289.なんでこんなの好きになっちゃったかな!?
日が西に傾き、冬の空は柔らかな橙色に溶け込んでいた。山の稜線が長く影を引き、細い道を横切る。山から吹き下ろす風は鋭く、頬に刺さるたびに小さく震えた。
馬を止めると、三人は寒空の下で焚き火の準備を始めた。
ティナは手早く馬を繋ぎながらも、指先に力が入りすぎて小さく震えている。身体にまだ残るブラジェイの温もりを思い出し、胸の奥がぎゅっと締め付けられて、しばらく呼吸を整えた。
やがて火が灯り、柔らかな橙の光が三人の顔を包む。パチパチと小枝がはぜる音に混じって、ミカヴェルの小さな吐息が漏れた。
「まさか、この真冬に野宿ですか? ゾッとしませんねぇ……」
ぶるっと身を震わせるミカヴェルを見て、ティナは自然と立ち上がり、自分用の携帯毛布を取り出した。柔らかい布が風を遮り、暖かさを与える。
「どーぞ!」
「……いいんですか?」
「だってあなた、毛布持ってないでしょ?」
「それはそうですが……」
ミカヴェルがティナを見上げ、驚きと戸惑いが入り混じった表情を浮かべる。彼のそんな顔に、にぱっと微笑みながらティナは頷いた。
「だいじょーぶ、気にしないで!」
「……お人好しですね。ありがとうございます」
火の上で鍋を揺らし、ぐつぐつと具沢山のスープが煮える。香りは冷たい空気をほんのり甘く染め、木々の間を漂った。
ティナがふとブラジェイを見やると、ハッと気づいて声を張り上げる。
「ちょっと、香辛料入れすぎだってば!!」
止めようとするティナを尻目に、ブラジェイは気にせず香辛料を足している。
「ったく、小うるせぇんだからよ。パンに浸した時、こんくれぇはねぇと物足りねぇだろうが」
「も〜〜っ」
頬を膨らませるティナとは対照的に、ブラジェイにはどこか楽しげな余裕すら滲んでいる。
その瞬間、ティナは不意に立ち上がり、暗闇をじっと見つめた。
「どうした、ティナ」
即座にブラジェイも立ち上がり、剣の柄に手をかる。鋭い空気が火の周りを包んだ。
「誰か来るよ。蹄の音がする」
「複数か?」
「ううん、一人」
まだ誰の姿も、音ですらも、ブラジェイやミカヴェルには届いていない。ティナだけの感覚が、薄暗い光の中で微かに反応していた。
「……わかるのですか?」
ミカヴェルの問いに、ブラジェイがヘッと笑う。
「こいつの索敵能力は、カジナル軍一だぜ」
「それはそれは」
ミカヴェルがじっとティナを見つめると、その顔が急にパッと明るく輝き始める。
「ブラジェイ、アスだよ! 匂いがする!」
「ようやく追いついて来やがったか。アス! こっちだ!!」
ブラジェイの声が夜空に響き渡る。蹄の音が近づき、そのリズムに乗せて火はゆらゆらと揺れた。
夜の闇を割いて現れたのは、予想通り、ユーリアスだ。
「ティナ、ブラジェイ!」
馬上から響くユーリアスの声に、ティナは胸を撫で下ろし、自然と肩の力が抜けた。
「アス! 無事でよかった……!」
ティナの安堵の声に、ユーリアスは馬を降りながら笑みを浮かべる。
「ガキにやられるほど落ちぶれちゃいないさ。問題ない」
「ま、おめぇがやられるとは思っちゃいねぇよ。しかし、あの赤髪……どうだった?」
ブラジェイの声に、ユーリアスの表情が少し引き締まる。真剣な目が焚き火の揺れる影の中で光った。
「負けることはないさ……だが戦っている間に、急成長を見せていた。末恐ろしいのは間違いない」
ユーリアスの言葉を聞いたブラジェイが、ミカヴェルへと目を向ける。
「ほーう。さすがあんたの兵器だな。ミカヴェルさんよ」
静かに立ち上がったミカヴェルは、焚き火の光に反射した眼鏡のまま、ユーリアスを見据えた。
「約束は、守ってくれたでしょうね」
その言葉に、ユーリアスは首肯する。
「当然だ。傷ひとつすらつけちゃいないさ」
「……いいでしょう」
「やはりあの赤毛のガキが、あんたの言ってた〝兵器〟か」
「ええ。詳しいことを言うつもりはありませんがね」
それだけを伝え、ミカヴェルは言葉少なに座った。
その顔は── 喜びを隠せない表情ながら、どこか観察者の余裕を漂わせていた。
「うん、じゃあ食べようよ! 今できたところだったんだ」
鍋の湯気がゆらりと立ち、香辛料の匂いがほのかに鼻腔をくすぐる。ティナは小さな器に熱々のスープをすくい、ブラジェイとミカヴェルにそっと手渡した。
