287.待たなくていいの?
魔の森を抜けると、冬の空が広がっていた。降りそうな灰色の雲が低く垂れ込め、冷たい風が頬を刺す。
それでも森の中の薄暗さに比べれば、随分と明るく、空気も少し軽やかに感じられた。
馬を繋いでいるのは、森の影響が届かない、もう少し先の安全な場所だ。まずはそこを目指して歩き出す。
「ねぇ、アスは待たなくていいの?」
先頭をずんずんと進む彼に、ティナは声をかけた。
「行き先はおんなじだ。そのうち追いついてくんだろ」
まったく心配する様子のないブラジェイは、足取り軽く前を進む。背中から漂う安心感。しかしそれでもティナは立ち止まり、ふと後ろを振り返った。
背後に見える森は、枯れ枝や冬枯れの葉が冷たい風に揺れている。陽の光は届きにくく、深い影の底に何かが潜んでいるかのような気配があった。
「アス、大丈夫だよね?」
「お前に心配されるほど、あいつぁ落ちぶれちゃいねぇよ」
「でも、あの子がミカヴェルの〝兵器〟なんじゃないの?」
その言葉に、ブラジェイの肩が一瞬ぴくりと動いた。余裕の色が薄れ、冷たい視線が隣のミカヴェルに向けられる。
ミカヴェルは薄く笑い、歩を緩めもせずに答える。
「言い当てるとはさすがですねぇ。兵器と言ったのは、クロエでしょうけれど」
ブラジェイの目が鋭く光る。冬の霜のように冷たい視線で、ミカヴェルを捕らえた。
「お前はあのガキを、本当に兵器として育てたってぇのか?」
真に迫る問いに、ミカヴェルはへらりと笑って答える。
「精度はかなり高いはずですが、絶対という保証は世の中にはありませんよ。私は種を芽吹かせ、ほんの少し導いただけです」
「……よくわかんねぇな。んなことのために十一年間もストレイアにいたのかよ?」
「もちろん、種はそれだけではありませんがね」
ミカヴェルのクスクスとした笑いが、冷たい風に溶けるように響いた。ブラジェイは視線を逸らし、わずかに眉を寄せる。
気分を害したわけではない。ただ、これ以上関わりたくない、そんな気配が漂う。
ティナがブラジェイを気にして覗くと、ふと目が合った。すると彼はいつもの笑みをニッと浮かべる。
「まぁアスのやつは大丈夫だ。兵器とやらがどれだけの潜在能力を持ってるかは知らねぇがな。現時点では負けるようなことにはならねぇよ。馬だけ置いといてやりゃ、追っかけてくんだろ」
視界が開けると、三頭の馬が静かに繋がれていた。風に揺れるたてがみや、時折立ち上る白い息が、冬の澄んだ空気の中でくっきりと映える。
来るときに使った馬たちだが、今はミカヴェルもいるため、一人一頭で乗ることはできない。
「リュシアンはアスに置いていかなきゃでしょ? どうするの?」
ユーリアスの白馬、リュシアンに近寄り撫でながら聞くと、ブラジェイは当然のように答えた。
「ミカヴェルを一人で乗せるわけにゃあいかねぇだろ。俺の方か、ティナの方に乗せるしかねぇな」
ティナかブラジェイの二択。その状況に、ミカヴェルはケラケラと笑い始める。
「男同士で密着するのは、さすがに気持ちが悪いですねぇ。それもこんな大男となど、私は願い下げです」
「うっせぇ、そりゃあ俺だっておんなじだ!」
ギロッとブラジェイがミカヴェルを睨むも、彼は気にせずへらりと笑っているだけだ。その余裕に、ブラジェイの眉がわずかに寄る。
そんな二人のやり取りを見て、ティナは小さく息を吐いた。
「もう、仕方ないなぁ。じゃあ私がミカヴェルと一緒に乗る。それでいいでしょ?」
ティナの提案に、二人の視線が自然と集まった。ミカヴェルはふっと目を細め、微かに含み笑いを浮かべる。対照的に、ブラジェイはむすっと口の端を下げ、無言で不満を滲ませていた。
「ええ、私はそれで構いま──」
「いや、ダメだ」
ブラジェイの遮断に、ティナは目を見開く。
「え? どうして?」
「どうしてって、そりゃ……」
「なに?」
首を傾げるティナに、ブラジェイは息を吐いた。
「おめえが、チビだからだ」
唐突な罵りに、ティナは頬を膨らませ、感情の火花が散る。
「ちょっと! そんなに平手打ちが欲しい!?」
「待て、そういう意味じゃねぇ。ティナとミカヴェルじゃあ、体格差がありすぎるって話だ」
「それが、なに??」
首を捻るティナに、ミカヴェルはくすくすと笑った。
「あなたは意外にも心配性なんですねぇ……心配せずとも、落馬させたり背後から首を折るなどしませんよ」
ティナはその言葉を胸に留め、言葉を飲み込む。どう足掻いても、体格差は覆せない事実だ。
「しゃーねーな、やっぱミカヴェルは俺の馬に──」
「お断りです。気持ち悪い」
「てめぇな!! わがまま言うんじゃねぇ!!」
ブラジェイが青筋を立てるが、ミカヴェルは気にもせず受け流す。
「お二人が一緒に乗ればよろしいではないですか。私は一人でも馬を操れますし」
「それをさせられねぇから、こうして言い合ってんだろうがよ」
吐き捨てるようなブラジェイの声に、ミカヴェルはへらりと笑った。
「逃げたりなどしませんよ。私の帰るべき場所はフィデル国……なぜ逃げる必要があるのです?」
ブラジェイは少しだけ肩の力を抜き、ひとつ息を吐き出す。
「……まぁいい」
ブラジェイは仕方なく一頭の馬をミカヴェルへと差し出した。その肩にはわずかに不満が残るが、今はそれ以上言い争うつもりもない様子だ。
「乗れ。おかしな動きはするなよ。逃げれば、ティナがお前を矢で射抜く」
「え、私!?」
「準備しとけ」
「勝手だなぁ、もうっ!」
ブラジェイの言葉に、ティナは急いで自分の馬の側に駆け寄る。馬に掛けられた袋から、弓と矢を手早く取り出して背中に装備した。
狩る者としての覚悟が、ティナの身体を駆け抜けていく。
「こいつの弓の腕を甘く見るなよ。逃げられるとは思わねぇこった」
「だから逃げませんって」
ミカヴェルは肩をすくめて困ったように笑うと、ひらりと馬に跨った。その動きを見て、ブラジェイもすぐに自分の馬へ飛び乗る。
冷たい風が頬を打ち、馬の蹄が地面を踏みしめる音が静かに響いた。




