286.撒いていくさ
後ろから追いついてきた少年──カール。
その左手には、剣を収めた鞘が握られていた。
木々の隙間を縫うように駆けてきたその姿に、森の冷たい空気がほんの一瞬、ざわめく。ブラジェイは振り返り、ニヤリとした笑みを浮かべた。
「なんだぁ? そんなもん持って。やるってのか?」
冬の森は冷たく、枝の間から差す光もわずかだ。
地面は凍りつき、踏むごとに霜を砕く音がかすかに響く。
そんな中を、木々をかき分けて疾走してきた赤髪の少年。
まだ十五、六歳にしか見えないが、その目には大人顔負けの鋭さが宿っていた。
「お前ら、本当にストレイア兵なのかよ!? 名前を聞かせてもらいてぇな!!」
カールの声が、冷たい森の空気を切り裂く。
ティナは当然のように胸を張って答えた。
「名前? 私はティナだよ!」
「あ、ティナ!」
「バカ野郎っ」
堂々と本名を告げてしまったティナに、ユーリアスは慌てた表情を見せ、ブラジェイは眉を吊り上げて怒りを露わにする。
「あ……やば」
言葉にするも、もうあとの祭りだ。
ブラジェイは「しゃーねぇなぁ」と諦めたように頭を掻く。ユーリアスは深く息を吐き出して、カールの方へと視線を向けた。
「俺の名は、アス」
「俺ぁジェイだ」
嘘と本当を織り交ぜた自己紹介。だが、赤髪の少年は納得することなく、声を張り上げた。
「所属はどこだよ!」
「言う必要はねぇなぁ。これぁ極秘任務だからよ。誰に聞いても知らねぇと言うぜ?」
「お前もこの件は黙っていることだ。誰かに話せば、お前だけじゃない。家族の首も飛ぶぞ」
「……ッぐ!」
できれば穏便に立ち去りたい。これは、そのための脅しだ。
周囲の空気は重く、カールは言葉を詰まらせながら、鞘を握る手に力を込めている。しかし疑いの色は、少年の瞳にくっきりと浮かんでいた。
「ねぇ……どうするの?」
ティナは息を潜め、カールに聞こえないように二人に囁く。
「相手の出方次第だろ。ティナ、おめぇはミカヴェルが変な動きしねぇか、見張っとけ」
「りょーかい」
ティナが頷いた刹那、少年の声が森を裂いた。
「ミカを離せ!! そいつは行かせねぇ!!」
カールがためらいもなく剣の柄を掴んだ瞬間──
ドンッッッッ!!
雷鳴にも似た衝撃が、大地を震わせるように走った。
凄烈な圧で、森そのものが軋みざわめく。
ティナの呼吸は喉で途切れ、心臓がひやりと凍りつく。
──もし自分が狙われていたら。
足は鉛のように動かず、視線ひとつ外すことすらできずに、立ち尽くすしかなかっただろう。
しかし少年は、わずかに後ずさる一歩で耐えている。
対するブラジェイは、気圧されるどころか呆れた声をあげた。
「おいおい。熱くなんなよ、アス」
「熱くなんかなってないさ。このお子様に、身の程を教えてやろうと思ってね」
「えー、アスだって青二歳じゃん」
「お前は黙ってろ、ティナ」
「あたっ」
体格のいいブラジェイに小突かれたティナは、テヘッと言いながらぺろりと舌を出す。
ユーリアスは微動だにせず、鋭くカールを見据えたまま言葉を続ける。
「剣を抜けば、叛逆の意思有りとみなすぞ。そうなれば俺も抜かざるを得ない。その意味が、わかるな?」
「……っ」
カールは剣を握ったまま、唇を引き結ぶ。
剣を握り続けてきた者なら、この瞬間の圧力で相手の実力を察することは容易い。
少年の立ち居振る舞いには、修練を積んだ者ならではの確かさがある。彼がユーリアスの強さを肌で感じ取っていることは疑いようもなかった。
それでも意を決したカールの瞳には、揺らぐことのない決意が宿っていて──
彼は、スラリと剣を抜いた。
「……馬鹿が」
苛立ち混じりの声が空気を切った。ユーリアスの声に、ブラジェイは釘を刺すような視線を送る。
「おいアス、殺すんじゃねぇぞ。面倒んなるぜ」
「わかってる。ミカヴェルを連れて先に行ってろ、ジェイ。適当に時間を稼いでから追いつく」
「つけられんなよ」
「撒いていくさ」
当然のように言い放つと、ユーリアスはスラリと剣を抜き、その切先を迷わずカールに向けた。
確かに、ここで誰かが少年を足止めする必要がある。三人だけなら問題はないが、ミカヴェルを連れて進むとなると、撒くのは容易ではない。
ティナとブラジェイは互いに視線を交わして、短く頷き合った──その時。
「アスと言ったか」
低く響く声が、冬枯れの森の静寂を切り裂く。
ミカヴェルの声だと、誰もすぐには気づけなかった。
さっきまでの軽やかだった態度は一変し、凍てつくような冷気を帯びた視線がユーリアスを射る。その鋭さは、もはや尋常ではなかった。
「彼は私の最高傑作だ。傷ひとつつけてくれるな。でなければ私は、貴様らに協力しない」
背筋を凍らせる圧。ユーリアスは一瞬驚いたが、微動だにせず応じる。
「……っは。グランディオル様の本領発揮といったところか。任せとけ。怪我なんかさせずに終わらせるさ」
余裕すら見せて答えたユーリアスに、カールは迷いなく剣を振りかざす。
「ミカは行かせねぇッ!!!!!!」
「ふん、ヒヨッコが」
上段から振り下ろされる剣を、ユーリアスは軽く受け流す。
一撃目を見届けた後、ミカヴェルは背を向け、ブラジェイとティナもすべてをユーリアスに任せて歩き出した。
「待て!! ミカーーッ!!」
直後に聞こえる、剣戟。
その音と少年の叫びを背に、ティナたちは凍てつく森の中を、息を潜めながら進んでいった。




