうんざりした顔を見せるが、内心では警戒を怠ってはいなかった。遺跡では、なにが待ち受けているかわからないからだ。
「ミカヴェルもね!」
仲間として呼ばれたミカヴェルは、少し目を見張る。緊張と期待の入り混じった空気が、彼の胸に微かな高鳴りを生んだ。
「はは。遺跡初心者は、ちゃんと専門家の意見に従いますよ」
「うん!」
ティナは勢いよく進み、壁の微かな筋に指を沿わせながら隠し扉を見つけ出す。小さなスイッチに触れるとカチッと音がして、中へ入る道が開いた。
後ろを歩く三人には、来た道すら判別できなくなるほど迷路のような構造だ。それでもティナは、楽しげに「初心者にちょうどいい遺跡だね」と呟く。
「あった、この奥が浄化部屋だ」
彼女は声を弾ませながら指差す。部屋の入り口と言いながらも、そこは見た目にはなにもない、ただの壁だ。
静寂と光苔の青白い光だけが支配する空間——しかし、ティナにはその無音の中に確かな意味が読めた。
「どうしてここに、その部屋があるとわかるんです?」
ミカヴェルの問いに、ティナはにっと笑い、目を輝かせる。
「入り口からの階段の角度とか、これまでの通路や部屋の作り方でね。だいたい浄化部屋がこの位置にあるって、すぐに見抜けるんだ。まぁ慣れだね!」
「俺ぁ何度連れて来られてもわかんねぇけどな」
「俺もだ」
遺跡の構造を当たり前のように言い当てるティナに、ブラジェイとユーリアスはついていけず、顔を見合わせて苦笑した。
対照的に、ミカヴェルは「ほう」と感嘆の息を吐き、知識欲を刺激されたように目を細める。
「じゃ、入るよー」
ティナはそう言うと、壁の隠しスイッチに手をかけ、押し込む。石壁がゆっくりと横に滑り、重厚な音を立てて開いた。
その先には、なにも置かれていない正方形の部屋が広がっているだけだ。
「ここが……浄化部屋ですか?」
「うん、入って入って。真ん中に立ってね」
「浄化部屋か……俺ぁこれ、苦手なんだがなぁ」
「文句言わない! じゃ、起動するよー!」
ティナは小さな部屋の床に掌を置き、体全体で軽く圧をかける。するとまるで合図のように、入り口の扉が静かに閉じ、冷たい石の空間に沈黙が広がった。
その瞬間、床の上に大きな魔法陣が現れ、淡く光り始める。ほのかな蒼色の輝きが、部屋全体を照らしていく。
「これが、古代遺跡の魔法陣……! 本で読んだことはありますが……」
「体験するの、初めて? 面白いよー! 息はできるから、心配しないでね!」
「……え?」
ティナの声が空間に響くかと思うと、足元からゆっくりと、とろみを帯びた水が湧き上がり始める。
水は見る間に膝を越え、腰の高さまで盛り上がり、さらさらと音を立てながらも弾力のある質感で、まるで生きているかのように形を変えた。
「うへぇ。ねばねばして、相変わらず気持ち悪ぃぜ」
「そうか? この触り心地、割と癖になるが」
「さっすがアス、わかってるぅ!」
言葉を交わしている間に、水は一気に腰を越え、さらには胸元まで達した。冷たさに混じる微かな温かさが、奇妙な安心感を伴い、同時に異質な緊張感をもたらす。
「確かに、粘り気があると言いますか……けれどもぷるぷるしていて、弾力がある。これが浄化の部屋……」
「知ってる? これでおトイレと洗濯と、お風呂が一気に──ぶくぶくぶく」
背の低いティナは、真っ先に頭まで水に飲み込まれる。沈んだティナの楽しげな表情が見えた。
ミカヴェルはまだ沈んでいないブラジェイとユーリアスに顔を向け、目線でティナを示す。
「これで息ができてるんです?」
「そうらしいぜ。俺はつい止めっちまうけどな」
「最初は少し難しいが、水の中と思わなければ普通にできるようになる。ジェイは頭が硬いのさ」
「うっせ、てめ!」
ミカヴェルは天井を見上げた。高さは十分ではなく、長身のユーリアスなら手を伸ばせば届きそうだ。液体は圧迫感はないがとろみがあるため、足を動かすことすらすでに困難。泳ぐことなど到底不可能だ。
