288.そんなに笑わないでよ、もう〜〜
自分の馬である、ヴァルゴランという栗毛の馬に騎乗したブラジェイは、次にティナへと目を向けた。
「おめぇは射やすいように後ろに乗れ、ティナ」
「うん!」
ティナは馬の脇で軽く踏み込み、体を跳ね上げる。手をブラジェイの肩に添え、後ろへ滑るようにしてストンとヴァルゴランの背に降りた。
それを見たミカヴェルは軽くのけぞると、わずかにほうっと息を出す。軽やかに着地したティナに、子どものような目を向けた。
「これは素晴らしい。惚れ惚れするような跳躍力ですね」
「えへ、そう!?」
「調子に乗るんじゃねぇ。ちゃんと脅しとけ」
ブラジェイが肩越しに振り返り、呆れた口調で告げる。ティナは「もう〜」と小さく鼻を鳴らし、ミカヴェルに向かって横顔を向ける。
「これも仕事だからね! ちょっとでも怪しい動きしたら、本当に射っちゃうよ!」
「ふふ、それもまた楽しみですねぇ」
ミカヴェルの言葉にブラジェイもティナも呆れて、毒気はすっかり抜かれてしまった。
「……まぁ、警戒だきゃあしとけ」
「わかった」
「あと、ちゃんと掴まっとけよ」
「ん」
ブラジェイが馬を操り始めると、ティナは彼の腰に腕を回す。背中に伝わる筋肉の張りと振動に、心臓が早鐘のように打つ。
目の端で確認すると、ミカヴェルも斜め後ろを軽やかに追ってきていた。
大丈夫そうだ、と思った矢先、ブラジェイが明らかに嫌そうな顔で後ろを向く。
「おい……」
「ん!?」
「胸、押し付けんじゃねぇよ」
「ちょ! 押し付けてないよ!!」
反射的に手を離して身を引いたティナは、勢いで後ろに倒れそうになった。
「わっ──!」
「おいっ!」
ブラジェイは咄嗟に片腕を伸ばし、ティナの腰をぐいと引き寄せる。倒れかけた瞬間に抱え込まれ、ティナの顔は一気に赤く染まる。
「な、なにすんの!」
「落ちるところを助けてやったんだったろうが! 手ェ離すな、バカ!!」
「バカって……なによぉ……」
ブラジェイは怒ったまま前を向き、そして──
「しっかり掴まってろ。もう落ちんじゃねぇぞ」
そう言って、鼻息をふんっと吹き出した。
いつものぶっきらぼうな態度に、ティナの悪戯心がむくむくと湧き上がってくる。
「いいの? 私の胸、おっきいから当たっちゃうよ?」
「落ちられるよかマシだ。我慢してやる」
「我慢って、なにをかな〜?」
むっふーと茶目っ気たっぷりに笑うティナに、ブラジェイは上から見下ろす。
「気持ち悪さをだ」
その瞬間、バシッと小気味いい音が風に乗った。
「怒るよ!!」
「もう怒ってんだろが!」
背中を叩かれたブラジェイは、すかさず言い返した。
その様子を、ミカヴェルはケラケラと笑いながら眺めている。
「なるほどなるほど。いやぁ、そういうことですか。若さとは実に滑稽なものですねぇ」
「なんだてめぇ、バカにしてんのかぁ?」
「いえいえ、まさか」
彼は天を仰ぎ、肩越しに風を感じながら声を伸ばす。
「羨ましいくらいですよ。私は二十代を森の中で過ごしましたからね。それはそれで楽しかったのですが」
その言葉が胸に引っかかったティナは、不意に尋ねた。
「……フィデルで会いたかった人、いる?」
視線を天から戻し、ミカヴェルは小さく呟くように答える。
「そりゃあ、いますよ。誰よりも努力家なので、無理をしていないか心配でね」
光を反射した眼鏡に隠れて、その瞳はわからない。
そんなミカヴェルをじっと見つめていると、ブラジェイがティナの手をパシリと掴んだ。
「ちゃんと手ェ回しとけや。早目にここから離れてぇからな。ちょいと飛ばすぜ」
「……ん」
ブラジェイの腰に腕を巻き付けられたティナは、大きな背中にそっと頬を寄せた。
二つの柔らかなものが、意図せずその背中へと密着する。馬の揺れに合わせ揺れるたび、意識しすぎて心臓は跳ね上がった。
腕を回して抱きしめる手は、ブラジェイの腹筋や胸筋の隆起を確認できる。幼馴染みとはいえ、じっくりと触れるのは初めてだ。
(ぎゃー、ブラジェイの……腹筋! 胸筋っ!!)