ユーリアスもその温もりに、端正な顔をほころばせる。
「寒い中飛ばしたからな……体が冷え切っていたんだ」
「熱いから、気をつけてね!」
スープを口に運ぶと、寒さでぎゅっと縮こまっていた身体が、ふわりとほどけるようだった。口の中で香辛料の刺激と肉や野菜の甘みが混ざり合い、心までじんわり温かくなる。
ミカヴェルは眼鏡を曇らせながら、静かにスープを味わっていた。
「この香辛料の味付け……フィデル国ならではですね。懐かしい」
ティナも自分の器を覗き込み、熱さに小さく息を吐いた。パンをちぎってスープに浸し、柔らかく温かいその感触に、四人は静かに心を和ませる。
「雪降らなくて、よかったよね」
「まったくだ。昼間は雲っていたが、今は星も出て……綺麗だな」
そう言いながら、ユーリアスの視線は星ではなく月へと向けられていた。
彼の耳元のピアスとお揃いの、空に浮かぶ三日月。淡い銀色が焚き火の暖かさと対照的に輝いている。
ティナも思わず空を見上げ、リザリアのことを静かに想う。
(今も……ユーリアスは、リザのことが好きなんだろうな……)
ユーリアスは一生誰とも付き合わず、過去の恋人を追い続けそうだと、ティナは考えていた。
同時に、ティナは隣に座るブラジェイをちらりと見やる。恋人を亡くしたのは、ブラジェイも同じだ。
(きっとブラジェイも……シンシアとシャノンを、忘れるはずがないよね……)
胸が締め付けられる。けれど、同時に心の奥で小さく芽生える期待もあった。
ブラジェイは、シンシアが亡くなって一年後、シャノンと付き合い始めていた。村の空気や人々の期待が後押ししたことも確かだろう。
しかしそうでなくとも、ブラジェイはユーリアスと違い、また誰かと付き合うような気がしていた。それはティナの勝手な願いに過ぎないかもしれないが。
(ブラジェイは、二人を忘れたりはしない。だけど、ちゃんと前を向ける人だもん。いつか私に特別な気持ちを持ってくれる日が──)
視線を受け取ったのか、ブラジェイがゆっくりとティナを見下ろす。冬の焚き火の光に映る彼の瞳は、いたずらっぽく光っていた。
「どうしたぁ? ティナ。ションベンについて来てほしいのかよ」
「ちょっ!! 違うからー!!」
わはは、と笑うブラジェイの腕に、ティナは思わずバシッと手を振り下ろす。情緒のかけらもない彼の無邪気さに、頬が自然と膨らんだ。
(こんなんじゃ、私が真剣に告白しても、ただの冗談だと笑い飛ばされちゃうだけだー!)
現状では、可能性はゼロに等しい。せめて、もう少し意識してもらってから……とは思うものの、関係は一向に進んでいない。
(うう……ブラジェイが私を好きになる可能性なんて……あるのかな……)
そんな沈んだ心を見透かすかのように、ブラジェイがティナの頭をガシガシと撫でる。
指先の力強さに、ふわりと胸が温かくなった、その矢先。
「おい、膀胱破裂するまで我慢すんな」
胸が温かくなってしまった自分を、ティナは一瞬で後悔した。
(なんでこんなの好きになっちゃったかな!? 私ーーぃっ!!)
ブラジェイは鼻で笑いながら、ティナを見下ろす。
「暗ぇのが怖いんなら、一緒に行ってやるよ。俺はお前がションベンタレの頃から知ってるからな、今さらだぜ」
「誰がションベンタレよ、同い年でしょー!! お漏らしなんてしたことないからー!!」
「おう、そうだったか? ぶはははは!」
ブラジェイはゲラゲラと腹を抱えて笑う。ユーリアスも思わず笑みを浮かべ、ティナを見つめていた。
むうっとティナがむくれていると、ようやく笑いを収めたブラジェイが、ふっと真顔になって言葉を放つ。
「だがよ、一人で行くんじゃねぇぞ。気にせずいつでも呼べや」
「ちょ、気にするに決まってんでしょー!!」
「わはは、女みてぇなこと言いやがる!」
「女だってばーーっ!!」
ぽかぽかとブラジェイを叩いても、その分厚い体に痛みは通らない。ティナは内心で歯がゆく、焦れったさを募らせる。
(もうーー! せめて女として見られたいのにーっ!)
告白のタイミングもつかめず、ため息を吐くティナ。そんな彼女の様子を、ユーリアスはやはりニヤニヤとした笑みで見守っていた。