その液体は、容赦なく四人を包み込む。ミカヴェルの驚嘆の表情、ブラジェイの嫌そうに息を詰める顔、ユーリアスの落ち着いた表情、そして笑みを絶やさないティナ——異なる感情が同時に部屋を漂う。
そして液体が天井に達した瞬間、水位が急速に下がり、床に吸い込まれるかのように消えた。部屋は再び乾いた石の床と壁に戻り、静寂だけが残る。
「ぷはっ……! くそ、やっぱ俺は苦手だ……!」
真っ先に息を吐き出したブラジェイは、頭を振って乱暴に髪を払い、胸を上下させる。その仕草には、やっと普通の空気を吸えたという安堵が滲む。
「普通にしてればいいだけなんだがな」
ユーリアスはさらりと金髪を手櫛で後ろに流し、光苔の光に反射して輝く髪を整える。顔には疲労を感じさせず、清浄感に満ちた微笑が浮かんでいた。
「汗も泥も疲れも全部持っていってくれるし、すっきりしたな」
ティナはぴょんとその場で跳ね、にひっと笑った。
「うんうん、服もきれいになるし、髪もさらさら! トイレもお風呂も洗濯も、ぜーんぶ一気に終わっちゃうんだから!」
「……え?」
ミカヴェルは一瞬耳を疑い、次の瞬間、自身の身体の違和感に気づいて息をのむ。水のような液体に包まれるだけですべてが済むという、異常な便利さ——彼の理性が戦慄と好奇心で揺れた。
「つまり……排泄の必要すらなくなる、ということです?」
驚愕を隠せないミカヴェルに、ユーリアスが平然とうなずく。
「ああ。慣れるとこれ以上ないくらい便利だな」
「俺ぁ逆に調子狂って仕方ねぇぜ。やっぱ男なら、外でじょわっとションベしてぇだろ。なぁティナ!」
「なんで私に同意求めんのー!! 私は女だってばー!!」
「わはは!!」
「もーっ!! ほんっとデリカシーないんだから!!」
ティナが頬をふくらませて怒りをあらわにする一方で、ブラジェイはヒーヒーと声を上げて笑った。
そしてミカヴェルは口元に手を掛け、指先で鼻筋をなぞる。眼鏡の奥を鋭い光で輝かせながら、静かに思考を深めていく。
「しかし、これほど徹底的に『清浄』を施す仕組みだとは……本で読んだ知識以上でした。なるほど、これは確かに古代文明ならではの発想と技術力ですね」
「ほんと、すごいよね! あー、現代にもこういう技術があればいいのになぁ〜」
ティナは笑顔で扉を開けるが、ミカヴェルはその場で立ち止まり、眼鏡の奥で静かに視線を細めた。
青白い光がレンズに反射し、口元が微かににやりと歪む。その顔には、実験者の冷たい好奇心と、計算された戦略家の影が潜んでいた。
「ミカヴェル?」
「素晴らしい……戦の合間にこれを一度挟むだけで、兵士の動きは見違えるでしょうね……」
その声音には抑えきれない熱が混じっていて、普段の柔らかな態度とはまるで別人のように聞こえる。
ブラジェイは横目で彼を確認し、呆れた表情を見せた。
「言っとくが、遺跡を拠点に軍事利用は難しいぜ。通路も部屋も狭ぇから、大人数での利用は無理だしな。少数で来たところで意味はなさねぇよ。そもそもプロがいねぇと、浄化部屋にも辿り着けねぇで終わるだけだ」
ティナも頷きながら意見を口にする。
「そうだね、大人数だとどうしても後方が分断されて危ないし……魔物も出たりするから、余計な疲労が溜まるだけだと思う。だから大規模な軍事利用はされてないんじゃないかな」
二人の言葉に、ミカヴェルは眼鏡をきらりと反射させた。
「そんなことは百も承知ですよ。要は使い方次第でしょう」
冬の風よりも冷たく鋭い声音に、ティナたちの背筋はぞくりと震える。
「やっぱてめぇ……参謀軍師だな」
「あはは。今頃気づきました?」
次の瞬間には、ミカヴェルはへらりとした笑顔に戻っている。
ティナは彼の得体のしれなさに一瞬息を呑みながら、むうっと口を尖らせる。
「ねぇ。遺跡は、軍事利用するための施設じゃないよ!?」
「はは。わかっていますよ」
「……っ、うー!」
わかっていると言われてしまっては、それ以上なにも言えなかった。
ティナは胸の奥にくすぶるもやもやを抱えながら、次の目的の部屋に向かって歩き出した。