いくら幼馴染みだからと言っても、こんなにじっくりと触ったことなどない。
触ってはダメだダメだと思うほど、指先に全集中してしまう。
(夏とか、水浴びの時に見たことはあるけど……っ)
川辺で見た背中は、とにかく大きく、肩や腕、胸の筋肉が力強く盛り上がっていた。腹筋も分厚くゴツゴツしていて、胸の厚みと相まって、まるで岩を積み上げたかのような迫力がある。腕や肩の筋もくっきりと浮き、動くたびに線が揺れていた。
思わず『すっごい筋肉!』と笑いながら無遠慮にぺちぺち叩いていたものだ。
しかし今触れるそれは、温もりと硬さが間近に迫る別物だった。逃げ場のない距離で感じる背中の厚みと熱は、心臓を破裂させそうなほどの鼓動を呼び起こす。
(ちょっともう、私、意識しすぎぃーっ)
指先で筋肉の凹凸を確かめるたび、胸の高鳴りはさらに増す。駄目だと意識するほど、指は無遠慮に溝を辿ってしまう。
(やばい、落ち着け……! 絶対バレたくないーー!)
密着する胸が馬の揺れに合わせて否応なく存在を主張し、ブラジェイの背中と擦れ合う。もしこの鼓動まで伝わっていたらと思うと、指先がますます震え、不自然にもにょもにょと腹筋を刺激した。
「……なにやってんだ、おめぇ……」
呆れたようなブラジェイの声が前方から流れてきて、ティナの指先がびくりと止まる。
(ぎゃーー、バレちゃったーー!!? そりゃバレるよねーー!?)
心臓がさらに悲鳴を上げる中、ティナは慌てて言い訳する。
「ちゃ、ちゃんと鍛えてるかチェックしてあげてんの!」
「……ま、いいけどよ」
「いいんだ」
ティナが気の抜けた声で思わずこぼすと、ブラジェイはぶっと吹き出した。
「ったく、おめぇはー!」
「え、えへっ?」
そのティナの笑いに、ブラジェイの声はさらに大きく弾けた。
「わはははははははっ!!」
「そ、そんなに笑わないでよ、もう〜〜……っぷ!!」
ティナも耐えられずに吹き出し、二人分の笑い声が風に乗って舞い上がっていく。
蹄の音と風のざわめきに包まれ、ティナはブラジェイの背中にぴったりと密着して抱きしめた。
馬の振動に身を任せると、胸がかすかに擦れ、柔らかくゆさゆさと上下に揺れる。
ブラジェイの温もりが手や体に伝わるたびに、ティナの心臓は早鐘のように打ち、胸の奥が熱く疼いた。
(風は冷たいけど……ブラジェイとなら平気だなぁ)
ティナはそっと目を閉じ、深く息を吸った。
昔から変わらぬ、広くて大きな背中。それでいてわかりにくい優しさが、心の奥までじんわりと染み渡る。
己の鼓動の速さを感じながらも、腕に巻き付けた彼の筋肉の感触や、密着する胸のあたたかさに、幸福感が胸いっぱいに広がった。
けれど、その心地よさと同時に、ほんの少しの切なさが胸をかすめる。
(えーん、やっぱ……ブラジェイのことが好きだよぉ〜〜……)
好きだと言ってしまえばいいのに、と頭ではわかっている。
けれど、その言葉を口にする勇気はどうしても出ず、胸の奥でぐっと押し留められたまま、声にはならなかった。
馬は疾走を続け、冬の冷たい風が二人の頬をかすめていく。
背中越しに伝わる温もりと風のひやりとした感覚が入り混じる中、後方のミカヴェルはどこか遠くを見つめていて──
雪のない冬の道、冷たい風と温かい密着が交錯する中。三人は静かに、そして確かに前へと進んでいった。




